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誰も一人では立てない所  作者: まきの・えり


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      3

 「おい、おやじ」

 父親は、目を大きく見開いたまま、一点を凝視していた。高岡純は、父親の視線の行方を追った。思わず、口笛を吹いてしまった。純の趣味ではなかったが、色の白い綺麗な女の子が、プログラム片手に、外人っぽい背の高い男に話しかけていた。

「こ、こんなことが……」

 父親の様子は、ただごとではなかった。周りの人達が、怪訝そうな視線を、純達親子に向けている。父親は、両手を固く握りしめ、全身をブルブルと震わせていた。

「おい、おやじ。しっかりしろ」

 ヤレヤレ、若い女の子を見たことないのか。これじゃ、漫画だよ。官能小説とやらを書きまくってるわりには、実際の経験なんて、ないんじゃないか? そりゃあ、そうだよな。

 一日中、書斎だの、ホテルだのに籠もって書いてばかりいれば、そんな暇はないだろな。

 こんな病気があることを知ってれば、休みをつぶしてまで、親父のお供なんかするんじゃなかった。ピアノ・コンサートの場面がどうしても必要だって言うから、友達に頼んで、チケット譲ってもらったんじゃないか。直美に漫画でも借りて家で読んでたほうが、ずっと良かった。

「おい、おやじ、帰ったほうがいいんじゃないの。こりゃあ、立派にビョーキだぜ」

「なあ、純、頼みがある」

 純は身構えた。

「な、何だよ。あの女の子の電話番号を聞いてくれって言うんじゃないだろうな。オレ、そんなこと、ごめんだぜ」

「あれが、どこの誰だか、どうしても知りたい」

「どっか、おかしいんじゃないの。ちょっと仕事減らして、温泉にでも行って来いよ」

「なあ、純、一生に一度のお願いだ」

「知りたいんだったら、自分で聞いて来いよ。オレじゃ、新手のナンパだと思われちゃうよ」

「いや、だめだ、だめだ。どうしてもできない。そんなこと、できるわけがない」

 チェッ、と純は、心の中で舌打ちした。いつも、コレだ。実際、どっちが父親だか、わかりゃしない。昔っから、この手だ。何でもオレに頼りやがる。

「わあったよ。ここで待ってるんだぞ。今、聞いてきてやるから。警察でも呼ばれた日には、ちゃんと証明してくれよ」

「純、恩にきるからね」

 息子が父親の女探して走り回るなんて話、聞いたことあるかい? 聞いたことがあるなら、一度、自分の小説にでも書いてみろってんだ。しかし、一体、何て言えばいいんだ?

「あのう、オレのおやじが、あんたの素性を知りたがってるんですけど」

 まず、精神病院から、迎えが来る。

「ようよう、綺麗なネエチャン、あんた、名前、何ていうの?」

 連れの大男に、張り倒される。

「美しいお嬢さん、僕と一曲踊ってくださいませんか」

 ピアノに合わせて、か。映画じゃあるまいし、第一、オレ、ダンスなんかできねえよ。

 いい考えも浮かばないまま、純は、女の子と連れの男の近くまでやってきていた。

「……奈緒美さん……」

 そうか。直美っていうんだな。よくある名前だ。

「でも、私、ピアノでは褒められたことがないんですもの。恥ずかしいわ」と女の子が言った。

「奈緒美さんなら、ピアノの前に座っているだけで、絵になりますよ」

 オエエ。何てキザなやつ。

「失礼」と純は、内心ビクビクしながら、平静を装って、この絶世の美女の目を、シッカと見つめた。

「今、直美さんっていう名前が聞こえたんですけど、もしかすると、井上直美さんじゃありませんか? 忘れたかもしれませんけど、ホラ、小学校の時、同じクラスだった高岡純です」

「あのう…」

 奈緒美は、困惑して、長友逹彦の顔を見た。

「人違いですよ」

 逹彦は、素っ気なく、純の存在を無視しようとしていた。純は、ムカッとした。

「人違いにしろ何にしろ、僕のほうは、きちんと自分の姓名を名乗ってるんですよ。もし井上直美さんじゃないとしたら、あなたは、一体、誰なんですか」

 少し強引すぎる気もしたが、ここで引き下がっては、おやじがガッカリするだろう。

 長友逹彦は、純の前に立ちはだかった。腕に覚えのある男らしかった。腹が立つほどハンサムで、純は自分の偏平な顔と貧弱な体格に気後れを感じた。

「少し、強引じゃありませんか?」

 思っていた通りのことを指摘されてしまった。おやじには気の毒だが、ここは諦めるしかないだろう。

「失礼しました」と奈緒美が言った。

「奈緒美さん」

 逹彦の制止を振り切って、奈緒美は、純のほうに一歩進んだ。

「私は、本多奈緒美と申します。お友達の井上さんでなくて、残念でしたわね」

「そうですかあ。本多さんって言うんですかあ。アハハハハア、絶対、井上さんだと思ったんだけどな」

「そんなに、私に似てらっしゃったの?」

「ええ、まあ、特に目元なんか、ソックリ」ナンチャッテ。

「また、お会いになれるといいですね。引っ越しかなんかなさったの?」

「はあ、まあ、そんなところなんですけど」

 純の腋の下から、一度に汗が吹き出していた。

「あの、オレ、連れを待たせてるもんですから、これで」

 純は、走りに走って、父親のいたところに戻っていった。背後から、『口実』とか『あんな男』という声が追い掛けてきた。

 感じの悪い男だったが、中々観察眼は鋭い、と純は思った。

 戻ってみれば、父親の姿がない。あのバカおやじめ、今度は、一体、どこ行っちまったんだよう。折角、危険をおかして、名前を聞いてきてやったのに。

 オーイ、おやじよう。

 捜し回って、ようやく隅の喫煙室に、しょぼくれた姿を発見。純はたばこを吸わないが、父親はヘビー・スモーカーなのだ。煙草の灰が今にも落ちそうなのにも気付かず、放心している。今に始まったことではない。小説のすじを考えている時なんかは、いつもこうだ。というより、放心状態が父親の常態と言えた。

「おい、おやじ!」

 純は、父親の背中をどやしつけた。煙草の灰だけでなく、煙草そのものまでもが、ポロリと床に落ちた。

 純は、慣れた手付きで吸殻を拾って、灰皿に捨てた。父親が放心したまま、純の答えを待っているのは明らかだった。

「本多直美って名前だってよ」

「何? 何だって? もう一度、言ってくれ」

「やめてくれよ、服をグチャグチャにするのは。何度でも言ってやるからよ。本多直美だよ、本多直美」

「確かに、本多って言ったんだな?」

「本人が名乗ったんだから、確かだろうよ」

「は、話したのか、本人と」

「冗談言うなよな。本人に聞かずに、誰に聞くんだよ」

「そうか……本多か……娘なのか……そうだろうな……そうだろうな……」

「立てよ、おやじ。強制送還だ。これ以上、フツーの人間には付き合いきれないぜ」

 喫煙室の中の人々は、恐々、純の父親を見ていた。純は、無理やり父親を立たせ、半ば引きずって、外に連れ出した。

『おふくろよう、何で死んじまったんだよう。こんな手のかかる男を残して』

 母親は、純が小学校にあがった頃から、急に変わってしまった。子供心にも、両親の不仲はわかっていた。母親は、何度も家を飛び出した。きっと、父親の不規則な生活が原因だったのだ。そして、今にして思えば、その頃の父親には女がいたのかもしれない。

『あの女の子にそっくりの美人。彼女の母親?』

 しかし、今の父親に特別な女友達がいるとは思えない。いれば、純にだってわかるはずだ。

 母親は家を出ても、また父親のところに戻ってきた。結局、父親とは別れられなかったのだ。

『別れぬ理由は、オレじゃなかったはずだ』

 母親は、純にはまったく関心を抱いていなかった。何に関心を抱いていたのだろう?

 母親は死ぬ前に、父親の昔の小説を、すべて燃やしてしまった。父親は、それを見ていて、何も言わなかった。止めようとするそぶりすらなかった。

『オレも、燃やすのを手伝ってやった。アレが、最後の親孝行だったってわけだ』

 母親は、十二指腸潰瘍だった。後で、十二指腸がやられるのは、ストレスが原因だと聞いたことがある。何が母親のストレス源だったのか。まあ、考えなくてもわかる。アノおやじだ。オレだって、胃潰瘍かなんかで死んじまうかもしれない。

 人間の命の呆気なさを知った。母親は、入院して、手術して、腹膜炎を起こして、そのままポックリ死んでしまった。母親には病気と戦う意志も、気力もないことがわかった。純が、まだ小学生の頃だ。

 不思議と悲しいという気持ちがわかなかったことを覚えている。むしろ、ホッとしたものだ。今なら、その理由がわかるような気がする。

 母親が幸福だったことが、一度もなかったせいなのだ。

『だから』と純は思う。

『オレを愛する余裕なんか、なかったんだ』

 きっと、母親は父親を愛しすぎていたのだ。だから、母親の愛情は、オレのところまで回ってはこなかったんだ。オレは、オレなりに、母親を愛していたから、そんなことが全部わかったんだ。

 多分、コノおやじだって、おふくろを愛していたんだろう。けど、それは、おふくろの望むような愛し方じゃなかったんだ。おふくろは、欲深だったんだ。だから、息子の愛情なんかには、気付きさえしなかった。

『ま、もう、すんだことだ』

 純は、父親をも愛していたが、父親がそれに気付いていないことは明らかだった。

『本当だったら、もっとグレてやっても、よかったんだけどな』

 父親を追い立てながら、交差点を渡っていた純の目に、涙が滲んだ。父親は、相変わらず、ブツブツとつぶやいていて、純の心の中には気付く様子もない。

「何してんだよ。ちゃんと、前見て歩くんだよ。何で、車、買わないんだよ。コンサートに地下鉄で通うなんて話、聞いたことがない」

「排気ガスが、地球を汚染する」

「わあった、わあった」

 交差点の中央で、腕組みを始めた父親に、何台もの車がクラクションを浴びせかけた。

『おふくろが死んで、おやじが、みっともなく取り乱すもんだから、オレは、グレるにグレられなかったんだ。こいつは、不器用な男なんだ。不器用な愛し方しか、できなかったんだ。オレでも付いててやらなきゃ、一体、誰が面倒見てくれるんだい』

 しかし、これでいいのだろうか。オレは、いつまでたっても、結婚はおろか、恋愛一つできないんじゃないだろうか。

「オイ、おやじ。道を歩く時ぐらい、頼むから、前を見ててくれよ。あ、すみません」

 父親がぶつかった相手に、純は、ペコリと頭を下げた。





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