終章 九条の遺したもの
朝の港は、夜よりも音が遠い。
働いている人間の数は増えているはずなのに、空気が冷えるぶん、音だけが水の向こうへ引いて聞こえる。クレーンの金属音、低く長い汽笛、コンテナを載せ替える車両の唸り。どれも届いているのに、何か一枚、薄い膜を挟んでいるようだった。
真壁彰は、防波堤の手前にある管理道路の端で立ち止まった。
海は灰色だった。空もまだ同じ色をしている。白くなる前の時間帯は、物の輪郭だけが先に見えて、色はあとからついてくる。濡れたアスファルトには夜の冷えがまだ残り、岸壁の縁には白く乾いた塩が細く線を引いていた。
岸壁の向こうには、いつも通りの港がある。積み上げられたコンテナ。動き続けるクレーン。補助便の出入りする通路。海に面した倉庫の壁。何も変わっていないように見える。
だが真壁には、もう別の場所に見えていた。
九条が最後に凶器を外へ投げた瞬間、この場所は単なる現場周辺ではなくなった。医務院の内側で閉じるはずだった事件が、ここへ触れた時、別の線を持った。
足音が近づき、隣に二階堂壮也が立った。スーツの上に薄いコートを羽織っている。広報の人間らしく整った格好のまま、目の下だけがはっきり疲れていた。
「こんなとこに呼ぶの、趣味悪いな」
二階堂が言う。
「呼んだ覚えはない」
「じゃあ、来た俺の趣味が悪いのか」
「それは前からだろ」
二階堂は鼻で笑い、海を見た。
しばらく、どちらも喋らなかった。
本郷剛史は落ちた。
正確には、露出した。
逮捕と押収と事情聴取が進み、医務院も港湾側も朝からひっくり返っている。だがその騒ぎの音は、ここまでは届かない。届いても港の低い唸りに吸われてしまう。
真壁は、会議室で白い机の向こうに座っていた本郷の顔を思い出していた。崩れたのではない。剥がれたのでもない。制度の顔と、死体を材料と呼ぶ顔が、最初から同じ位置にあったと分かっただけだった。
本郷は交点だった。重要な交点だ。
だが交点は終点ではない。
「九条はお前を選んだ」
二階堂が、不意に言った。
真壁は海を見たまま答えない。
「まだ言うか」
「消えない事実だろ」
「選んだ、って言い方は好きじゃない」
「俺も好きじゃない」
二階堂の声は平らだった。
「でも、お前に渡してって書いた。俺には何も残さなかった」
「起点だ」
真壁が言う。
「答えじゃない」
「分かってる」
二階堂はすぐ返した。
「分かってるから腹が立つんだよ」
風が少し強くなる。コートの裾が揺れ、海面に細い筋が走った。
二階堂はポケットに手を入れたまま言った。
「俺は最後まで外周だった」
確認するような声だった。
「火がどう燃えるか見て、どこを遅らせるか考えて、広報と会見で時間を稼ぐ。必要だったのは分かる。でも中心じゃない」
「中心にいたいのか」
「今さらそんなこと言わねぇよ」
二階堂は小さく笑った。
「ただ、あいつらの速度に乗りたかっただけだ」
真壁は何も言わない。
「……あいつ、ほんと嫌な奴だよな」
二階堂が言う。
「違う」
真壁は言った。
「ただ、医者だっただけだ」
二階堂が目を細める。
「その言い方、反則だろ」
「そうか」
「そう」
二階堂は海へ向き直った。
「嫌な奴、で済ませたいのに」
沖の水面に、朝の薄い光が鈍く差し始めていた。コンテナの角だけが先に白み、倉庫の壁はまだ夜の色を残している。
「お前も自分で動いた」
真壁が言う。
「知ってる」
二階堂は少し苛立った声で返した。
「だから腹が立つんだよ。駒だったなら、まだ楽だった」
「楽か?」
「少なくとも言い訳にはなる」
真壁は小さく息を吐いた。
「でも」
二階堂が続ける。
「九条は俺を信用してなかったわけじゃないんだろうな」
「してなかったら、ああはならない」
二階堂は苦笑した。
「信じたんじゃなくて、見てたんだ。俺がどこで腹を立てて、どこで引けなくなるか」
真壁は海を見た。
港の音は続いている。低く、しつこい。誰か一人が捕まった程度で止まる音ではない。
「本郷で終わらない」
二階堂が言う。
真壁は頷いた。
「終わらない」
「港湾企業の別担当も動いてる。補助便の責任も、たぶん本郷一人に押しつける方向で出る」
「だろうな」
「行政側も同じだ。説明がつく形に整えようとする」
「お前が一番分かるか」
「ああ」
二階堂は即答した。
「整える側は、いつも似た顔をしてる」
真壁は岸壁の向こうを見た。
あの夜、九条は刺されたあと、凶器を奪って外へ投げた。
最初は腹を開かせないためだと思った。それは間違っていない。だが、それだけなら外である必要は薄い。相手の手元から遠ざけるだけなら、もっと近くでもいい。なのに九条は、岸壁寄りへ出した。
「事件の場所を、外へ残したんだ」
二階堂が振り向く。
「場所?」
「凶器が院内に残れば、内部事件で終わる」
「外へ出れば」
「港事件になる」
二階堂は少し黙り、低く言った。
「……ああ」
「血文字だけじゃ個人の恨みに寄る。ラミネートだけじゃ個別証拠になる。凶器が港に残れば、事件は院内で閉じない」
二階堂はゆっくり息を吐いた。
「とことん嫌な設計だ」
「そうだな」
「死んだあとまで、自分の事件の置き場所を決めてる」
真壁は海を見た。
「九条は死ぬつもりだったんじゃない」
二階堂は黙っている。
「でも、死ぬ可能性まで使った」
煙草を出しかけて、二階堂はやめた。
「助かりたかったんだろうな」
「たぶん最後まで」
風が吹き、港の低い音が少し近くなった。
「普通の人間の発想じゃねぇよ」
「普通じゃない」
真壁は言った。
「医者だ」
二階堂は苦い顔で笑う。
「便利な言葉だな」
「便利じゃない」
真壁は海を見たまま言う。
「人の身体がどう残るかを、最後まで考えたってことだ」
二階堂は黙った。
港の向こうで大きな船がゆっくり動き出す。クレーンの先端灯が朝の空にまだ残っている。完全な昼にはなっていない。境目の時間だった。
真壁は柵へ手を置いた。冷たい。
九条は死んだ。
その事実は変わらない。
助かれたかもしれない、と考えてしまう。だがその全部は遅い。
九条は最後まで助かる線を探していた。刺され、奪い、投げ、腹を守り、動けるだけ動いた。
それでも死んだ。
そして死んだあと、何も残らない形にはしなかった。
真壁はようやく、自分が受け取ったものの形を見た気がした。
ラミネートも、血文字も、外へ出た凶器も、短い文も。
全部が同じ方向を向いている。
答えではない。
次へ渡る形だ。
「真壁」
二階堂が言う。
「何だ」
「これ、まだ続くぞ」
「知ってる」
「港湾企業、補助便、行政、広報。まだいくらでも出る」
「知ってる」
二階堂は少し間を置いた。
「……じゃあ、行こっか」
「どこへ」
「次へ」
「嫌な言い方だな」
「似合ってる」
二人は少しだけ同じ方向を見た。
港の音は続いている。
終わっていない音だった。
あの夜、凶器が外へ投げられた時から、この事件は医務院の内側だけでは閉じなくなった。
水際に残された軌道は、まだこちらを指している。
九条は答えを残さなかった。
残したのは、先へ渡る形だった。
遺言ではない。
継承だった。
(了)
読んでくださってありがとうございます。
本作は拙作アコンプリスシリーズのパラレルワールド作品です。
【ランキング入り作品】
・『哭島列車と五骸童子』完結済
童歌になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条
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・『十二灯館は、誰の罪を照らすのか』完結済
十二の灯とともに、人が殺される。
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・『雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか』完結済
わらべ歌になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条、江口
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過去の事件『七禍』になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条、鳳
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登場:真壁、二階堂、九条、鳳、江口
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