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解剖台の継承者 ――殺された解剖医は、胃の中に最後の証拠を残した  作者: 二条理|アコンプリス


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第十一章 ほの候補

 医務院の説明室は、解剖室のすぐ隣にあるくせに、死体の匂いが少し薄い。

 完全に消えているわけではない。消毒液と紙と、金属の冷えた匂いの奥に、どこか有機的な気配が残っている。ただ、それが一歩遠い。だから人はここで、身体を「所見」として話すことができるのだと思う。隣の台に乗っているものを、言葉の順番に置き換えるための部屋だった。

 真壁彰が入った時、神明はすでに現場写真の束を机へ広げていた。木下は入口近くの椅子に浅く腰かけ、いつでも立てるような姿勢で座っている。堀島岳斗は壁際のモニターの前に立ち、ノートパソコンを開いていた。白衣の袖を肘までまくっている。仕事に入っている時の堀島は、年齢より数歳上に見える。若さが消えるのではなく、若さの上に別の緊張が載る。

「照合いいか。本部の見解と、そっちの見解と突合せたい。準備は?」

 真壁が言うと、堀島は頷いた。

「概ね。神明さんの写真整理と合わせたほうが早いと思って」

 神明が写真を一枚持ち上げる。現場の床に落ちた血痕の分布、壁際の動線、凶器の位置関係。神明はいつも通り、写真を感情のない順番で並べる。

「乱闘じゃないことは断定可能です」

 神明が言った。

「暴力の方向が散ってない」

 木下が首を傾げる。

「散ってない、って」

「揉み合いなら、顔、肩、腕、脚、外れた方向へ打点がばらける。今回は腹部に偏ってる」

 神明は別の写真を出した。解剖所見の概略図と照らしたマーキングが入っている。腹部の複数箇所に、同じ側へ寄る打撃が重なっていた。

「刺創のあとに入った鈍的外力がある。殺害の延長というより、別の目的で重ねてる感じがある」

 真壁はそこで堀島を見た。堀島は神明の説明を聞きながら、もう次の言葉を選び終えている顔をしていた。

「普通なら、ずれる位置なんです」

 堀島がモニターに腹部の模式図を映した。胃、肝、脾、腸。簡略化された図の上に赤い印がある。

「九条先生は内臓逆位でした。一般的な位置関係と左右が逆です。乱暴に腹部を打てば、狙ったつもりでも外すことがある。でも、今回の打撃はそこを外していない」

 木下が顔を上げた。

「外して、いない」

「はい。少なくとも、何度も繰り返して偶然こうなったというより、最初からその位置を分かっていた側の打撃に見えます」

 真壁の視線が止まる。神明が形を置き、堀島がそこへ意図を当てる。その早さが、単なる優秀さの範囲を少し越えて見えた。

「吐かせようとしたこと、人体に詳しいことの証左です」

 堀島は続けた。

「刺したあと、腹部に集中的な圧力をかけている。目的が殺害そのものなら、もっと別の箇所へ散ってもおかしくない。でも今回は、胃内容を上へ戻す方向に力が重なっている」

「前頸部にも刺激痕があります」

 神明が補った。

「強い絞扼ではない。咽頭反射や嘔吐反射を誘発する接触の痕跡として読める」

 説明は短い。だが短いぶん、暴力の目的だけがむしろくっきり見える。

「そこまで分かるんですね……」

 木下が思わず漏らす。

 堀島は木下を見た。

「身体は、意外と嘘をつかないから」

 その言い方が、真壁には九条のものに少し似て聞こえた。

 神明が現場写真をさらに細かく並べる。血痕の方向、崩れた位置、低い位置に集まる鈍的散布。

「最初の出血は刺創由来。でも、そのあと重なる散布は低い位置に寄ってる。身体が崩れたあとも、同じ側へ力が入ってる」

「押さえつけた状態で、ですか」

 木下が聞く。

「可能性は高い」

 神明は答えた。

 堀島がその写真を覗き込み、ほとんど間を置かずに言う。

「立位で刺して、落としたあと、吐かせる方向へ移ってる」

「その根拠は」

 真壁が問う。責める声ではない。だが試す声だった。

 堀島は少しも怯まなかった。

「腹部打撃の角度です。正面からだけじゃない。崩れた体勢に合わせて、上から下へ、あるいは横から内側へ入っている。殺すなら効率の悪い位置も混じってる。でも吐かせるなら一貫してます」

「よくそこまで届くな」

 真壁が言うと、堀島はほんのわずかに黙った。

「届くというより、そう読むしかない形です」

 その退き方が、真壁にはかえって引っかかった。

 神明が横から言う。

「俺は写真の範囲でしか言わない」

「分かっています」

 堀島は短く返した。

「でも、写真だけだと、九条先生の身体条件が消える。そこを戻すと、攻撃の意味が変わる」

 九条先生の身体条件。

 またその言い方だ、と真壁は思った。被害者の体格や既往歴ではなく、九条という個人の身体へ自然に届く人間の言い方だった。

 堀島はそこで机の端から紙を一枚抜き、真壁の前へ滑らせた。

「逆位の模式図、必要かと思って」

 真壁は紙を見た。胃、肝、脾、心臓、通常位置との比較まで入った略図。簡潔で見やすい。だが、まだ誰も頼んでいない。

「……頼んでない」

「はい」

 堀島は平らに言った。

「でも、ここはそこを見ないとずれるので」

 理屈は通っている。

 通っているから、余計に気味が悪い。

 神明は何も言わない。ただ写真を並べる手だけを動かしていた。木下はあからさまに息を潜めている。

 真壁は模式図を見ながら、胸の奥で別の線が立ち上がるのを感じた。

 観察してきた。

 真似してきた。

 九条の次の一手に届く。

 役に立ちたい気持ちが、いつの間にか先回りへ変わる。

 そういう人間なら、身体へ届く。

 九条の逆位も知っている。器具の順番も、立ち位置も、癖も知っている。腹部への打撃の意味にも、吐かせようとする暴力にも、九条の身体を通して最短で届ける。

 堀島なら、やれる。

 その考えが、今度はかなり具体を持って真壁の中へ入ってきた。

 神明が別の写真を引いた。胃内容物の説明資料と、凶器位置の図が並ぶ。

「体内異物を探した線と、逆位を知る者の打撃は矛盾しない」

 神明が言う。

「身体条件を知っている人間が、体内に何かを隠したと読んだなら、この損傷分布になる」

 木下が低く言った。

「じゃあ、医務院の人間……」

 そこで扉が開いた。

 本郷剛史が遅れて説明室へ入ってきた。

「遅れた」

 短く言って席に着く。本郷は堀島の説明がどこまで進んでいるかを一目で読み、机上の資料へ視線を落とした。

「追加所見は聞いた。つまり、犯人は内臓逆位を知っていた可能性が高い」

「高いです」

 堀島が即答する。

「少なくとも、普通の位置関係のまま腹部を乱打したとは読みにくい」

 本郷はそれに何も足さなかった。上下関係はある。だが、身体に関する言葉だけは、堀島がもう本郷へ仰ぎ見ていない瞬間がある。

 木下はメモを取りながら、それでも堀島の横顔から目を離せずにいた。若い刑事の素朴な恐れが、そのままこの場の感情の代弁になっている気がした。分かりすぎる人間は、それだけで少し怖い。

 真壁は机上の写真を見ながら、自分の中で何かが一段深く沈むのを感じた。

 堀島なら、身体へ届く。

 だが――と、すぐ別の自分が止める。

 港はどうだ。

 拘置所死亡案件は。

 保冷搬送容器の修正ログは。

 流れ全体を、一人で持てるか。

 身体へは届く。

 だが、流れ全体は持てない。

 その違和感が、堀島を本命へ押し上げながら、同時にそこから外す方向にも働いていた。

 本郷が一枚の資料を手に取った。古い搬送記録の写しだった。

「今回の身体所見と港ルートの接続については、まだ飛ぶな」

 本郷は落ち着いた声で言う。

「過去案件の搬送層は別で見る必要がある」

 堀島が頷く。

「分かってます。昔の搬送ルートなら、副院長のほうが詳しいです」

 それは何気ない言葉だった。何気ないくせに、真壁の中に小さな引っかかりを残した。

 本郷はそれに何の反応も示さなかった。ただ手元の紙を揃え、ひどく短く言った。

「私が来た頃から、あの層は書類の癖が変わらない」

 木下が顔を上げる。真壁も目だけを向けた。本郷は続けない。だが、その一言だけで十分だった。今の案件ではない、もっと前からある流れを、自分の時間の中で見てきた者の言い方だった。

「身体所見は身体所見で詰めろ」

 それだけ言って、話を先へ進める。

 誰もその一言を深く拾わなかった。真壁もその場では拾わなかった。ただ、その引っかかりだけを覚えた。

      *

 説明が終わったあと、真壁は神明に呼び止められた。

「記録室、少し来てください」

 神明の声はいつも通り平らだった。

 医務院の記録室は、説明室よりさらに匂いが薄い。紙とトナーと、長く閉じた戸棚の空気だけがある。神明は古い貸出簿と、港湾側から取った補助便記録の写しを机に並べていた。松本もすでにいて、紙を二列に分けている。

「何だ」

 真壁が言うと、神明は一冊の帳簿を開いた。

「保存検体の搬出記録」

 罫線の細かい古い台帳だった。

「普通の解剖写真や標本じゃない。臓器保存用の冷蔵保管バッグと、保冷搬送容器の貸出」

 真壁は台帳の欄を追った。

 検体番号。

 保存区分。

 搬出理由。

 承認者。

 返却確認。

 そのうちの数行だけが、妙に整いすぎている。理由欄には〈研究協力〉〈外部検証〉〈追加固定前処理〉と曖昧な語が並び、返却確認欄が空白のままになっていた。

「返却がない」

 真壁が言う。

「あることになってる」

 神明が別紙を滑らせた。

「こっちは保冷搬送容器の管理表。返却済みに丸がついてる。だが実物番号が合わない」

 容器番号は、医務院側ではHB―12、HB―14、HB―17。

 港湾補助便記録のほうには、同じ日に同じ番号の枝番が出ている。ただし用途欄は〈検体雑貨〉〈再配送資材〉になっていた。

 松本が低く言う。

「医務院では返ってきたことになってる。港のほうではその番号が外へ出た形になってる」

 真壁はもう一枚の紙を見た。印字された端末ログだった。

「入力者」

「そこだ」

 神明が言う。

 医務院側の管理表を修正した端末IDは二つあった。ひとつは副院長室端末。もうひとつは解剖室側の補助端末。

 承認欄には本郷の印影。

 修正ログの一部には堀島のアカウント。

 真壁はしばらく何も言わなかった。

 臓器保存用の容器。

 返却済みの偽装。

 港湾補助便の枝番。

 用途のぼかし。

 これはもう搬送の曖昧さではない。

「臓器か」

 真壁がようやく言う。

 神明は頷いた。

「少なくとも、臓器保存を前提にした物が、正式な記録と違う動きをしている」

 松本が静かに続ける。

「秘密裏に回してた。密輸って言っていい線だ」

 真壁の中で、これまで別々に見えていた線が一気に重くなった。拘置所死亡案件。補助便。港。医務院。九条の死。

 誰かが医務院の中から臓器を外へ出していた。

 しかも一度や二度ではない。

「本部に上げる」

 真壁が言う。

 松本は頷いた。

「正式にだ。口頭じゃなく、写し付きで上げろ」

 神明はすでに封筒を用意していた。

「関連資料、順番だけ揃えてある」

 真壁はその封筒を受け取った。軽い。だが、この軽さで事件の層が一枚変わる。

      *

 対策本部への共有は、口頭より先に書面で回された。

 真壁の名前で上げた報告書には、医務院保冷搬送容器の貸出記録、管理表の修正ログ、港湾補助便記録の写し、返却確認欄の不一致が添付された。

 松本が席の端でその写しを机へ並べる。神明は感情を足さず、番号だけを読む。

「HB―12、HB―14、HB―17。医務院側では返却済み。港湾補助便側では、同日同番号が外向き記録として残っている」

「搬出理由は」

 神谷警視が問う。

 真壁が答えた。

「研究協力、外部検証、追加固定前処理。いずれも曖昧です。しかも返却確認の時刻と、港湾側補助便の出発時刻が噛み合っていない」

 神明が次の紙を示す。

「さらに管理表の修正端末は、副院長室端末および解剖室側補助端末」

 部屋の空気が静かに変わる。

 副院長室。

 解剖室。

 つまり、本郷か、堀島か、あるいはそのどちらかに見せたい誰かだ。

 二階堂が紙を見下ろしたまま言う。

「外に出たら終わる情報ですね」

 それは広報としての反応だったが、真壁には別の響きでも聞こえた。出た瞬間、医務院内部、港、臓器、隠蔽。全部が一枚の見出しになる。

 木下が低く呟く。

「医務院の誰かが、やってた」

 真壁はその言葉を否定しなかった。

 否定できる段階は、もう越えていた。

 ただ、誰がやっていたのかはまだ言えない。

 本郷には長い時間がある。承認印がある。港ルートの古さに自然に届く。

 堀島には身体へ届く速さがある。解剖室の端末がある。九条への執着の気配もある。

 そして、その二人へ視線を向けさせたい誰かがいる可能性も、まだ消えてはいない。

 神谷玲司が紙を閉じる。

「正式共有でいく。医務院内部関与の可能性、臓器搬送の不正、港湾補助便との接続。全員ここで認識を揃えろ」

 正規ルートで共有された瞬間、仮説は単なる疑念ではなくなった。

 臓器の密輸が秘密裏に行われていた。

 その線は、もう本部全体のものになった。

      *

 夜の休憩室は、昼の喧騒が嘘みたいに静かになる。

 医務院の休憩室の隅にある自販機は、薄い光を足元に落としていた。堀島は紙コップのコーヒーを半分ほど残したまま、ソファに座っていた。スマートフォンが手の中にある。通知を確認するだけのつもりで画面を開き、そのまま指が写真フォルダへ滑る。

 保存済み画像のアルバムに、名前はつけていない。女子職員たちのグループラインに流れたものだ。食堂で見かけた。廊下にいた。白衣姿が珍しく整っていた。そういう他愛のない理由で共有された画像を、堀島は一枚ずつ黙って保存している。

 白衣の袖をまくった腕。

 食堂で紙コップを持つ手元。

 廊下の窓際でカルテを読む背中。

 会議室で少しだけ俯いた横顔。

 いやらしさはない。少なくとも堀島自身はそう思っていた。性的に見ているわけではない。むしろ逆だ。冷える。自分の中の何かが、静かに冷えていく。

 これは基準だ。

 そう思って保存し始めたのは、いつからだったか。たぶん、意識した最初の一枚は医務院へ来たばかりの頃だった。女子職員たちが軽い気持ちで回した写真の中に、廊下を歩く九条の姿があった。白衣の裾が少し揺れていて、顔は半分しか見えない。ただそれだけの写真だったのに、堀島は思わず保存していた。

 一年後には、今の九条先輩に追いついていたい。

 大学に入った頃、本気でそう思っていた。

 十年経った。

 今も届かない。

 医務院で同じ空気を吸い、同じ解剖室に立ち、同じ所見用紙に触れても、九条のほうが先に見えている感じが消えない。知識の量だけではない。もっと別の、身体と事実の結びつき方みたいなものが違う。

 九条が死んだ今ですら、自分の見ている先はまだ九条だった。

 死んでも壁のままかよ、と堀島は思う。

 笑いたくなるような情けなさと、笑えないほどの悔しさが同時に来る。死んだ相手を基準にし続けるのは健全ではない。そんなことは分かっている。だが健全さで届く相手なら、そもそもこんなふうにはならない。

 別の写真を開く。食堂で紙コップを持つ九条の手。指が長く、無駄な力が入っていない。医者の手だと思う。正確で、余計なことをしない手。その手が今はもう動かない。その事実に慣れたつもりでも、写真を見るとまだ少しだけ息が詰まる。

 保存する癖は、自分でも危ういと思っていた。誰にも見せられない。見せれば誤解される。けれど消せない。消したら、本当に届かなかったことだけが残る気がするからだ。

 大学時代の解剖実習室を、堀島は今でも時々夢に見る。

 睡眠不足と匂いと緊張が重なって倒れた時、九条だけが騒がなかった。

「無理に立とうとするな」

「ゆっくり呼吸して」

 背中を撫でない。大丈夫とも言わない。ただ必要な手順だけを切り出してきた。その正確さに、堀島は救われた。

 一年後には、今の九条先輩に追いついていたい。

 その思いは、そこから始まった。

 尊敬、敬意、羨望。それだけならまだ綺麗だ。そこにはもっと濁ったものも混じっている。依存に近いもの。敗北感。自分の基準を相手に預けてしまっている感覚。

 だから今、九条の死を前にしても、堀島の中で一番強く立っているのは喪失ではなかった。壁が死んだのに、壁のままだという感覚だった。

 それはかなり危険な感情だと、どこかで分かっている。分かっているから誰にも言えない。

      *

 説明室へ戻る廊下で、木下が真壁の横へ追いついてきた。

「真壁さん」

「何だ」

「堀島先生、なんか……」

 言い淀み、それから木下は素直に言った。

「怖いです」

 真壁はすぐには返さなかった。

「何が」

「分かりすぎる感じです。腹を打った意味とか、吐かせようとしたとか、九条先生の身体で、って。あそこまで早く出ると、なんか」

「自分で考えたことがある人みたいに見える」

 真壁が言うと、木下ははっとした顔をした。

「……はい」

「言いたかったのはそれか」

「すみません」

「謝るな」

 廊下の窓に夜が張りついている。医務院の夜は庁舎と違って、人の出入りが途切れても完全には眠らない。どこかで機械が動き、どこかで誰かが白衣のまま歩いている。

 真壁は歩きながら、頭の中で堀島の言葉を反芻した。

 普通なら、ずれる位置。

 でも、ここは外していない。

 最初から胃を狙ってた。

 しかも、九条先生の身体で。

 堀島は九条の体質を知っている。内臓逆位も知っている。腹部損傷の意味へ誰より早く届く。九条に近い。後輩としての距離もある。感情も深い。そういう人間が、一線を越えることはある。

 そして「ほ」にも嵌まる。

 真壁はその連想を自分で嫌ったが、切り捨てもしなかった。血文字の一画は、読みたいように読める危うさがある。だが危ういからといって、最初から外す理由にはならない。

 堀島なら、やれる。

 その考えは、いまやかなり具体を持ち始めていた。観察してきた。真似してきた。九条の次の一手に届く。役に立ちたい気持ちが先回りへ変わった。身体へ届く知識がある。九条の逆位を知っている。吐かせようとする意味を理解できる。感情もある。追いつけなかった十年がある。

 だが――と、真壁の頭のどこかが止める。

 港はどうだ。

 拘置所死亡案件は。

 保冷搬送容器の修正ログは。

 承認印と端末ログの両方に自然に触れられるのか。

 身体は堀島だ。

 感情も堀島だ。

 だが、流れ全体はどうだ。

 その曖昧さだけが、真壁の中でまだ消えなかった。

「真壁さん」

 木下が小声で呼ぶ。

「もし堀島先生だったら、どうするんですか」

「どうするも何も、掘るだけだ」

「でも……」

「でも、じゃない」

 真壁は立ち止まった。

「疑う時は、本気で疑う。それだけだ」

 木下は黙った。若い。若いが、いまの一言の重さくらいは分かった顔をしていた。

 本気で疑う。

 真壁はその言葉を、自分にも向けていた。堀島が本命かもしれない。いまはそこまで行っていい。躊躇して、感情に配慮して、読みを鈍らせる段階ではない。九条が死んでいる以上、遠慮はかえって失礼になる。

 それでもなお、どこかに噛み切れないものが残る。

 そして、その残り方は本郷にも向かっていた。

 承認印。

 昔からそこにいた時間。

 港ルートの古さに自然に届く位置。

 本郷なら、流れを持てる。

 だが本郷一人で、身体へここまで届くか。

 その逆もまた言える。

 堀島一人で、流れ全体を持てるのか。

 答えはまだない。

 ないまま、疑いだけが二つに割れて、しかもどちらも捨て切れなかった。

      *

 深夜の庁舎は、帰る人間と残る人間の匂いが違う。

 香水や柔軟剤の薄い残り香が消えたあと、紙と電気と、冷めたコーヒーの匂いが前へ出る。広報フロアの蛍光灯は夜になると白さばかりが立つ。机も壁も、昼より少しだけ冷たい。

 二階堂は自席に座り、モニターの青白い光の中で古い会見草稿を開いた。

 ふと、公用の端末が鳴る。二階堂はすぐ取った。丁寧な声を作り、追加配布文の文言を伝え、確認中という語の位置を調整し、相手が納得するところまで短く言葉を置いて切る。次の内線にも、同じ温度で答える。公用のやり取りは整えられる。整えなければ仕事にならない。

 その直後、私物のスマートフォンが震えた。

 画面を見る。通知の数字がまた増えている。未読は二百を超えていた。高校の同級生、大学の知人、取引先で一度飲んだだけの相手、名前だけは残っている昔のグループ。ほとんど友人と呼んでいた人間たちだ。

 最初の一通を開く。

〈壮也んとこの死んだ医者って、お前見たことあるん? 愛人何人もいたとか本当?〉

 二階堂はしばらくその文面を見た。高校時代、よく同じメンバーでファミレスにいた男の名前が表示されている。深夜に集まり、どうでもいい将来の話をし、結局ほとんど何も覚えていないまま朝が来る、そういう時間を何度も一緒に過ごした相手だ。

 その記憶と、いま目の前の文面が、きれいに繋がらなかった。

 次を開く。

〈久しぶり。血文字ってマジ? あの医者有名だったん?〉

 大学時代のゼミで一度同じ班になった女だった。卒業後に二回ほど飲んだきりで、その後は年賀状代わりのような短い連絡しかしていない。なのに、久しぶりの一通がこれだ。

 次。

〈テレビ出てたの、お前だよな? こないだの事件、グロ写真とか回ってこんの?〉

 次。

〈港のやつ、内部告発だったら激アツじゃね? 広報なら裏知ってるだろw〉

 次。

〈同性愛の噂まで出てて草。お前のとこ毎回ネタ強すぎ〉

 次。

〈若い頃の写真見たけど、ああいうタイプって絶対なんかあるよな〉

 次。

〈監察医ってだけでもう設定盛りすぎなのに、港とか血文字とか出来すぎ。映画かよ〉

 次。

〈SNSで見たけど、昔の拘置所案件もこいつ絡んでたってマジ?〉

 次。

〈あの“友人にしか見せない顔があった”ってポスト、お前知ってたりする?〉

 憶測は噂になり、噂は誰かの断言になり、その断言がまた別の人間の想像へ渡る。

 最初は〈血文字って本当?〉だったものが、次には〈真壁との私怨らしい〉になり、その次には〈医務院で隠してた関係があった〉へ変わる。誰かが見たと言い、誰かが昔から知っていたと乗せ、誰かが“こういう顔の男はそういうことをする”と平然と決める。

 九条の死は、事実より先に物語へ加工されていた。

 しかも、その物語は人の手から手へ渡るたび、少しずつ都合よく捻じ曲がる。

 医者。

 若い。

 美形。

 港。

 血文字。

 体内異物。

 その断片だけで、人は平気で知らない人生を作る。

 二階堂は表情を動かさなかった。返信もしない。一通ずつ開き、相手を確認し、ブロックする。次を開き、読む。ブロックする。指先の動きだけが規則的だった。

 公用のスマートフォンでは、敬語で、相手の立場を立て、必要最小限の情報を整えて渡す。私物のスマートフォンでは、一言も返さない。向こうは久しぶりの軽口のつもりなのかもしれない。情報に近い人間から少しだけ面白いものを引き出したいだけなのかもしれない。だが、そんなものなら要らなかった。

 昔の二階堂なら、こういう人間関係の広さを少し誇っていた。顔が利く。誘えば誰か来る。飲み会の席は埋まる。そういう要領のよさを、自分の能力の一部だと思っていた。どの場にも席を作れることを、ひそかに自分の強みだと思っていた。

 だが今、九条の死を面白がる文面が並んだ瞬間、その広さはただの薄さに見えた。

 友人なら、そんな聞き方はしない。

 少なくとも、いまここでそれを送ってくる人間は、もう友人ではない。

 ブロック。

 次。

 ブロック。

 次。

 指は迷わない。迷わないことが、かえって少し怖かった。

 九条の死が、一枚一枚、人間関係の皮を剥いでいく。誰がどちら側にいるのか。誰が死を見て立ち止まるのか。誰が死を見て食いつくのか。そこだけが、いやに鮮明になる。

 ブロック。

 次。

 ブロック。

 その単純な作業を続けているうちに、二階堂は妙に静かになっていった。腹も立つ。軽蔑もする。だが、それ以上に、自分がそういう人間関係を大事なものだと思っていた時期が少し恥ずかしかった。

 高校の頃、席を埋めることが安心だった。大学に入っても、それは続いた。飲みに行けば誰かいる。連絡を回せば集まる。話題を振れば返ってくる。そういう薄くて便利な繋がりを、自分は人間関係と呼んできたのかもしれない。

 だが、死を前にすると薄さはすぐ剥がれる。

 九条は昔からそういう薄さを嫌った。噂話に乗らず、人の私事を雑に転がさず、距離の近さを消費の形に変えない。あの無愛想さの中には、たぶんそういう線引きがあった。

 なら、自分はどうだ。

 いまここで九条を面白がる連中をブロックしていくこの手つきは、九条に近づくためのものではない。ただ、もうそっち側には立てないと認めるための手つきだった。

 最後の一通を閉じ、画面を伏せる。机の上に置かれた二台の端末が、まったく別の顔をしていた。片方は職務のための道具。片方は、今夜だけでずいぶん中身が軽くなった私生活だ。

 さっきまで自分の画面に並んでいた文面を思い出す。愛人。血文字。グロ写真。ネタ。草。どれも九条の死を面白がる側の言葉だ。自分はそっちへ戻れない。戻る気もない。

 それがはっきり分かった。

 二階堂はスマートフォンを持ち直し、残っていた通知をもう一度開いた。知らない番号、昔の同級生、連絡先だけ残っている顔。どれも同じだった。九条の死を情報として扱いたい。少しだけ近い人間から、少しだけ面白いものを引き出したい。その浅さが透けて見える。

 社交性の仮面が一枚剥がれた気がした。顔が利く。人付き合いがいい。どこにでも席を作れる。そんな自己像の薄さが、ようやく自分の目にも見えた。

 九条はたぶん、最初からそれを知っていたのだろう。

 公用のスマートフォンが震えた。

 画面を見る。医務院からの連絡だった。短いメッセージが一通だけ届いている。

 堀島からだった。

「胃の位置について確認したいことがあります」

 二階堂はその一文を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 胃の位置。

 その言葉の冷たさが、これまで自分が触っていた情報の層とは別の硬さを持っているのが分かった。流れでも、会見でも、文面でもない。身体の話だ。解剖へ戻る線だ。

 私物スマホは裏返したまま、もう光らない。

 業務の端末だけが机の上で白く点いている。

      *

 その夜更け、真壁は神明から渡された封筒をもう一度開いた。

 凶器の再鑑定、投擲位置の再測定、保冷搬送容器の記録、修正ログ、承認印。

 紙は軽い。軽いくせに、また一つ流れの向きを変えるには十分な重さがある。

 堀島はやれる。

 だが、それだけで全部か。

 そして、本郷は昔からそこにいたのか。

 その問いに、まだ答えはない。ないまま、封筒の角だけが掌へ食い込んでいた。


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