第六話 風が受け止めたもの
大陸歴662年・春
春の風は、時々こちらの都合を聞いてくれない。それでも、あの日の風ばかりは、少し違っていたと思う。
高等課程へ進んで、しばらくが過ぎた。新しい教室にもようやく慣れ、課題の出し方や先生方のお名前も、少しずつ覚えてきたところである。
エマは王国史の資料を探すのに夢中で、リネは商会の帳簿を扱う授業が気に入ったらしい。私はといえば、領地の街道について調べたいという気持ちは変わらないのに、どこから勉強すればよいのか、まだ迷っていた。
父様に手紙で尋ねてみたところ、『まずは人と荷物がどのように行き来しているのか、よく見てごらん』というお返事をいただいた。なるほど、もっともなことである。けれど、王都へ来る馬車の窓から眺めただけでは、分からないことも多い。
「それなら、一緒に見に行きましょうよ」
昼休みにそう言ってくれたのは、リネだった。
「商店の方に聞いてみれば、品物を運ぶのにどんな費用がかかるか、少しくらい分かるかもしれないわ」
「でも、お仕事の邪魔にならないかしら」
「何か買うついでなら、大丈夫じゃない?」
エマが手帳を開く。
「私も本を探したいの。王国の街道に関する古い記録がないか、書店で尋ねてみようと思っていたところよ」
「エマは、本当に何でも歴史につなげるのね」
「昔の道を知れば、今の道のことも分かるかもしれないでしょう?」
そう言われると、確かにそのとおりかもしれない。私たちは顔を見合わせ、次の休みの日に王都の書店を訪ねることにした。
「あら、エマ? 手帳の紐が切れているわよ?」
「本当だ。まだ、大丈夫だったかと思ってたけれど」
エマはそっと呟いた。
約束の日、昨夜の雨が上がり、空はきれいに澄んでいた。王都セレーヌの通りには、春の陽射しが石畳を明るく照らし、店先に並べられた布地や陶器にも柔らかな光が落ちている。私たちは、それぞれの家の侍女たちに付き添ってもらい、商店の集まる通りを歩いていた。
「見て、あのお店。随分たくさんの紙を売っているのね」
エマが立ち止まった。店先には、筆記用の紙や封筒、色とりどりの紐が積まれている。並んだ紙や封筒を眺めながら、出かける前、コットに『姉様、買い物なら、領地の商品の値段も見てきてね』と頼まれていたことを思い出した。エレナ母様の帳簿を少し手伝うようになった妹らしい頼みごとだった。
「手帳の紐も、ここで買ったらどう」
「この間、切れちゃったものね。役には立っていたけれど、書くときは少し邪魔だったの。どうしようかな」
エマは手帳の表紙を押さえて、紐があったはずの結び目を眺めていた。
「今のところ困っていないし。急ぎではないので、また今度にしようかしら」
そう言って、エマは手帳を鞄にしまった。私たちはまず書店に入り、店主に街道や商業に関する本がないか尋ねた。店主は棚の奥から、王国内の主な街道を描いた古い地図と、商人向けの薄い案内書を出してくださった。
「この道は今も使われているのですか?」
「ええ、お嬢様。ただ、橋が新しくなったところもございます。荷車の通りやすさは、昔とは随分違いますよ」
私は地図の上でラフォール領の近くを探した。王都へ向かう線は、いつも馬車で通る道に沿っている。見慣れた土地なのに、紙の上にすると少し違って見えた。
「橋を架け直すときのお金は、どなたが出すのでしょう」
「場所にもよりますね。領主様のご負担になることもありますし、王国が関わる大きな道もございます」
父様が何度も書類に目を通していらっしゃった姿が浮かぶ。道を一つ整えるだけでも、思っていたより多くの人が関わるのだろう。
「運ぶ品物によっても、費用が違いますよね?」
今度はリネが尋ねる。店主は頷いて、陶器と紙とでは扱い方が違うことや、雨の日には運送に手間がかかることを教えてくださった。リネは満足そうで、エマは横から一生懸命に手帳を開いている。
「エマ。お店のお話まで全部書くつもり?」
「全部ではないわ。大事なところだけよ」
覗いてみると、手帳には細かな文字が並んでいた。どこまでが大事なところなのかは、本人にしか分からないらしい。
店を出る頃には、私は地図と案内書を一冊ずつ、エマは古い王国史の本を、リネは小さなノートを買っていた。荷物は付き添いの侍女たちが持ってくれたので、私たちは身軽だった。書店のある通りから一段低い広場へ下りるには、石造りの階段を使う。
十段ほどの、そう長くない階段だ。片側には低い手すりがあり、下では商人たちが荷車を行き交わせている。昨夜の雨が残っていたのか、石の端がところどころ濃い色に濡れていた。
「さっきの店主さん、親切だったわね」
「ええ。私は運送の話をもっと聞きたかったくらい」
「私は地図の方が気になったわ。あれを見たら、領地の道がどう続いているのか分かりそうで」
そんな話をしながら、私たちは階段を下り始めた。先を歩いていたのはリネで、そのすぐ後ろにエマ、私はさらに一段上にいた。下から、大きな布包みを抱えた男性が上ってくる。リネは道を譲ろうとして、手すりの方へ一歩寄った。
「あっ」
短い声がした。リネの足が、濡れた石の端で滑ったのだ。体が横に傾き、手すりへ伸ばした指先が空をつかむ。次の瞬間には、彼女の肩が階段の下の方へ向いていた。
「リネ!」
エマの声が聞こえた。私も手を伸ばしたけれど、袖には届かない。リネの足がするりと宙を舞う。
駄目。
このままでは、頭を打ってしまう。そう思った瞬間、私はただ、両手を前へ突き出していた。
「――リネ!」
どうか、落ちないで。その願いが言葉になったかどうかも、覚えていない。ただ、胸の奥で何かが強く押し出されるような感覚があった。
次の瞬間。
下から、強い風が吹き上がった。階段を駆け上がり、私の袖を大きく膨らませる。エマの髪が舞い上がり、誰かの持っていた紙が空へ跳ねた。
けれど、その風はリネを乱暴に吹き飛ばさなかった。落ちかけた体を下から支えるように包み込み、落下する勢いを和らげていく。リネは階段の下まで落ちたものの、ゆっくりと広場の石畳に降り、尻もちをついた。
「リネ!」
エマが階段を駆け下りた。侍女たちも、男性も、慌てて続く。私は一瞬その場に立ち尽くしたが、すぐに後を追った。
「痛いところは? 頭は打っていない?」
「だ、大丈夫。……たぶん」
リネは目を丸くしたまま、自分の手や膝を確かめていた。上着には石の粉が付いていたけれど、大きな傷は見えない。
「本当に? 無理をしていない?」
「ええ。少し驚いただけ……。でも」
リネは私を見上げた。
「今、見えない何かで、下から支えられたような気がしたの」
私は答えられなかった。風が吹いたことなら分かる。あの瞬間に、私がリネを助けたいと思ったことも。けれど、どうして風があんなふうに吹いたのかは、分からなかった。
近くの店の方が椅子と水を貸してくださり、リネはしばらく休むことになった。付き添いの侍女が膝や腕を確認し、念のため家にも知らせてくれるという。リネは何度も「大丈夫よ」と繰り返したけれど、その声がいつもより小さいことに、私は気付いていた。私だって、手が震えていた。
「ねえ、マリー」
しばらくして、隣に座ったエマが、静かに言った。
「さっきの風、見た?」
「……ええ」
「私、階段の上にいたでしょう。紙や袖が舞い上がって、風が下から吹き上げたのが分かったの」
エマは手帳を膝の上に置いていた。手帳は開いていない。
「マリーが手を伸ばした、そのすぐ後だったわ」
私は自分の手を見た。指先には何もない。ただ、掌の奥に、まだ少し温かいものが残っているような気がした。
「私が……?」
言いかけて、口を閉じた。私には、風の魔法が使えない。ずっとそう思ってきた。十五歳になる年を迎えても何も起こらず、高等課程も普通科へ進んだ。
それなのに、今の出来事は何だったのだろう。
「マリー」
リネが、私の手を取った。
「ありがとう。私、あなたが手を伸ばしてくれたのを見ていたわ」
「でも、私、何も……」
「そんなことないわ。助けようとしてくれたでしょう」
その手は、少し冷たかった。もしあのまま落ちていたら、と考えた途端、胸が詰まる。
「……怖かったわ」
気付けば、そう口にしていた。
「私もよ」
リネは小さく笑った。エマも私たちの手に、そっと手を重ねてくれた。いつもの三人なのに、今日は言葉がなかなか出てこない。それでも、こうして手を離さずにいられることが、何より嬉しかった。
帰宅すると、玄関でエレナ母様が迎えてくださった。
「お帰りなさい、マリー。……どうしたの、その顔」
私は事情を説明しようとしたけれど、何から話せばよいのか分からなかった。リネが階段で足を滑らせたこと。大きなけがをしなかったこと。そして、あの風のこと。
話を聞き終えたエレナ母様は、まず私の両手を取り、どこにも傷がないことを確かめた。
「リネは無事なのね?」
「はい。付き添いの方も確認してくださいました。ご家族にも知らせるそうです」
「それならよかったわ」
エレナ母様は小さく息をついてから、私の顔を見た。
「マリー。あなたが風を起こしたと思う?」
「分かりません。でも……私が手を伸ばしたときに、確かに風が吹いたんです」
エレナ母様は急いで結論を出そうとはなさらなかった。エレナ母様ご自身は魔法を使わない。だからこそ、確かめなければ分からないことを、よくご存じなのだと思う。
「明日、学院の先生にお話ししましょう。必要なら、魔法の先生にも見ていただけるはずよ」
「……はい」
「それから、父様にもお手紙を書いておきましょうね」
父様は風魔法を使う方だ。もしあれが本当に魔法だったのなら、何か分かるかもしれない。そう思うと少し胸が高鳴った。けれど、それより先に浮かんだのは、石段で尻もちをついたリネの顔だった。
「エレナ母様」
「なあに?」
「私、リネが無事で、本当によかったです」
エレナ母様は私を抱き寄せてくださった。
「ええ。何よりも、それが大切ね」
私はエレナ母様の肩に額を寄せ、ようやく深く息をした。
その夜、机の上には、買ってきた街道の地図が広がっていた。朝には、そこに描かれた道のことばかり考えていたはずなのに、今は一つも頭に入ってこない。窓を開けると、春の風がそっと吹き込んだ。
見慣れた、穏やかな風だ。
私はそっと手を伸ばしてみたが、何も起こらなかった。それでも、リネが落ちそうになったあの瞬間、風は確かに吹いた。あれが魔法だったのか、まだ分からない。ただ、リネを受け止めてくれたあの風を、私は好きだと思った。
――エマの手帳より ― 夜のまとめ
大陸歴662年・春
『帰りの石段で、リネが足を踏み外した。落ちる、と思った。マリーが手を伸ばした。その直後、下から優しい風が吹いた。偶然かどうかは分からない。見た順番だけ書いておく』
『リネは無事だった。マリーの手も震えていた』
『二人の手に、そっと手を重ねた。それしかできなかったけれど、帰ってからも今日のことが頭から離れない』




