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誰も一人では立てない所  作者: まきの・えり


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「あれは、誰だい? スゲエ美人だな」

「それより、星空まゆみが来てるぜ」

「ゲッ。そいつは、ヤバイ」

 瀬戸弘之は、友人の陰に隠れた。そう言えば、ピアノ奏者の阿部加奈子は、まゆみの友人だった。歌手の星空まゆみは、弘之とのスキャンダルが原因で、離婚した経験があり、それ以来、弘之を恨んでいるという噂があった。離婚以来、弘之がまゆみを避けているのも、まゆみの怒りの一因だろう。

「結婚なんて、馬鹿のすることさ」というのが、弘之の持論だった。

「加奈子には悪いけど、コンサートって雰囲気じゃないし、オレ、ちょっとずらかることにするよ。よろしく言っといてくれよ」

「知らないぜ、オレ。けど、おまえもよくやるよ」

 弘之は、まゆみに見つからないように、こっそりとロビーに抜けた。加奈子には、一応挨拶してあるし、後は、友人の田所がうまくやってくれるだろう。

「加奈子は、ピアノより○○がうまい」と弘之は、いつもジョークを飛ばしていた。そして、実際、その通りだった。加奈子のピアノなんかには、興味も関心もなかった。それは、まゆみの演歌に関心がなかったのと同じことだった。

 ロビーに出た、その時のことだ。

『本多』という名前が、耳に飛び込んできた。弘之は、思わず、耳をそばだてた。

「本当に、幸枝さんそっくりで、驚きましたわ」

「でも、お嬢さんのほうは、おとなしい方みたいですわね」

「お母さんが早くに亡くなられたのも、案外よかったのかもしれませんわね」

「本当にねえ」

 弘之は、なおも、耳をそばだてた。中年の婦人が二人、トイレから出て来るところだった。

「新聞沙汰でしたものね。今の時代なら、連日テレビで報道されていても、おかしくありませんものねえ」

「そうですわね。昔のことで、本当によございました」

「私は、あの棚部隆一のファンだったものですから、それは、それは、ショックでした。まさか、あの棚部隆一が、と思ったものでしたわ」

「ああいう俳優さんというのは、今はおられませんものねえ」

「ええ。女装されても、それは綺麗で、女の私でさえウットリしたものです」

「そうでしたわね。今の方は、ああいう俳優さんがおられなくて本当に可哀相ですわね」

「ええ、本当に」

 では、あの本多幸枝の娘が、阿部加奈子のコンサートに来ているのだ。

 瀬戸弘之は、本多幸枝の顔を思い出そうとしたが、無駄だった。あれは、十五年も前のことで、弘之は、まだ中学生だった。

 母親は、あれ以来精神病院に入ったままだ。よほどショックが大きかったのだろう。弘之の顔さえ覚えてはいなかった。父親は、資産よりも借財のほうが大きいといった人間だった。

 過去のことは、思い出したくもなかった。

 親戚の間を転々とした。どこに行っても厄介者だった。父親の存命中は、遠くの親戚までもが擦り寄ってきたものだ。父親は、ひどく派手好きで、面倒見のいい人間だった。

 手のひらを返したような態度とは、あの頃の親戚の態度を言うのだろう。

 高校生になった時、街でスカウトされた。父親に似た端正な顔立ちだった。

 雑誌の表紙のモデルからスタートした。父親のことは、新しい仕事場では、誰にも言わなかった。

 ちょっとした金を手に入れた時、黙って親戚の家を出た。厄介払いができたと、さぞ親戚は喜んだことだろう。

 アパートを借り、ゼロからスタートした。食うや食わずの生活だった。

 今まで何とか生きてこれたのは、この世に『女』という種族がいたからだ、と今では思う。

 最初、女優の山際洋子に拾われた。弘之のルックスが気にいったのだ。

 さすが大女優だと弘之は思った。自尊心を傷つけられたことは一度としてなかった。その代わり、弘之は、自発的にプライドを引っ込める訓練をした。数いる洋子の男の一人にすぎなかったからだ。

 洋子からは、多くのことを学んだと思っている。特に、異性のあしらい方は洋子仕込みと言えた。

 そのうち、弘之も何とか自分の稼ぎで食べていけるようになった。すると、洋子は、弘之から離れていった。

 しばらくの間、弘之は、つれなくなった洋子に、怨みと憎しみの炎を燃やしはしたが、歌手の星空まゆみと恋愛するようになると、当然のように、洋子のことは忘れてしまった。

 まゆみは洋子とは違い、弘之の自尊心を傷つけることが多かった。自分の収入の多さをひけらかし、スキャンダルになることを極度に恐れていた。まゆみは、社会的地位のある男と結婚しており、そのことが何よりも自慢だった。だから、人前では弘之は人間ではないかのような扱いを受けた。それでいて、年上の夫では満たされることのないセックス面での要求は強く、俳優として売れてくるにつれ、弘之は、まゆみがうとましくなり始めていた。

 二人の『秘められた恋』が発覚したのは、そろそろ秋風の吹く頃だった。

「何よ、今まで散々みつがせておいて、今さら別れようはないでしょう?」

「あんたの旦那に悪い、と思ってね」

「聞いて呆れるわね。私の亭主や生活のことなんて、一度も考えたことがないくせに」

「お互いさまだろう。あんたは、コレのことしか、興味がなかったしな」

「やっと、主演をとったからって、大きい顔しないでよ。誰のお蔭で、一人前になれたと思ってるの?」

『少なくとも、アンタのお蔭じゃないね』と言う代わりに、弘之は、深々とまゆみに頭を下げた。

「感謝してるよ、アンタには。これから一生の間、頭が上がらないだろう」

「うまいこと言って」とまゆみは言った。

「そのことば、忘れないでよね。あんたと椎名順子のことは、知ってるんだから」

「アレは、単なる共演女優さ。向こうも何とか名前を売りたいんだよ」

「随分、偉くなったものね」

 それが、星空まゆみとの最後の夜だった。

 最後の夜にスクープされたことは、弘之にとっては幸運で、まゆみにとっては不運だった。もっとも、まゆみのほうは、それが最後の夜だとは思ってもみなかったことだろうが。

 その後、まゆみは離婚し、弘之は椎名順子と熱愛した。その熱愛も長くは続かず、いつしか、ピアニストの阿部加奈子と半同棲の生活に入っていた。

『結婚』という二文字のちらつく今日この頃、加奈子との仲も、終わりに近いとは感じていた。

 もし、本多幸枝の娘がこのコンサート会場にいるのなら、一目でも会ってみたい、と思った。

 父親を死に追いやり、母親を発狂させ、そして、自分の人生をスッカリ変えてしまった女の娘。

 今でも、あの時の母親の狂態が目に浮かぶ。菜切り包丁で、父親と愛人の記事の載っている新聞を切り刻もうとしていた。

「お母さん、何をしているの!」

 その時の母親の目。まるで、野性動物のような目の光だった。その後の狂騒状態。自分の周囲のすべてが化学変化を起こしたみたいだった。借金取りが一度に押し寄せ、近隣からは白眼視された。そして、親戚は手のひらを返した。母親は一人で、狂気の世界に旅立っていった。

 アレが母親にとっての唯一の避難場所だったんだろう、と今になって思う。

 数年後に初めて、事件の記事を目にすることになった。偶然ではなかった。

『役作りのため』と自分に言い聞かせた。

 その頃には、母親の存在は、意識に上らなくなっていた。

『本多財閥令嬢、映画俳優と情死』

『道ならぬ恋の精算か?』

 事件は、十一月二十八日の朝刊に、比較的小さく報道されていた。

『十一月二十七日午後四時三十分頃、田山市深垣町を流れる大縫川の上流の川原付近を通りかかった同市在住の会社員平沼昭人さん(38)と同僚の榊原知世さん(28)は、男女が折り重なるようになって死んでいるのを発見、驚いて、田山警察署に通報した。遺体解剖の結果、死因は、青酸化合物による中毒死と判明した。男女の所持品から、女性は、本多財閥令嬢で、本多機械工業取締役社長であり、ピアニスト・画家としても有名な本多幸枝さん(30)、男性は、渋い二枚目として人気絶頂の映画俳優棚部隆一さん(36)と判明、財閥令嬢と人気俳優の心中事件として各界に波紋を投げかけている。』

 事件発表の翌日、翌々日には、何の経過報告もない。新聞を読むかぎりでは、一日限りの事件のようだった。

 図書館の閲覧室が別世界のように思えた。予期していたほどのショックはなかった。新聞を読んだ時、弘之が真先に感じた疑問は、どこかが変だ、ということだった。

 もちろん、父親が清廉潔白な紳士で、母親以外の女性と恋愛したことはない、と思いたいわけではない。多分、父親とこの女性の間には、何らかの恋愛感情はあったのかもしれない。

『しかし』と瀬戸弘之は考える。

『あの父親が、恋愛感情だけで、女と心中するものだろうか』

 棚部隆一は、多分女性関係の絶えない男だったのかもしれない。妻である母親を泣かせたことも数限り無くあったことだろう。しかし、否、だからこそ、そういう男が女と心中事件など起こすものだろうか。それも、今の弘之以上に仕事が乗りに乗っていた時に。

 それにも増して不可解なのは、相手の女性のことだ。女性の社会進出がもてはやされてはいたけれど、一般的には、昔通りの良妻賢母が幅をきかせていた時期だ。その時期に今のキャリア・ウーマンでさえ羨むほどの社会活動を行っていた。それどころではない。今の男の羨むような仕事ぶりだった、と聞いている。そんな女性が、ただ単に、相手の男に妻子がいるということで、前途を悲観するものだろうか。

 自分で生活の糧を稼ぎ、趣味の幅も交際の幅も広い。新しい女である、という印象を受ける。

 何もかも、中途半端な印象をまぬがれない。

 瀬戸弘之は、コンサート終了のアナウンスを聞いた。随分長い物思いにふけったものである。

 弘之の目の前を、会場で見かけたよりも、もっとスゲエ美人が通った。何よりもスゲエことには、その美人は、自分の美貌を知らないようだった。

「本多さんのお嬢さんじゃ、ございません?」

「はい。あのう、あなたは?」

「やっぱりそうでしたか。幸枝さんに、あんまり似てらっしゃるもんですから、もしかすると、そうじゃないかと」

「母のお知り合いでいらっしゃいますか?」

「いやですよ、お知り合いだなんて。覚えてらっしゃらないんですか?」

「はあ…すみません」

 弘之は、反射的に、奈緒美と女の間に割り込んだ。背の高い男が、本多奈緒美を庇うように、弘之の前に立ちはだかった。奈緒美は、男の陰に隠れたまま、弘之の前から、姿を消していた。女は弘之を見て、ギョッとしたように立ちすくんだ。それは、瀬戸の伯母、弘之の母の妹だった。


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