第七話 思いどおりにならない風
大陸歴662年・春
リネが石段で足を滑らせた翌日、私はエレナ母様と一緒に学院の先生を訪ねた。事情を聞いてくださったのは、普通科の担任の先生と、魔法科の先生だった。
「もう一度、同じように風を起こしてみてください。危ないことをする必要はありません。小さな風で構いませんよ」
そう言われて、私は返事に困った。昨日はリネが落ちると思って、夢中で手を伸ばしただけなのだ。夜にも試してみたけれど、何も起こらなかった。
「……やってみます」
私は掌を前へ向け、あのときの感覚を思い出そうとした。胸の奥で、何かが押し出されるような感覚。リネを助けたいと、ただそれだけを願っていた。
けれど、風は吹かない。
もう一度、指先に意識を集中してみた。それでも、何も変わらなかった。
「申し訳ありません。やはり、できないようです」
「そうですか……」
魔法科の先生は少し考えてから、机の上に、手のひら大の水晶を載せた台座を置かれた。
「では、少しだけ、私からあなたに魔力を流してみましょうか」
「先生の魔力を、ですか?」
「ええ。昨日、あなたの魔力は一度外へ流れたはずです。その感覚を、外から少し刺激して呼び戻してみます。驚くかもしれませんが」
先生は私の手首に指を添えた。
「痛みや気分の悪さを感じたら、すぐに教えてください」
「……はい。お願いします」
初めは、かすかに温かいだけだった。
けれど、次の瞬間、身体の奥にある何かが、急に押し動かされるような感覚が走った。
「……っ!」
思わず息を呑んだ。胸の奥から腕へ、そして指先へと、今まで意識したことのないものが流れていく。閉じていた細い水路に、初めて水が通ったようだった。
「その感覚です。無理に押し出そうとせず、流れに任せてみてください」
先生が手を離した。それでも、指先へ向かう流れは、すぐには消えなかった。
「では、そのまま掌を水晶に近づけてみましょう」
言われたとおりにすると、水晶の内側に小さな風の渦が現れた。細く巡っていた渦は、少しずつ勢いを増していく。
「……これが、私の魔法なのですか」
「ええ。あなたの風魔法ですよ。今、水晶に流れているのは、あなた自身の魔力です」
私は自分の掌を見つめた。確かに、何かが流れていた。先生はもう手を触れていない。それなのに、水晶の中の渦はまだ消えない。
父様と同じ、風の魔法。何年も待って、それでも私には使えないのだと思っていたものが、ようやく私の中にもあると分かったのだ。
「……本当に、私にも?」
「ええ。風魔法が発現したことは、確かでしょう。ただし、自分の意思で自在に扱えるようになるには、訓練が必要です」
私はもう一度、水晶の中の渦を見つめた。少し動かしてみようと思ったけれど、どうすればよいのか分からない。そうしているうちに、渦はゆっくりと小さくなり、やがて消えていった。
「……まだ、どうすればいいのか分かりません」
「昨日、初めて風魔法が発現したばかりですからね。使い方は、これから少しずつ覚えていきましょう」
隣にいたエレナ母様が、私の手をそっと包んでくださった。顔を上げると、嬉しそうに微笑んでいらっしゃる。ようやく私にも風が使えたのだと思うと、胸がいっぱいになった。
風魔法が発現したことは、父様にも手紙でお知らせした。お返事は思いのほか早く届いた。
『おめでとう、マリー。父もとても嬉しく思っている。これからは先生の指導をよく聞き、少しずつ魔法に慣れていきなさい。帰省したときに、どんな風を見せてくれるのか楽しみにしている』
父様らしい、温かな文章だった。
レオンは『マリー姉様の魔法、早く見たい!』と書き、エリーズからも『マリー姉様、おめでとう。私にも見せてね』とあった。ニナの『マリー姉様、すごい!』という小さな文字も、手紙の余白に並んでいた。
手紙を読み返していると、隣から覗き込んだコットが言った。
「姉様、みんなからはなんて?」
「みんな、喜んでくれているわ。こんなに喜んでもらえるなんて、何だか照れくさいわ」
「私も嬉しいわ。姉様の風、早く見てみたいな」
「でも、まだ上手には使えないのよ」
「そうなの? じゃあ、上手にできるようになったら、私にも見せてね」
コットは楽しそうに笑った。エレナ母様も、手紙を覗いて微笑まれた。
「レオンたちにも、帰省したら見せてあげられるといいわね」
「はい。もう少し上手になってからですけれど」
「ふふ、楽しみね」
エレナ母様の笑顔につられて、私も微笑んだ。
それからは学院の先生に教わりながら、何度も風を起こす訓練を続けた。初めはあの感覚を思い出すだけで精一杯だったけれど、少しずつ、自分の意思で風を出せるようになってきた。
風が吹くたび、嬉しくなる。けれど、出せるようになったからといって、思いどおりに動くわけではなかった。
大陸歴662年・夏
夏の初め、魔法科への転籍が決まった。
魔法科は一学年に一つの学級しかない。初等課程では別の教室だった上級家門の方々とも、これからは一緒に学ぶことになる。初日は緊張したけれど、授業が始まると、慣れない魔法の勉強についていくだけで精一杯だった。
転籍した日の昼休みも、私はいつもの中庭へ向かった。
「マリー!」
エマが先に気付いて、手を振ってくれた。その隣でリネが席を空ける。
「どうだった? 魔法科の授業」
「普通科と同じ授業も多いから、そこは大丈夫。でも、魔法の授業と実技は……」
「難しい?」
「ええ。『小さな風を起こしてみましょう』と言われたのだけれど」
「それで?」
「窓際に積んであった紙まで、全部吹き飛ばしてしまったの」
リネが目を瞬いた。次の瞬間、エマが笑いをこらえるように口元を押さえた。
「ごめんなさい。笑ってはいけないわよね」
「いいの。私も先生と一緒に紙を拾いながら、笑ってしまったから」
「でも、風を出せるようになったんでしょう? すごいじゃない」
エマが嬉しそうに言った。
「ええ。私もマリーの風、見てみたいわ」
「ありがとう。もう少し上手になったら、二人にも見せるわね」
二人は笑顔で頷いてくれた。
魔法科へ転籍したら、二人と過ごす時間まで変わってしまうのではないかと心配していた。けれど、昼休みの席も、話す内容もいつもどおり。そのことが、私は嬉しかった。
覚えることは増えた。それでも、あの日、リネに手を伸ばしてよかった。そう思うと、難しい実技にも、もう少し向き合える気がした。
転籍して数日が過ぎた。午後の実技では、風魔法の基礎訓練が続いていた。
最初は、風の出力を確かめる課題だった。机に据え付けられた小さな風車を回す。先生が手本を見せてくださったあと、私も掌を向けて風を送った。
風車は勢いよく回り、軸がかすかに音を立てた。
「出力は十分ですね。では、次へ進みましょう」
先生は少し驚かれたようだった。風を起こすだけなら、私にもできる。そう分かって、嬉しくなった。
けれど、次の制御の課題では早くもつまずいた。
木の台から吊るされた小さな鈴を、風で一度だけ鳴らす。先生が掌を向けると、チリン、と澄んだ音が響いた。鈴は小さく揺れながら、ゆっくりと静かになった。
私も同じように、そっと風を送った。
チリン、チリン、チリン!……
鈴が激しく揺れ、音が続いた。先生が指先でそっと鈴を押さえてくださる。
「……強すぎました」
「では、もう少し弱くしてみましょうか」
今度は慎重に魔力を流した。けれど、鈴はぴくりとも動かない。
強くすれば鳴りすぎる。弱くしようとすると、動かない。一度だけ鳴らすという簡単そうなことが、どうしてもできなかった。
「……もう一度、お願いします」
先生は頷いてくださった。
何度試しても結果は同じだった。隣では、鈴を終えた生徒が羽根を風に乗せ、小さな籠へ運んでいる。あれが次の課題らしい。
ほかの生徒の多くは、何年も前から魔法を使っている。同じようにできるはずがない。分かっているのに、少しばかり悔しかった。
「急ぐ必要はありませんよ、ラフォール嬢」
「はい。……もう少し、やってみます」
私はまた掌をかざした。今度も鈴は何度も鳴った。音が収まるのを待っていると、近くで火魔法の訓練をしていた男子生徒が声をかけてくださった。
「なかなか、思うようにいきませんか」
「ええ。弱くしたいのに、いつも強くなりすぎるんです」
背筋の伸びた方だった。制服には、ヴェルディス伯爵家の家章が付いている。
その方は鈴を見て、少し考えてからおっしゃった。
「よろしければ、少し一緒に訓練してみませんか」
「えっ。よろしいのですか」
「ええ。私も魔法を覚えてすぐは、火を止めるのに苦労しましたから」
「ヴェルディス様も、ですか?」
「はい。袖を焦がしてしまったこともあります」
意外なお話に、私は思わず笑ってしまった。その方も、少しだけ笑われた。
「弱い風を出そうとするより、まずは短く出して止めてみてはどうでしょう。私が合図します」
「はい。お願いします」
私は鈴へ掌を向けた。
「……今です」
風を止めたつもりだったのに、鈴はまた「チリン、チリン、チリン!……」と、大きな音を立てて鳴ってしまった。
「少し遅かったでしょうか」
「そうかもしれません。もう一度、試してみましょうか」
何度か繰り返した。言われたとおりにやっているつもりなのに、どうしても加減が分からない。
「少し、肩に力が入っているかもしれません。……手首に触れてもよろしいですか」
「はい」
彼は私の手首にそっと指を添え、掌の向きを少し直してくださった。言われて初めて、肩まで固くしていたことに気づく。すぐに手を離されたので、私は腕の力を抜いてみた。
「その方が、楽ではありませんか」
「……ええ。少し」
息を整えて、今度はほんの一瞬だけ風を送った。
チリン。
鈴が小さく揺れ、澄んだ音が一度だけ響いた。私は思わず顔を上げた。
「……鳴りました!」
「ええ。きれいな音でしたね」
嬉しくなって、すぐにもう一度試した。
チリン、チリン!
「……また、鳴りすぎました」
「今度も、うまくいくと思ったのですが」
「私も、そう思いました」
「そう簡単にはいきませんね」
二人で顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
「申し遅れました。アランディール・ヴェルディスです」
「マリアナ・ラフォールと申します。お付き合いいただいて、ありがとうございました」
「こちらこそ。私も、楽しかったです」
ちょうどその頃合いで、ヴェルディス様は先生に呼ばれ、私に軽く一礼して戻っていかれた。
鈴を一度だけ鳴らせたのは、ほんの一回。次はまた失敗したけれど、あの澄んだ音が耳に残っていた。初めてお話しした方と、あんなに何度も笑うことになるとは思わなかった。
実技の終わりに、先生から魔力量検査を勧められた。風車を勢いよく回したことが気になったらしい。私はその場で申し込むことにした。
王都の屋敷へ戻ると、エレナ母様が私の顔を見て微笑まれた。
「あら、今日は少し疲れた顔ね。でも、悪いことばかりではなかったでしょう?」
「……分かりますか」
「ええ。何があったの?」
私は今日の実技についてお話しした。風車はすぐに回せたのに、鈴を一度だけ鳴らすことが難しかったこと。ヴェルディス様という同級生が、一緒に試してくださったこと。そして、一度だけきれいに鳴らせたことも。
「魔力量検査も申し込みました。授業の後なので、帰りが遅くなるかもしれません」
「分かったわ。迎えの者にも伝えておきましょう」
エレナ母様は頷いてから、私の顔をもう一度ご覧になった。
「それにしても、楽しそうね。失敗したお話をしながら、笑っているんですもの」
「……そうですね。うまくいかないことばかりでしたけれど、今日は楽しかったです」
「そう。それならよかったわ。さあ、お茶にしましょう」
エレナ母様とお茶をいただきながら、私は今日のことをお話しした。スプーンが受け皿に触れ、小さな音がした。昼間の鈴を思い出して、私は笑った。次こそ、もう一度あの音を出せるだろうか。そう考えると、明日の実技が楽しみだった。
――エマの手帳より
大陸歴662年・初夏
『マリーが魔法科へ転籍した。ずっと望んでいたことのはず。私も嬉しい』
『でも、同じ教室でなくなるのは少し寂しい』
『昼休みはいつもどおり三人で。席も同じ。私も少し安心した。マリーには言わなかった』
『実技で紙を全部飛ばしたらしい。先生と一緒に拾ったそうだ。次はどんな訓練をするのか聞いてみよう』
『魔法理論は普通科でも習う。復習しておくこと。私には風を起こせないが、話は聞ける』




