第十三章 犯人露出
医務院へ向かう廊下は、昼でも夜でも似た色をしている。
白い壁、白い床、角の丸い金属の手すり。人の命に近い場所ほど色を減らしたがるのかもしれない、と真壁彰は思った。だが実際には逆だ。色のない場所ほど、感情は隠れるだけで消えない。むしろ形を変えて残る。
小さな打ち合わせ室には、すでに全員が集まっていた。松本が窓際に立ち、神明は机の端に写真封筒を置いている。木下はメモ帳を胸の高さで持ったまま落ち着かずに立ち、二階堂は壁にもたれてネクタイを指で少しだけ緩めていた。
真壁は最後に入った。手には透明な証拠袋がある。中には、胃から回収されたラミネート片が入っていた。
真壁に渡して。
表に見える文字は短い。短いくせに、この数日、誰の言葉よりも重く残り続けている。
ただ今は、それだけではない。膜の下には、胃酸と時間で遅れて浮いた別の筆致がある。解剖台の上で、初めて意味を持つよう仕組まれた文字だった。
松本が机を指先で軽く叩いた。
「長くやるな。置くだけ置いて行くぞ。本郷はまだ整った顔で出てくる」
誰かの喉がごくりと鳴る。
「崩すのは感情じゃない。順番だ」
「分かってる」
真壁は答えた。
「論理のまま行く」
医務院の奥へ向かう廊下は、相変わらず白い。だが今はもう、ただの白には見えなかった。ここは死体が制度へ受け渡される場所であり、その受け渡しの途中に誰かが立っている場所でもある。その名前は、もう真壁の中で揺れていなかった。
*
本郷剛史は、副院長室ではなく、解剖室脇の白い会議室にいた。
個室より会議室。私室より制度の場。いかにも本郷らしい選び方だと真壁は思った。自分の感情の匂いがなるべく残らない場所で、人はときに一番本性を出す。
本郷は長机の向こう側に一人で座っていた。背筋はまっすぐで、ネクタイも乱れていない。机の上にはファイルが一冊、ペンが一本、水の入ったグラスが一つあるだけだった。余計なものがない。その整い方が、今はかえって異様に見える。
「どうしました」
本郷は真壁たちが入ってきても、立ち上がらなかった。
「随分な人数ですね」
真壁は本郷の正面に立った。松本が少し右へ、二階堂が壁際へ、木下が入口側へ、神明は机の端へ資料を置ける位置に立つ。誰かが命じたわけではない。自然にそうなった布陣だった。
「確認したいことがある」
真壁が言う。
「仮説の確認なら、長くは付き合えませんよ」
本郷は穏やかに返した。
「今日は別件もありますので」
「長くはならない」
真壁は言った。
「本郷剛史先生。九条雅紀を殺し、臓器搬送の流れを管理していたのはあなたですね」
本郷の左眉がぴくりと動く。瞬き一つ分遅れて、目じりに皺が寄った。
「なんのことでしょう」
神明が写真を一枚だけ差し出す。
「腹部打撃と前頸部刺激痕。吐かせようとした形だ。逆位の胃位置を外していない」
本郷は写真を見た。
「医務院内の人間なら、共有されうる知識です」
「それだけならな」
真壁が証拠袋を持ち上げる。
「九条は事前にラミネートを作って飲んだ。犯人は吐かせようとした。しかもこれは、ただのメッセージじゃない。……本郷先生、あなたが渡してくれたものです」
真壁は袋を机の上へ置き、角度を変えた。表の文字の下に、薄く褐色の筆致が浮いている。
本郷 保冷層 旧港番
本郷の目が、そこで初めて一瞬だけ止まった。
「胃酸で遅れて出るインクだ」
神明が言う。
「解剖台に乗る未来まで計算してる」
「九条は、自分の死体が誰の手に戻るかを知ってた」
真壁は低く言った。
「しかもその相手にしか違和感として立たないように残した」
本郷はすぐには返さなかった。
ほんの一拍。
その遅れで十分だった。
松本が次の紙を出した。
「港湾補助便の枝番。拘置所死亡案件と留置・収容下死亡の周辺日にだけ重なる。継続だ」
二階堂が続ける。
「初報記事は広報前に骨格が出来てる。整える側に人がいた」
そこに、ほんの一瞬だけ余波が残る。
堀島は必要かと思って九条の後ろに立ち続けた。
二階堂は外周で言葉を整える役へ戻るしかなかった。
中心にいたのは、結局別の人間だった。
真壁は最後の紙を置いた。
「保冷搬送容器の管理表。保冷層の夜間開錠ログ。復元した港湾伝票。マスターカードは本郷さんのものだ。署名も一致した」
木下が入口の前で息を殺しているのが分かる。
この場で必要なのは、劇的な推理ではない。
もう読者も、こちらも、十分知っている。
必要なのは最後の一押しだけだ。
「ここへ立てるのは、本郷先生しかいない」
本郷はグラスへ手を伸ばし、水を一口だけ飲んだ。動きはゆっくりだ。考える時間を作っている。その時間の作り方が、さっきまでの制度的な受け答えから少し外れている。
「面白い」
本郷が言った。
「ここまで繋げたのは感心します」
木下の肩が小さく強張る。
真壁は動かない。
「雅紀は、たしかに厄介な男でした」
本郷は続けた。
「死者は通常、確認され、処理され、次へ渡される。あの男はそこへ意志を持ち込んだ」
「壊したのはあんただ」
真壁が言う。
「九条は止めようとしただけだ」
本郷は初めて、真壁へはっきりと敵意を向けた。怒鳴るでもない。睨みつけるのでもない。ただ、相手を下等な誤解の中にいる者として見る冷たい視線だった。
「死体は人間ではない」
本郷は静かに言った。
「確認され、処理され、次へ渡されるものです」
そこで一度止める。
「雅紀はそこへ、個人の意志を持ち込んだ。だから危険だった」
「臓器の横流しも、その流れか」
松本が低く言う。
本郷はそちらを見ない。
「必要なものが、必要な場所へ渡る。その過程で表の手続きに乗らない層が生じることはある」
「便利な言い方だな」
二階堂が吐き捨てるように言った。
「便利ではありません。現実です」
本郷は即座に返した。
「あなたも整える側でしょう、二階堂さん。言葉を整え、流れを整える。違いますか」
二階堂の顔が一瞬だけ歪む。だが何も返さない。
本郷はそこへ乗らなかった。
自分を守るために長い演説を始めるような男ではない。必要な分だけ言い、あとは相手に返させる。それが本郷の強さだった。
「雅紀は違った」
本郷は言った。
「あの男は死体から制度へ逆流させようとした。監察医としては優秀だった。だから危険だった」
「違う」
真壁は言った。
「九条は残そうとしただけだ」
本郷は答えない。
ここで長く論じても仕方がない、と真壁は思った。
本郷の思想はもう見えている。
それ以上喋らせれば、この男はもっと整ってしまう。
真壁は証拠袋を持ち上げた。
「九条は俺たちが外堀から埋めていけるように促した」
低く、はっきりと言う。
「血文字も、凶器も、胃の中のこれも、全部起点だ」
一息つぐ。
「そしてその起点が、全部本郷先生にしか辿り着かない」
本郷は黙った。
その沈黙が、何より大きかった。
「本郷さん」
真壁は静かに言った。
「あんたで終わりじゃないのは分かってる。港も、搬送も、記録も、全部あんた一人じゃ回らない」
一拍置く。
「でも始まりは、ここだ」
真壁の声に、そこだけ少し熱が乗る。
「九条をここまで追い込んだのも、九条に死んだあとまで働かせたのも、あんただ」
本郷は答えない。
「……終わらせない」
真壁が強く言う。
目の前の男は、ただ白い会議室の中央に立ったまま、整った副院長の顔を崩さない。
崩れないからこそ分かる。
この男は小物ではない。
露出してもなお、自分の立っていた場所ごと動かさない種類の人間だ。
この事件にふさわしい、制度の奥で死体を材料へ変え続けてきた真犯人。その冷たさと整い方が、最後にようやく同じ顔として見えた。
真壁はその顔を見たまま思った。
追い詰められた犯人の顔ではない。
死を受け渡し、記録を薄め、次へ流すことを正しいと信じてきたものの顔だった。
白い部屋の中央で、本郷の顔だけが静かに露出していた。
*
会見室の空気は、最初から少し熱を持っていた。
庁舎三階の記者会見室は普段と同じ形をしている。白い壁、横長の机、中央に並べられたマイク、背後に掲げられた警察の紋章。特別なものは何もない。ただ、この日だけは席の埋まり方が違った。社会部の記者だけではない。テレビ局のカメラが三列並び、フラッシュのテスト光が壁を白く跳ね返している。
前列には全国紙、地方紙、通信社。後ろには週刊誌、ネット媒体、フリーの記者。事件が港と医務院と拘置所死亡案件に繋がる可能性があると分かってから、報道の数は一気に増えた。
まだ開始時刻の数分前だが、室内はすでにざわめいている。
扉が開き、数名の職員とともに二階堂壮也が入った。
広報課のスーツは、いつもと同じ濃紺だった。ネクタイも乱れていない。だが顔の下半分だけが、わずかに固く見える。数日前からほとんど眠っていないことを、知っている人間にはすぐ分かる顔だった。
二階堂は机の中央に立ち、資料を一度だけ整えた。
「それでは、本件についての説明を行います」
声は落ち着いていた。広報の声だ。感情の色が極力削られている。記者たちが一斉にペンを持ち、カメラの赤いランプが点灯する。
「本日未明、医務院副院長であった本郷剛史容疑者を、殺人および証拠隠滅等の容疑で逮捕しました」
フラッシュが一斉に焚かれる。
二階堂は続ける。
「事件の概要については、これまでの発表と大きく変わるものではありません。監察医が医務院内で襲撃され、死亡した事件について、捜査の結果、本郷容疑者の関与が強く認められたため、逮捕に至りました」
言葉は滑らかに続く。事実関係、時系列、現在の捜査状況。港湾側の調査、関連資料の押収、今後の捜査方針。すべて整理された文章だった。広報課で何度も推敲された言葉だ。
質疑の時間に入ると、すぐに手が上がった。
「副院長が関与していた理由について、警察はどう見ていますか」
「現在も捜査中のため、詳細は差し控えます」
「港湾企業との関係はどこまで確認されていますか」
「その点も含めて調査を進めています」
「拘置所死亡案件との関連は」
「個別の案件についての言及は控えます」
二階堂は一つ一つ答える。淡々と、整った言葉で。広報の仕事は、事実を整理し、余計な温度を外して社会へ渡すことだ。そこに個人の感情は入れない。それが仕事の作法だった。
だが、その質問が出た時、二階堂の指先が一瞬だけ止まった。
「被害者の監察医九条雅紀さんについて、警察はどのように評価していますか」
会見室の空気がわずかに変わる。
九条の名前が出た瞬間、カメラの角度が少し変わったのが分かった。数台のレンズが一斉に中央へ寄る。
想定問答どおりなら読めるはずだった。
なのに九条の名前だけは、文面にならなかった。
二階堂は視線を一度だけ資料へ落とした。そこに書いてある文章は短い。短いが、読み上げるだけなら簡単なはずの文だった。
「彼は……九条雅紀は……」
そこで、ほんの一瞬だけ喉が詰まる。
自分でも分かるほど短い沈黙だった。だが静かな会見室では、それがはっきりと形になった。記者の何人かが顔を上げる。フラッシュの準備音が微かに鳴る。
二階堂は一度だけ息を吸い直した。
「……職務を全うした監察医です」
それだけだった。
それだけの言葉なのに、声がほんのわずかに震えていた。
次の瞬間、フラッシュが一斉に焚かれる。カメラのシャッター音が重なる。記者たちが顔を見合わせる。会見室の空気が一気にざわついた。
二階堂はその場で目を閉じた。
ほんの一秒ほど。
それからゆっくりと頭を下げた。
「申し訳ありません」
会見室が静まる。
「個人的感情が出ました」
頭を上げ、もう一度マイクを見た。
「広報として適切ではありません」
そこで少し間を置く。自分の声を元の位置へ戻すための間だった。
「ただ」
二階堂は続けた。
「一つだけ申し上げます」
記者たちがペンを止める。
「現在、事件に関するさまざまな情報が流れています」
声は、もう揺れていなかった。
「しかし、詳細についてはまだ捜査中の部分が多くあります」
カメラのランプが赤く光る。
「どうか」
二階堂はゆっくりと言った。
「被害者の名誉を損なうような憶測は控えていただきたい」
それだけだった。
長い演説でもない。感情的な言葉もない。ただ短いお願いだった。
二階堂はそのまま深く頭を下げた。
フラッシュがもう一度焚かれる。
誰もすぐには質問を出さなかった。
やがて司会の職員が静かに言った。
「以上で本日の会見を終了します」
マイクの電源が落ちる音がした。
会見室のざわめきが一気に戻る。
カメラマンが走り、記者たちが電話をかけ、ノートパソコンが開かれる。会見の映像はすぐに各社へ送られるだろう。ニュース速報が流れ、SNSが騒ぎ、世論が動く。
だがその喧騒の中心から離れた場所で、二階堂はまだ机の前に立っていた。
資料をゆっくり閉じる。
手の震えは、もう止まっていた。
広報の仕事は終わっていない。
だがその瞬間だけは、制度の顔ではなく、一人の人間として九条の名前を口にしたことを、二階堂自身もまだ理解しきれていなかった。
会見室の照明が少し眩しかった。
その白い光の中で、二階堂は小さく息を吐いた。




