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解剖台の継承者 ――殺された解剖医は、胃の中に最後の証拠を残した  作者: 二条理|アコンプリス


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第十二章 交点

 鑑識室の蛍光灯は、どの部屋より白い。

 神明がいる場所だからそう見えるのかもしれない、と真壁彰は思った。感情の温度を持ち込まない人間の机の上では、紙も写真も白さだけが先に立つ。凶器写真、血痕図、投擲位置の再測定図、動線の補正図。壁際のボードに並んだそれらは、事件の残酷さではなく、事件がどこまで正確に残るかだけを示していた。

 木下は入口の横で資料を抱えたまま立っている。椅子は空いていたが、座る気になれないらしかった。松本はすでに中央の机に肘をつき、神明の手元を見ていた。真壁は最後に入り、いちばん白板が見える位置に立った。二階堂は少し遅れて入ってきて、壁際の棚へ薄いファイルを置いた。広報用ではない、内部共有用の顔をしている。

「再整理した」

 神明が言った。

「ただし今日は、最初から最後まで説明しない。既出は削る。条件だけ並べる」

 神明はホワイトボードへ向き直り、黒いマーカーで短く書いた。

 一 九条は事前準備していた。

 二 胃内容物にラミネート片。

 三 犯人は吐かせようとした。

 四 犯人は逆位の胃位置を外していない。

 五 凶器は九条が奪って外へ投げた可能性が高い。

 六 港湾補助便と拘置所死亡案件は複数回で重なる。

 七 医務院保冷搬送容器の記録は不正。

 八 副院長室端末と解剖室補助端末に修正ログ。

 そこで神明はマーカーを置いた。

「ここまでは、もう全員知ってる」

 木下が少しだけ肩の力を抜く。たしかにそうだ。ここへ来るまでの数日で、全員が同じ断片を別々に掴んできた。だから今さら、胃薬、防水袋、食堂で食べていなかったこと、逆位、吐かせようとした所見、その全部を一からなぞる必要はない。

「で、問題は交点だ」

 松本が言う。

「誰が、全部に立てる」

 真壁は白板を見た。

 身体。

 胃。

 解剖。

 港。

 過去案件。

 搬送。

 書類修正。

 この数日、自分たちはずっとそれぞれの線を太くしてきた。今夜やるのは、線をもう増やすことではない。重ねた時に、誰が最後まで残るかを見ることだ。

 神明が新しい封筒を机へ出した。

「追加がある」

 真壁が目を上げる。松本も腕をほどいた。

 神明は封筒の中から、端末ログの復旧結果と、医務院の保冷保管庫の入退室記録を並べた。数字ばかりの、見た目には味気ない紙だった。

「前に出したのは、保冷搬送容器の貸出記録と修正ログだ。今日はもう一段奥」

 神明は一枚を指で叩く。

「臓器保存用の低温保管庫。旧層は解剖室の通常カードじゃ開かない。副院長権限のマスターカードがいる」

 木下が顔を上げる。

「副院長だけ、ですか」

「少なくとも常時運用カードはそうだ」

 神明は言う。

「で、港湾補助便の枝番が出てる日だけ、この保管庫の夜間開錠ログが復活してる。全部、本郷のマスターカード認証だ」

 部屋がしんとした。

 神明はさらに紙を一枚ずらした。

「堀島の補助端末ログは確かにある。だが、あいつが触ってるのは修正済み管理表の入力層だけだ。保管庫の実開錠権限は持ってない」

「じゃあ堀島は」

 木下が言いかける。

「今のところ、下流だ」

 松本が言った。

「流れの全部は持てない」

 神明が続ける。

「もう一つ。港湾側の補助便伝票、修正液の下を読んだ」

 新しい写真が机に置かれる。

 白く消された欄の下に、赤外撮影で浮いた筆跡が見える。流れるような癖のある署名だった。

「本郷の署名と一致」

 真壁の中で何かが一段深く落ちた。

 これまでは交点だった。条件だった。そこへ立てる者が本郷しかいない、という論理だった。

 だが今、そこに個別の決定打が加わった。

 副院長権限の保管庫開錠。

 港湾補助便伝票の消し込みの下にある署名。

 もう、長い流れを管理していた人間が誰かは揺らがない。

「臓器の密輸が、秘密裏に行われていた」

 二階堂が低く言った。

 言葉は広報のものではなく、確認のための言葉だった。

「医務院の中から」

「そうだ」

 真壁は答えた。

「しかも単発じゃない。継続してる。過去案件の処理層と港湾補助便が繋がってる」

 木下が乾いた声で言う。

「じゃあ、九条先生はそこに触った」

「触った」

 松本が頷く。

「だから消された」

 堀島の名前は、もう机の上に主役としては残らなかった。

 身体には近い。九条の逆位も、腹部打撃の意味も、吐かせようとした意図も読める。感情もあっただろう。疑う理由も、たしかにあった。

 だが、流れ全体を持てない。

 港の古いルートも、保管庫の夜間開錠も、承認印も、修正液の下の署名も、そこまで含めて立てるのは一人しかいない。

 真壁はそこで、堀島の顔を一瞬だけ思い出した。

 九条の次の一手を先回りして、必要かと思ってと差し出してきた若い解剖医。

 届きたかったのだろう、と思う。九条になりたかったのだろう、とも思う。

 だが、届いていたのは身体までだった。

 港も、過去案件も、保冷層も、流れ全体を持つ位置にはいなかった。

 その事実は、論理としては整理がつく。だが人物として見ると、少しだけ痛かった。

 神明がその下に、短く一行だけ足した。

 九 本郷マスターカード開錠ログ/港伝票署名一致

 もう十分だった。

 怪しいからではない。

 嫌な感じがするからでもない。

 条件と実証が、同じ一点へ落ちる。

「本郷しかいない」

 真壁は言った。

 誰も反論しなかった。

 堀島では足りない。

 二階堂では足りない。

 神明でもない。

 真壁でもない。

 本郷しか、ここへ立てない。

 白板の文字だけが、やけに乾いて見えた。

      *

 沈黙を切ったのは、二階堂だった。

「で」

 壁にもたれたまま、真壁を見る。

「そろそろ見せれば?」

 真壁は動かなかった。

 何のことを言われているのか、もちろん分かっている。

「お前が持ってることはみんな知ってる」

 二階堂は続ける。

「その顔で隠し通せると思うなよ」

 木下が思わず真壁を見る。松本は何も言わない。神明だけが、最初から分かっていた顔のまま机上の写真を揃えている。

 真壁はしばらく黙っていた。

 胃から回収されたラミネート片。

 九条が最後に残した、真壁に渡して、の一行。

 あれをここまで出さなかったのは、惜しんでいたからではない。自分でもまだ、それをどこまで読んでいいのか決めきれていなかったからだ。

 あれは証拠である以前に、九条からの直接の手触りに近すぎた。

「出せ」

 松本が静かに言った。

「もうここまで来た」

 真壁はようやく、ジャケットの内側へ手を入れた。

 薄い保護ケースを取り出し、中から証拠袋を机の中央へ置く。

 ラミネート片は蛍光灯の下で、相変わらず薄く、無機質に光っている。

 表に見える文字は短い。

 真壁に渡して

 それだけだ。

 その短さのくせに、この数日ずっと重かった。

 木下が息を呑む。

「実物……」

「写真で見てたのと違うな」

 二階堂が言う。

「もっと嫌だ」

 真壁は何も返さなかった。

 神明が作業灯を引き寄せる。

「角度、変えるぞ」

 神明が光を斜めから当てた。

 表の文字は変わらない。

 だが、光の筋が膜の上を滑った瞬間、真壁は一瞬だけ違和感を覚えた。

 文字の下に、なかったはずの何かがいる。

 傷ではない。

 膜の曇りでもない。

 もっと細い、沈んだ線だ。

「……待て」

 真壁が言った。

 木下が顔を寄せる。

「何ですか」

 神明は無言で袋を受け取り、裏返し、さらに角度を変えた。

 すると、ごく薄い褐色の筆致が、膜の奥からじわじわ浮いてきた。最初からそこに書いてあったものが、いま初めて見えるようになった、としか言いようのない出方だった。

 二階堂が顔をしかめる。

「は?」

 真壁も思わず身を乗り出した。

 そんなものは、前には見えなかった。

 見逃したのか。

 いや、見逃したという感覚とも違う。なかったはずだ。少なくとも、自分が見た時には、ここは白いままだった。

 浮いてきた文字は、さっきの表書きより細い。

 解剖所見の略記に寄せた、短い書き方だ。

 だが、意味は明確だった。

 本郷 保冷層 旧港番

 一息に読める長さではない。

 九条らしい、短く削った書き方だった。

 だがそれで十分だった。

 木下が目を見開く。

「……本郷」

 二階堂が真壁を振り向く。

「お前なんでこんな大事な書き込み気づかなかったんだよ!」

「えっ、いや、待て」

 真壁は本気で動揺していた。

「こんなの、あったか? 見逃してた? いや、なかっただろ……」

 自分の声が少し上ずっているのが分かった。

 あの夜から何度も見た。

 袋越しにも、ケース越しにも、作業灯の下でも見た。

 それでもなかった。

 少なくとも、見えてはいなかった。

 神明が袋を光へ透かし、短く言った。

「マイクロカプセル化pH応答インクだな」

 その声だけは平らだった。

「酸に触れて、一定時間後に発色するようになってる。胃酸で保護層が崩れて、時間差で出たんだろう」

 一同が黙る。

「まじか……」

 木下が、ほとんど呟きみたいに言った。

「そこまでやったのかよ」

 二階堂も、さすがに毒を少し失っていた。

「どんだけだよ、あいつ」

 そして小さく、半ば呆れたように言った。

「あいつ、俺を選ばなかったくせに、ちゃんと動く場所は残してる」

 真壁はラミネート片から目を離せなかった。

 表には、真壁に渡して。

 裏には、遅れて浮く本郷の指示。

 最初から二段だったのだ。

 まず、真壁に届かせる。

 そのうえで、解剖と胃酸を経て、時間差で本命を出す。

 途中で犯人に見られても読めない。

 回収直後にもまだ読めない。

 一定時間が過ぎて、ここまで辿り着いた時にだけ開く。

「答えを隠してたんじゃない」

 真壁が低く言った。

「開く順番まで組んでた」

 松本が腕を組んだまま頷く。

「血文字と同じだな。誰でも読める形じゃ残さない。けど、辿った先では逃がさない」

 神明が補足する。

「しかも、所見略記に寄せてる。一般の目には読みにくい。解剖に近い人間だけが一度引っかかる」

「本郷 保冷層 旧港番」

 二階堂がそのまま読み上げた。

「もう十分すぎるだろ」

 十分だった。

 すでに本郷しかいないところまで絞れていた。

 そこへ今、九条本人の時間差の指示が落ちた。

 論理だけでなく、九条がそこを見ていたことまで確定した。

 真壁の喉の奥が、じわじわ熱くなる。

 怒りではない。

 悔しさでも、悲しさでも足りない。

 もっと遅れてくる理解の痛みに近い。

 あいつは、ここまで一人でやったのか。

 自分が刺される可能性。

 腹を開かれること。

 胃酸に触れること。

 回収直後にはまだ見えないこと。

 その全部を計算に入れて。

「お前なんで気づかなかったんだよ、は撤回しないけど」

 二階堂が言った。

「でも、これは普通気づかねえよ……」

 真壁は苦く息を吐いた。

「俺もそう思う」

「いや、そこはもっと反省しろ」

 二階堂が返す。

 木下が小さく笑いかけて、すぐ真顔に戻る。

 笑っていい場面ではない。だが、それでも少しだけ空気が動いた。

 九条の設計があまりに執拗で、そこに一瞬だけ呆れるしかないからだ。

「じゃあ、もう確定ですね」

 木下が言う。

「本郷です」

 真壁は頷いた。

 もう疑いの比較ではない。

 堀島に見える部分はあった。

 二階堂に見える部分もあった。

 だが、それらは全部、本郷へ辿る途中の影にすぎなかった。

「本郷しかいない」

 真壁はもう一度言った。

「しかも、九条自身がそこを指してる」

 白板の条件。

 保冷庫の開錠ログ。

 港伝票の署名。

 臓器密輸の流れ。

 そして、時間差で浮き上がったラミネートの追記。

 もう崩れない。

      *

 しばらく誰も動かなかった。

 動けば次は追い込みになる。

 本郷を呼ぶ。

 突きつける。

 崩す。

 その前の最後の静けさが、部屋の中にあった。

 神明がラミネート片を新しい保護ケースへ戻しながら言う。

「正式写真、撮り直す。発色後の状態で証拠化しとく」

「頼む」

 真壁が答える。

「会見対応は全部引き直しだな」

 二階堂が低く言った。

「医務院内部不正、臓器密輸、過去案件、港。外へ漏れたら一気に崩れる」

「崩れさせるな」

 松本が言う。

「本郷を押さえるまでは」

 二階堂は頷いた。

 さっきまでの皮肉は、もう薄かった。

 ここまで来ると、受け取る側も語る側もない。ただ同じ一点を見ている。

 木下が白板を見つめたまま言う。

「九条先生、最初からここまで……」

 真壁は答えなかった。

 最初から、という言い方で足りるのか分からなかったからだ。

 九条は答えを寄越したのではない。

 順番を残した。

 しかも、途中で誰かに潰されることまで見込んで、二段、三段に分けて。

 表の文字。

 真壁に渡して。

 それだけでも重い。

 だが、その下にさらに遅れて本命を浮かせるやり方は、もう執念というより構造だった。

「言い残したんじゃない」

 真壁が、誰に向けるでもなく言った。

「死んだあとも働くようにしただけだ」

 松本が短く頷く。

「捜査開始装置だな」

「嫌な装置だよ」

 二階堂が言う。

「ほんとに」

 木下はラミネート片を見たまま、少しだけ唇を結んだ。

 若い刑事の顔だった。だがもう、ここまで来ると若さだけでは済まない。九条が何をしたか、その異様さも、その冷たさも、少しは見えてしまっている顔だった。

 真壁は白板の前に立った。

 条件はもういらない。

 交点もいらない。

 そこに立つ人間の名は、すでに出ている。

 本郷剛史。

 副院長。

 古い流れを知る者。

 港へ繋ぐ者。

 保冷層を開ける者。

 九条の身体条件を知る者。

 そして、秘密裏の臓器密輸を回していた中心。

 真壁はゆっくり目を閉じた。

 ここまで来るのに、九条は自分の死を何段階使ったのだろう、と一瞬だけ考える。

 血文字。

 凶器投擲。

 胃の中のラミネート。

 時間差インク。

 その全部で、ようやく本郷に辿り着かせた。

 答えを直接渡されなかったことが辛いのではない。

 そこまで一人で行って、そこまで計算して、最後まで黙っていたことが辛いのだ。

 自分が殺されるかもしれない、その時にどう残せば届くかまで考えさせてしまったこと。

 その冷たさを抱えたまま、九条が一人で準備していたこと。

 その全てが遅れて胸へ来る。

 だが今は、そこで止まれない。

 松本が椅子を引く音がした。

 二階堂がファイルを閉じる。

 木下が息を整える。

 神明が保護ケースの端を揃える。

 部屋の中では、もう次へ進む準備が始まっている。

「本郷を抑える」

 真壁は言った。

 自分の声が、思ったより静かだった。

「論理は崩れない」

 松本が答える。

「広報は抑える」

 二階堂が言う。

「補助資料、すぐまとめます」

 木下が続く。

「発色後写真、五分で出す」

 神明が最後に言った。

 真壁は頷いた。

 本郷を捕まえる。その先へ行く。

 九条が残した設計を、ここで止めない。

 それだけはもう迷わなかった。

 白い机の上で、ラミネート片だけが薄く光っている。

 表と裏、二段に分かれた筆致の下に、九条の最後の意志がまだ働いていた。

 九条は名を遺さなかった。

 その代わり、誰も逸らせない順番を遺した。

 そして、その順番の先に立っている人間は、もう一人しかいない。


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