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フリルのついたスリッパが、階段を上って行く。同じようにフリルの多いブラウスにスカート姿だ。髪は長く、腰のあたりにまで伸びている。前髪にだけ軽くパーマがあたっているように見えるが、生まれつき癖のある髪なのかもしれなかった。耳の横で結んでいる細いピンク色のリボンが、少女の柔らかな顔立ちを引きたたせていた。
「おじいさま」
少女は階段を登りきり、ノックもせずに、二階にある大きなドアを両手で開けた。勝手知った様子で中に入り、真っ直ぐに部屋の右手のドアに進んでいく。広い部屋の中は、住む人がないかのように整然としていた。左手には、会議でもできそうな大きな机と椅子、そして、唯一、人の住んでいる気配のする書架が見える。書架が少し乱れているのは、部屋の主が読書好きなせいかもしれなかった。
ドアを開けると、また部屋があり、寝室になっていた。寝具から頭だけを出している老人は、まだ眠っているように見えた。
「おじいさまあ」
臆する気配もなく、少女は老人に呼びかけた。声には甘えた調子が混じる。
「お、お、お」と言って、老人はゆっくりと目を開いた。
「おお、幸枝か」
「もう、おじいさまったらあ」と少女は唇をとがらせた。
「また、お母さまと間違えて」
祖父は、毎朝、母と自分を混同する。少女は、そのことが不満だった。長年のうちに、それは習慣のようなものになっていた。もし、祖父がその習慣を変更したら、自分のほうが困惑するであろうとは考えてみたこともなかった。
「ああ、そうか、奈緒美か」
奈緒美は、日に日に、娘の幸枝そっくりになっていく。胸に愛しさがこみあげ、本多勝一郎は、昔からの習慣のまま、奈緒美の頭を撫でた。もう奈緒美は、頭を撫でてはおかしい年齢になっていたが。
「お父さま、私はもう子供じゃないのよ」
幸枝なら、もっと幼い時期にそう言ったことだろう。その日を待っているのだろうか。しかし、この子は、永遠にそんなことは言わないのかもしれなかった。
「学校の用意はできているのか?」
「もう、おじいさまったら。春休みになって、もう一週間もたつのに」
「おお、そうだったな。そろそろボケてきたかな。わしも、もう年じゃ」
「大丈夫よ。おじいさまは、まだ現役なんだから」
勝一郎は、奈緒美を見つめた。これほど幸枝に容貌が似ているのに、決定的に違うところがある。奈緒美は平凡な娘なのだ。他の大勢の娘達に紛れ込んでしまう。
「また、お母さまと比較しているんでしょう。私とお母さまは違うのよ。私は、お母さまのように強い人間じゃないわ」
夫でもない男と心中の真似をするのが強い人間と言えるならな、と勝一郎は、心の中で考えていた。
幸枝が死んだのが、まるで昨日のようだ。その日だけが、他の日とはまったく違った日なのだ。その日は、まだ自分の中で、スッポリと抜け落ちたままの日だった。その時幼児だった奈緒美が、もう十八になる。ずっと昔のことなのに、年を経るごとに、昨日のことのように、または今日のことのように、否、まるで明日起こるように運命づけられている出来事のように思えてしまう。
思い出は、日に日に蘇る。
何とかその出来事を阻止しようとする焦りを覚える。何とかできたのではあるまいか。何とかできるのではあるまいか。
勝一郎は、焦り、苛立ち、苦悶する。実際にはもう終わってしまったことで、今の自分にはどうすることもできないのだが。
「ねえ、おじいさま。この恰好でおかしくないかしら? 少し可愛すぎるかしら?」
勝一郎は目を細めて、幸枝を、いや、奈緒美を見た。この子と幸枝とは、一体どこがどう違うというのか。瓜二つの容貌を持つ奈緒美を平凡な娘に見せているものは。
娘の幸枝が他の娘に紛れてしまうことは、一度としてなかった。美貌のせいばかりではない。知性のせいというわけでもない。
『それは、力だ』と勝一郎は思っていた。本多家に代々受け継がれてきた『力』。自分の周囲に一種の磁場を作る力。人々に有形無形の影響を与える力。人の上に立つ力。人の上に立っていても、誰もが不思議に思わぬ力。その力は、経済力でもなく、政治力でもない。金力や権力でもない。強いて言えば、自分に正直であり続ける意志の力と言えようか。いついかなる場面においても、裸の自分でいられる力。自分以外の何物にも寄り掛かることなく、自分一人で立っていられる力。
「おじいさまあ、黙っていてはわからないわ。どうなの?」
勝一郎は、再び目を細めた。
幸枝を奈緒美ほど可愛いと思ったことは、一度としてなかった。そっくり同じ容貌でありながら、幸枝は可愛くない娘だった。可愛いと思われることなど、恥だと考えているようだった。
勝一郎は、『息子』のように幸枝を愛していた。
自分の分身として、自分の後継者として。
だから、幸枝の死んだあの日は、いつまでたっても特別な日だった。娘と息子と後継者を、自分の分身を、一度になくした日だったからだ。
「それで、いいと思うよ」
勝一郎は目を閉じた。心を占めているのは過去のことばかりだった。幸枝に対する愛憎が、一時に押し寄せてくる。
あの娘は、母親を憎んでいた。家事と育児しかできない母親を軽蔑していた。それは、自分のせいだったのだろうか。いや、そうではない。もう済んだことだ。
「やっぱり、リボンはおかしいかしら?」
「いいや。可愛いよ」
「おじいさまったら、見もしないで、無責任だわ」
「見なくてもわかる、見なくても。きっと、逹彦君も、そう思う」
「もう」
奈緒美の頬がバラ色に染まった。
『長友』とか、『逹彦』という名前を聞くだけで、胸が痛くなり、頬に血がのぼる。自分でも何とかしなければと思う。極端な場合には、『なが』とか『たつ』ということばを含む会話だけでも赤くなってしまう。透けるように色白なので、頬にのぼった血の色を隠すことは不可能だった。バラ色の頬は、奈緒美の美貌を引き立てこそすれ、決して損なうことはなかったが、本人にとっては消えいりたい思いしかなかった。この気持ちを、祖父に知られたくなかった。誰にも悟られたくはなかった。当人の逹彦には、どんなことがあっても、知られたくない。
祖父の紹介してくれたボーイフレンドを好きになっていけないことはない。しかし、奈緒美の場合は、自分でも度を過ごしていると思う。自分の感情をおさえることができないのだ。それに、自分の選んだ相手ではなく、祖父の選んでくれた相手だということも、奈緒美の物思いに拍車をかける。与えられた相手を愛してしまっても、いいものなのだろうか。恋愛とは、もっと激しいものではないのだろうか。
でも、私には、そんな激しい恋はできないわ、と奈緒美は思った。
軽いいびきをたてて再び眠り込んでしまった祖父を残して、奈緒美は祖父の部屋を後にした。
自分の部屋で、もう一度、鏡に全身を写してみる。ちょっとフリルが多すぎるかもしれない。逹彦なら、もっと大人っぽい服装をした相手が似合うだろう。
着せ替え人形のように黙って立っている。すると、服ができあがってくる。奈緒美の大好きなピンクのフリルつきのドレス。文句を言う筋合いではない。母も同じブティックで服を作っていたらしい。しかし、母と違って、奈緒美の場合は、自分で選んだ服ではなかった。誰かが自分に一番合うものを探してくれ、見つけてくれ、作ってくれる。それは、安心なことではないだろうか。
「奈緒美さま、逹彦さまがお見えになりましたよ」
長年本多家に住み込んでいる春木さんが、奈緒美に告げた。
「まあ、何てお綺麗なんでしょう」
「ねえ、春木さん。逹彦さんは、どんな恰好をしてらした? ネクタイは?」
春木さんが笑った。
「大丈夫ですよ、おじょうさま。そのドレスなら、どんな男のかただって見惚れてしまいますから。それに、きっともう知ってらっしゃいますよ、新しいドレスのことは」
「そうかしら。それじゃ、ガッカリだわ」
「でも、それほどお似合いになるなんて、おわかりになりませんよ。私が保証します」
春木さんの目には、奈緒美に対する愛情があふれている。
「春木さんにそう言われると、自信がわいてきたわ」
「さあ、さあ、ホールにお待たせしたままですよ」
部屋を出る前に、奈緒美は呼吸を整えた。春木さんは、奈緒美の母親のような存在だった。何も言わなくても、奈緒美の気持ちがわかっている。だから、春木さんには何でも話すことができた。学校のこと、友達のこと、自分の小さな悩みについて。
しかし、逹彦に対する思いだけは、話すことができなかった。初めてのキスは、緊張のあまり、おでこへのキスになってしまったことや、いつも逹彦のそばにいたいこと、そして、それ以上のことは。
「ねえ、本当におかしくないわね」
「大丈夫」
奈緒美は踊るように階段を駆け降りた。逹彦が、階段の下から奈緒美を見上げて、ニッコリと大きく笑った。
『ステキ! まるで、映画みたい!』と奈緒美は思った。




