閑話Ⅱ 友の悩み
大陸歴641年・夏
「私、妻として失格なのかな……」
突然の言葉に、私は返事ができなかった。目の前で、親友のエレナが泣いていた。あのエレナが、である。学院時代から、誰よりも勝気で、明るくて、困ったことがあれば真っ先に動き出す人だった。
私はマルグレート・ベルナール。旧姓はドメトル。学院時代からの友人たちは、今も私をマリーと呼ぶ。エレナとは、まだお互いが実家の姓を名乗っていた頃からの付き合いだった。
先ほどまで、王都で流行している衣装のことや、ラフォール領の商売のこと、今年から高等課程へ進んだ私の妹のクラリスのことなど、いつものように楽しく話していたのに。
「エレナ……どうしたの?」
彼女はカップを両手で包んだまま、俯いていた。
「子供が、できないの」
小さな声だった。
「あの人は、何も言わないわ。私のことも大切にしてくれる。それは分かっているの。でも……」
言葉が途切れた。
「私、あの人のために何もできていないんじゃないかって……」
私は何も言えなかった。エレナは、ラフォール領のために随分と働いている。領地の商いを見直し、王都との取引を増やし、領民の暮らしを少しでもよくしようと、日々努力している。それを私は知っている。
けれど、彼女が今、そんな話を聞きたいわけではないことも分かっていた。魔法の血を受け継ぐ貴族には、子供が授かりにくい家もあるという。以前、どこかで聞いたことがあった。
ラフォール家は、風の魔法を受け継ぐ子爵家だ。
跡継ぎのことを考えずにはいられないのだろう。私は、今年生まれたばかりの息子、ルシウスのことを思った。先ほどまで、エレナはあの子を嬉しそうにあやしてくれていた。そのとき、彼女が何を思っていたのか。
考えると、胸が苦しくなった。
「……ごめんなさい、マリー。こんな話をして」
「どうして謝るの?」
「だって、せっかく久しぶりに会えたのに」
エレナは無理に笑おうとした。その顔を見て、私は昔のことを思い出した。私の生家、ドメトル男爵家では、母様が早くに亡くなった。私が十三歳のときだった。
母様は末弟のフィリップを産んでから体調が戻らず、二年ほど経った頃、とうとう帰らぬ人となった。クラリスはまだ五歳で、フィリップは二歳。私は、二人の母親代わりにならなければいけないと思った。学院で勉強して、家に帰れば妹と弟の面倒を見る。
父様は王国の福祉に関わるお仕事で忙しかったけれど、私たちのことをいつも気にかけてくださった。母様のご実家の方々も、たくさん助けてくださった。それでも、あの頃の私は、何でも一人でできるようにならなければいけないと思い込んでいた。実際には、随分と周囲の人に頼っていたのだけれど。
エレナにも。母様を亡くして学院へ通うのがつらかったとき、彼女は何も聞かずに隣にいてくれた。私が泣いてしまった日には、無理に笑わせようともせず、ただ手を握っていてくれた。
そうだった。
あのときも、こんなふうに。
「エレナ」
私は、彼女の手をそっと握った。
「いつでも話を聞くよ」
少しぎこちない笑顔になってしまったと思う。でも、構わなかった。今の私にできることは、きっと彼女のそばにいることなのだ。これまでも、そうしてきたのだから。
「いつでも一緒にいるよ」
今度は、もう少しうまく笑えたかもしれない。ふと、母様の顔が浮かんだ。病気で体が弱ってからも、母様は私たちによく笑いかけてくださった。あの笑顔に、どれほど安心したことだろう。
私はエレナの隣へ移り、少しだけ強く抱きしめた。
「……ありがとう、マリー」
しばらくして、エレナが言った。
「あなたと親友でよかった」
「何よ、今さら」
私は笑った。
「いつも支えてくれていたのは、あなただったじゃない。クラリスもフィリップも、あなたには感謝しているのよ」
「そうかしら……」
「そうよ。少なくとも、私はずっと感謝しているわ」
エレナはようやく顔を上げた。目元は赤かったけれど、そこにはいつもの笑顔が少しだけ戻っていた。
「ねえ、マリー」
「なあに?」
「もし、女の子が生まれたら、あなたと同じように、マリーと呼べる名前をつけたいわ」
「……もう、気が早いわ。そんな大事なことは、ギヨーム様と相談しなくちゃ」
そう言って、私たちは少しだけ笑った。
大陸歴642年・夏
「姉様、私、ラフォール家に嫁ぎたいの」
私は、飲みかけていたお茶を置いた。目の前には、妹のクラリスが座っている。今年十六歳になったばかり。王国学院の高等課程二年生である。
「……何ですって?」
「だから、ラフォール家に嫁ぎたいの」
聞き間違いではなかったらしい。クラリスは涼しい顔で、もう一度同じことを言った。
「どうして、また急に……」
「急じゃないわ。ずっと考えていたの」
私は妹の顔を見つめた。幼い頃から綺麗な子だったけれど、最近は随分と大人びてきた。ドメトル男爵家にも、彼女への縁談の申し入れがいくつも届いている。母様が亡くなった頃には、まだ私の後ろをついて歩いていたのに。
その妹が、今度は自分の結婚について話している。
「エレナ姉様を支えたいの」
クラリスは真剣な顔で続けた。
「小さい頃、エレナ姉様はよく私の話を聞いてくださったでしょう。遊んでくださったり、勉強を教えてくださったり。姉様が家のことで忙しくしているときも、あの方と過ごす時間が楽しみだったの」
私は頷いた。母様が亡くなってから、私も家のことで精一杯だった。エレナが妹を気にかけてくれていたことは、よく覚えている。
「だから今度は、私があの方の力になりたいの」
私は少し考えてから、尋ねた。
「でも、クラリス。あなたが嫁ぐのは、エレナではなくギヨーム様でしょう?」
妹は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「もちろん、分かっているわ」
「なら、もう少しよく考えなさい。ギヨーム様は立派な方だけれど、あなたとは年齢も離れているし、それに……」
「ギヨーム様だって、いつも私の話をきちんと聞いてくださるもの。年下だからと笑ったりなさらないし、お仕事をなさるときは、とても真剣で……」
クラリスはそこで言葉を切り、少し頬を赤らめた。
「私、ああいうところが好きなの」
私は返す言葉を失った。
「……本当に?」
「本当よ」
クラリスは、当然だと言わんばかりに頷いた。困ったものだ。この子ほど器量がよければ、同年代の貴族子弟からいくらでも縁談があるだろうと思う。それなのに、既に妻のいる、八歳も年上の子爵に嫁ぎたいという。
「クラリス。結婚というのは、誰かを助けるためだけにするものではないのよ」
私がそう言うと、妹は少しだけ表情を改めた。
「分かっているわ、姉様」
「本当に分かっている?」
「ええ。エレナ姉様のためだけなら、私だってそんなことは言わないわ」
クラリスは、一度言葉を切った。
「エレナ姉様のことも大切に思っているわ。ギヨーム様のおそばにいたいのも、私自身の気持ちよ。……だから、お二人と一緒に暮らしていけると思うの」
私は黙って妹を見つめた。いつの間に、こんなことを考えるようになったのだろう。
「それにね、姉様」
「何?」
「私がギヨーム様の奥様になったからといって、エレナ姉様の悩みがなくなるわけではないと思うわ。でも、つらいときに同じ家で話を聞くことなら、私にもできるでしょう?」
その言葉に、胸が少し痛んだ。一年前、私の前で泣いていたエレナの姿を思い出した。あのとき、私にできたのは、ただ手を握って話を聞くことだけだった。
クラリスもまた、自分にできることを考えていたのだ。
「……エレナには、もう話したの?」
「まだよ。まずは姉様に相談したかったの」
「そう」
「反対?」
私は、すぐには答えられなかった。クラリスの幸せを願っている。エレナの幸せも願っている。それは、間違いない。
けれど、二人の幸せが同じところにあるのか、私にはまだ分からなかった。
「反対するというより、心配なのよ」
「心配?」
「あなたは、まだ十六歳でしょう。学院も卒業していないわ」
「だから、今すぐ結婚するとは言っていないじゃない」
クラリスは少し頬を膨らませた。その顔は、やっぱり昔の妹のままだった。私は思わず笑ってしまった。
「もう。あなたったら」
「姉様こそ、いつまでも私を子供扱いするんだから」
そう言って、クラリスも笑った。しばらくして、私は妹の手を取った。
「分かったわ。でも、これだけは約束して」
「何?」
「あなた自身が幸せになれると思う道を選びなさい。エレナのためでも、私のためでもなく」
クラリスは、まっすぐ私を見つめた。
「ええ。約束するわ」
その目を見て、私はようやく気づいた。この子は、もう私が手を引いて歩かせる小さな妹ではないのだ。それが少し寂しくて、けれど、誇らしくもあった。
その夏、すぐに何かが決まったわけではなかった。クラリスはエレナと話し、ギヨーム様とも話を重ねた。翌年、十七歳になったクラリスは、国王の裁可を経て、ギヨーム様と正式に婚約した。
そして大陸歴645年。
十九歳になった妹は、ラフォール子爵家の第二夫人として嫁いでいった。あの日、私の前で泣いていたエレナと、自分の意思でその家へ嫁ぐことを選んだクラリス。二人が、これからどんな家庭を築いていくのか。私には、まだ分からなかった。
ただ、二人とも幸せになってほしい。心から、そう願った。
――エマの手帳より
大陸歴652年・夏(5歳)
『ギヨーム様は、エレナ様とクラリス様という、とても美人な二人と結婚している』
『前世でいったいどんな徳を積んだのだろうか』
『……ちょっと羨ましい』




