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住吉太造は、息子の靖と本多幸枝の結婚式のことを思い出していた。苦々しい思いが胸にこみあげてくる。
「続いて、新郎新婦の入場です」
次男の隆の結婚式は、予定通りに進行していた。ケーキ一つとってみても、長男の靖の時とは雲泥の差だった。第一、招待客の顔ぶれが違っている。
隆の嫁になる女が平凡なOLで、父親も『社長』とは名ばかりの零細企業のオーナーだった。しかし、太造のほうも似たりよったりの境遇だ。文句の言える筋合いではなかった。
前はこうではなかった。
太造は、目を閉じた。
あの頃が人生の最盛期だった。幸せと喜びの絶頂にいたものだ。ドルは高く、円は安かった。アメリカ、台湾、香港、マカオ、シンガポール……日本にいるよりも、海外にいたほうが長かった。日本の繊維製品は、安くて縫製が丁寧だった。ついで、繊維機械を扱うようになり、会社は急成長した。笑いが止まらないとは、あの頃のことだ。
拍手が鳴り響いた。ウェディング・ケーキへの入刀である。カメラのフラッシュが瞬いている。
以前のように、新聞記者の姿はない。ないといえば、大臣や国会議員、歌手・俳優・作家などの有名人の姿もない。酔ってからむ人間もいなければ、スピーチの途中で絶句して泣き出す男や女の姿もない。平穏無事な結婚式と言えた。
あの時の太造の心には、父親の創設した自社の発展と繁栄しかなかった。父親の買いあさった広大な土地を担保に借金を重ね、ついに、日本製の繊維機械を開発し、そのパテントをとった。
『本多財閥令嬢、住吉財閥令息と婚約』
『財閥』ということばが、耳に心地好かった。住吉機械工業は、とても、財閥と言われるほど歴史のある会社ではなかった。業界では、単なる成り金と見られていたのだ。本多との姻戚関係は、今までにない付き合い、今までにない取引先、今までにない儲けを、会社にもたらすはずだった。
あの時ほど息子の靖を誇りに思ったことはなかった。
本多の一人娘を射止めるとは、たいしたものだ。
美しい花嫁だった。何という美しさだっただろうか。シンプルな純白のドレスがピタリと身に合っている。まるで、妖精か、天女のように見えたものだ。ヴェールには、本物の真珠が光っている。よく見れば、ドレスのほうも真珠色に輝いていた。透き通るような肌の色が、真珠の輝きで、一層引き立ち、幸枝の周りだけが光の渦に包まれているように見えた。
会場に集まった人達は、片時も、花嫁から目を離すことができなかった。花嫁の瞳が、なぜか夢見るようで、この世にはない世界を見ている風情なのも、その現実離れした美しさによく似合っていた。
あいつは、女みたいに泣いていた。
太造は、苦々しく思い出していた。息子の靖は感きわまって、何度もハンカチで涙を拭っていた。
『あの時が、あいつにとっても、人生で一番幸福な時期だったんだろう』
最初の妻の正子が、その後の悲劇を見ずに死んだことは、幸運だった。
本多から靖に機械部門の経営をまかせたいと言ってきていた。ということは、同族会社である本多の経営に参加できるということだった。
その時に筋書きはできあがっていたのだろうか。
会社のすべて、とまではいかないだろうが、一部が住吉のものになるのだ。太造の心は動いた。まだ若かったのかもしれない。そして、後で気付いてみれば、借金をして開発した機械のパテントは、本多のものになっており、自社で開発した機械を売るのに本多の許可を得、高額なパテント使用料を支払わなければならないという奇妙な状況になっていた。
以後、本多機械は、組織力にものをいわせ、外貨を稼ぎまくった。そして、現在のような一大コングロマリットを形成したのだった。
確かに、本多は、約束を守った。太造の息子の靖は、幸枝との結婚のすぐ後に、機械部門の取締役に就任し、本多邸に移り住んだ。父親の不満がこうじてきているのを知った靖は、父に便宜をはかろうとしたようだったが、実行はできなかった。
あいつは、名ばかりの取締役で、実権はなかったのではないだろうか。
その頃から、いや、その前から、靖の挙動には不審な点が多かった。
『あいつは、夫として扱われてなかったのではないか』という考えが、唐突に浮かんだ。靖は存在感の希薄な人間だった。あの結婚式でも、誰も、太造自身でさえ、息子には注意をはらっていなかった。妻の正子にいたっては、靖が泣いていたことにさえ気付かなかったのではないだろうか。しきりに話したことといえば、花嫁の美しさ、花嫁のドレスの見事さ、ウェディング・ケーキの高さ、料理の豪華さ。
なぜか、嫁にひどい気後れを感じていた。幸枝は、有名人と友達付き合いをし、いつも、自分のすることが一番正しいと思っているような女。正子のほうは、旧家出身とはいっても、田舎育ちの女だった。
「私、幸枝さんと、うまくやってけるでしょうかね」と、自分が本多の嫁にでもなったかのように心配し、不安に感じていたようだ。しかし、そんな心配は不要だった。幸枝が住吉の家に姿を現したことは、妻の生きている間には、一度としてなかった。
「何だか、養子にとられたみたいですねえ」と正子は、よくこぼしていた。幸枝からは折りにふれて、芝居の観劇券や旅行のクーポン券が、舅姑あてに送られてきていた。正子は、その度に小踊りして喜び、田舎の母親に送ってやったり、友人知人と出掛けたりして、結構活用していたようだ。田舎の人間らしく、丁寧な礼状を送ったり、時候の挨拶を送ったりしていたが、それに返事がきたとは聞いたことがなかった。
幸枝が初めて住吉の家を訪れたのは、正子の葬式の時だった。孫の奈緒美は、まだ生まれていなかった。住吉機械工業の絶頂期でもあり、近隣の語りぐさになったほど盛大な葬儀だった。
「ご無沙汰ばかりしているうちに、こんなことになって……」
幸枝は初めて嫁らしく太造に挨拶し、裏にまわって、料理や酒、茶菓の手配をしていた。その采配ぶりは、親戚の間で評判になったほどだ。
異常に黒の似合う女だと太造は思った。妻を失ったばかりだというのに、幸枝の後ばかりを目が追うので困ったものだ。同じように目を血走らせていたのが、息子の靖だった。母親の死なんかには、興味も関心もないとばかりに、幸枝のほうばかりを目で追っている。
一年余りの間に、すっかり人相が変わってしまっていた。育ちのいいお坊ちゃんといったところがなくなり、ソワソワと落ち着きがなく、始終イライラしているようだった。
「どこか悪いんじゃないか」と太造が思わず言ったほど、険しい痩せ方だった。
「悪いって、何が?」
魂の抜けたように、靖は上の空で答えていた。目は、憑かれたように幸枝を追っている。太造は、それ以上何も言わなかった。
男として、靖の気持ちは理解できるつもりだった。半分羨ましくもあり、妬ましくもあった。あんまり美人の嫁さんをもらうのも、考えものだ。
『まさかな』と太造は思った。
目の前の結婚式では、花嫁と花婿がお色直しのために退場したところだった。まだスピーチが続いている。
『隆のやつ、いつのまにか、大人になって』
次男の隆の妻の裸は、こんな場面で不謹慎ながら、たやすく想像することができた。太造も、これまで散々遊んできたほうである。大抵の女の裸身は、服の上からでも手にとるようにわかる。もう少し言えば、隆と妻は、もう勝手知ったる仲だ。
しかし、靖の妻だった女となると、太造の経験をもってしても、うかがい知ることはできなかった。男の匂いのまったくない女だった。
では、やはり、自分の想像はあたっているのだろうか。前の妻の死んだ時、あの女はまだ処女だったのではないか。
太造は、遠い昔のことを思い出していた。恋いこがれた女と、いざ、という場面になって、突如、不能状態になってしまった。焦れば焦るほど、欲望とは無縁の状態になっていく。女のほうは、さぞかし侮辱されたと感じたことだろう。幸枝のような女に向かいあえば、同じような状況に陥るだろうことは容易に想像できた。太造が好きだった女は、あてつけのように他の男と付き合って、太造のところに結婚の相談に来たりした。そして、やがては、遠くに嫁に行ってしまった。そのことを思い出すと、今でも悔恨に似た感情に支配される。あれでよかったのだろうか、と心が微妙に揺れ動く。
『とにかく、ちゃんと子供まで生まれたじゃないか』
それ以上、靖のことを考えるのは苦痛だった。罪悪感が胸を刺す。
花嫁の父親がハンカチで涙を拭いているのが見えた。両親に贈る手紙が朗読され、花嫁の両親にスポット・ライトがあたっている。つまらない演出をするものだが、花嫁の目にも涙が光り、これはこれでいいのかもしれない。
孫の奈緒美が生まれる頃には、太造は、すでに今の妻と再婚し、次男の隆が妻のおなかの中にいた。靖のことは、ほとんど忘れかけていたと言ってもいい。気にはなっていたが、どちらかといえば新しい家庭のほうが大事だった。
次々に三人の子供が生まれた。五十をとうに越えていたのだから、頑張ったほうだといえるだろう。
本多に腹を立ててはいたが、事業は順調に伸びていたし、本多関係の取り引きも多かったので、損得勘定をすれば、得のほうが多い時期だった。本多とは、付かず離れずの状態が続いていた。何しろ、二度目の妻とは、親子ほど年が離れており、同じ年頃の息子がいて、孫が生まれるなどということは、なるべく忘れていたかった。靖のほうも、新しい母親が来てからは、以前にも増して実家から足が遠のいていた。
『今になって、はらわたが煮えくりかえる』
孫の誕生、そして、息子の訃報。
あまりに突然のことで、ただただ、うろたえるばかりだった。後に続く葬儀。太造は、オロオロするだけで、葬儀の一切は、本多が取り仕切った。
通夜の弔問客の多さは、想像を絶した。その大半が本多の会社関係だった。それは、本多の娘婿の葬儀であって、住吉太造の息子の葬儀ではなかった。
喪服姿の幸枝は、ゾッとするほど妖艶で、太造は、幸枝を見た瞬間、全身が総毛立った。黒に包まれた幸枝は、肌から微光を発しているようにも見え、直視するのがはばかられるほど美しかった。太造の親戚の老婆などは、思わず両手を合わせていた。
「観音さまのようだった」と老婆は、後に、感想をもらしていた。
あの女には、誰も何も言えなかったにちがいない。きっと、靖もそうだったのだ。かくいう太造自身、幸枝の前に出ると、膝頭がガクガクと震えて困ったものだ。
靖の死因は、心臓マヒであると言われていた。太造自身、確かめる術もない。新聞には意外なほど小さな記事で『病死』とだけ書かれていた。本多勝一郎が、手を回したに違いなかった。
靖が死に、あの女は本多の姓に戻り、潮が引いていくように、本多関係の取り引きがなくなっていった。事業を縮小し、土地を切り売りして、何とか倒産をまぬがれた。
息子を殺し、会社を縮小させた。本多とあの女は、いくら憎んでも憎みたりない相手のはずだった。
それが、あの女が死んだと知った時、一瞬、目の前が暗くなり、ついで、不覚にも涙がこぼれてきた。ざまあみろ、という気持ちには程遠く、何か大事なものを失ってしまったように思えた。最愛の女に死なれたような淋しく切ない気持ちだった。今の妻を失ったとして、果たしてあれほど残念に思えるかどうか、太造には自信がなかった。
「あなた、あんまり飲んじゃだめよ」
太造は、自分がどこにいるのかと、一瞬とまどった。妻が、手にしたグラスを睨んでいる。新婦の友人達が歌を歌い、酔いの回った老人が歌に合わせて踊っている。
「ああ」と太造は、夢から覚めたような気持ちで言った。まだ娘が一人残っている。まだまだ、老けこんで、追憶に浸っているわけにはいかなかった。
「いい結婚式だ」
誰に言うともなく、太造は、口の中でつぶやいていた。




