プロローグ
プロローグ
本多幸枝は、玄関の壁に彫りこんである鏡に、自分の全身を写してみた。
ストッキングの色が濃すぎたが、時計を見ると、約束の時間が迫っていた。履きかえている暇はない。
何となく、イライラした。自分の思い通りにならないことには、昔からイライラするたちだった。約束に遅れていくことも考えたが、そうすれば、相手はすぐに諦めてしまうだろう。それでは、計画が狂ってしまう。
自分の意のままにはならない相手だった。だから、気にいっているとも言える。
ストッキングのことは諦め、玄関に用意しておいた靴に足を入れた。一瞬、ストッキングを引きむしろうかと思うほどの嫌悪の情がわいた。嫌悪の対象は、ストッキングなのか、待ち合わせの相手なのか、または、その他のものなのか、幸枝にはわからない。
バッグを掴むと、玄関のドアを開けた。自分の慣れ親しんだ屋敷が、見知らぬ場所のように思え、幸枝はかすかに身震いした。それが寒さのせいでもあると気づく間もなく、ガレージの中に姿を消した。まだ使用人の起き出す時刻ではない。
ガレージの中で車のエンジンを始動させながら、いつになく自分が弱気になっているのがわかった。なかなか車を発進させる気になれない。随分長い間、エンジンの音を聞いていたように思うが、実際にはほんの数分のことだ。車が発進し、その日の夕刻に、田山市の山林で、映画俳優の棚部隆一との心中死体として発見されるまでの足取りは不明だった。
彼女の運転する車は、未明の国道を、誰にも知られていなかった目的地に向かって疾走していた。まさに、死への疾走であった。




