第五話 春の新しい教室
大陸歴662年・春
「マリー、お茶が冷めてしまうわよ」
朝食の席でエレナ母様に声をかけられるのは、まだ少し新鮮だった。
「はい、エレナ母様」
私は慌てて茶器に手を伸ばした。春になり、エレナ母様は予定どおり王都の屋敷へ移られた。父様とクラリス母様、レオンたちは領地に残っているけれど、今はコットと三人で朝食を囲んでいる。
「今日は高等課程の初日ね」
「ええ。校舎が変わるだけなのに、何だか初めて学院へ行くような気がします」
「そういう日もあるわ。あら、襟が少し折れているわよ」
エレナ母様が手を伸ばし、私の制服の襟元をそっと整えてくださった。鏡の前ではきちんとしたつもりだったのに、どうして分かるのだろう。
「ありがとうございます」
「似合っているわ。もう高等課程のお姉さんなのね」
そう言われると、急にくすぐったくなる。コットも向かいで自分の制服を見下ろした。
「私はもう二年生なのに、姉様ばかりお姉さんみたいに言われるの、ずるいわ」
「コットだって、ずいぶんしっかりしてきたわよ」
「本当?」
「ええ。今朝も私より先に用意が終わっていたもの」
コットは得意そうに胸を張った。私は、今朝の自分の支度に少し時間がかかったことは黙っておくことにした。
食事が済んでから、エレナ母様が思い出したようにおっしゃった。
「そうそう。あなたが選んだ淡い青の布が届いたの。ドレスの仕立ては、仕立て屋さんと相談しておくわね」
「もう届いたのですか?」
「ええ。今度、一緒に見ましょう」
領地の庭でコットと結び直したリボンと同じ色だ。どんなドレスになるのか、今から楽しみだった。
出かける支度をしていると、コットが折りたたんだ紙を見せてくれた。昨夜、領地から届いたニナの短い手紙である。
『おねえさまたち、がっこうがんばってね』
端には、青いリボンらしい絵も描いてある。
「お返事には、姉様の新しい教室のことも書いていい?」
「ええ。帰ってきたら、一緒に今日のことを書いてあげましょう」
「じゃあ、私はお友達のことも書くわ」
エレナ母様に見送られ、コットと同じ馬車に乗った。王都の屋敷から学院まで、いつもの道である。けれど今日は、少しだけ違う春が始まるように感じられた。
学院の正門をくぐると、中庭の噴水が春の日差しを受けて光っていた。初等課程へ向かうコットと別れ、私は高等課程の校舎へと歩き出す。
「姉様、帰りはいつもの場所でね!」
「ええ。慌てずに来てね」
コットは大きく手を振ってから、友達らしい子の方へ駆けていった。こちらの心配など、もう必要ないのかもしれない。
「マリー!」
聞き慣れた声に振り向くと、リネが手を振っている。その隣には、いつもの手帳を持ったエマもいた。
「おはよう、二人とも」
「おはよう、マリー。コットはもう行ったの?」
「ええ。二年生の教室へ。あっという間にお友達を見つけてしまったわ」
「頼もしいわね」
リネが笑う。エマは校舎の入口を見上げていた。
「同じ学院でも、建物が変わると勝手が違うわね。教室の場所は書いてきたけれど」
「案内板なら、さっき見たわ。こちらよ」
リネが先に歩き出し、私たちもその後に続いた。
講堂での最初の集まりを終え、三人で普通科の教室へ向かった。廊下の先では、魔法科へ進んだ生徒たちが別の教室に入っていく。
私はほんの少しだけ、その背中を目で追った。魔法に目覚めていたら、私もあちらへ進んでいたのだろうか。
「マリー、こっちよ」
リネに呼ばれて、私は顔を上げた。
「今行くわ」
私は二人に追いつき、並んで普通科の教室に入った。
最初の共通授業で、先生は王国の街道を描いた地図を広げた。
「今日は、品物が産地から町へ届くまでを考えてみましょう」
地図には、村から王都へ向かう二つの道が記されていた。一方は距離が短いけれど、山あいを通る。もう一方は遠回りになるものの、途中に橋があり、大きな荷車も通りやすいという。
「同じ荷物を運ぶとして、必ず近い方の道を選ぶべきでしょうか」
先生の問いに、何人かの生徒が首を傾げた。
「雨が降れば、山道は通りにくくなると思います」
「そのとおり。ほかには?」
「馬を休ませる場所があるかどうかでも、違うのではありませんか」
次々に手が上がる。先生は頷きながら、道の脇に橋や宿場の印を描き加えていかれた。
「道の長さだけでは、運ぶ日数も費用も決まりません。荷が傷めば、届いた先で売れる値段も変わるでしょう」
私は改めて地図を見つめ直した。
領地から王都へ戻るとき、私はいつも馬車の窓から街道を眺めていた。商人の荷車とすれ違うこともある。でも、あの荷車が何を運び、いつ、誰のところへ届くのかまで考えたことはなかった。
父様が道や橋の修繕について相談していらっしゃったことを、ふと思い出す。あれは領地の仕事であると同時に、そこを行き来する人たちの暮らしにもつながっていたのだろう。
冬に選んだ領地運営や王国法の勉強も、こんなふうに目の前の暮らしと結び付いているのかもしれない。
私は地図の端に書かれた小さな橋の印を、もう一度確かめた。
昼休み、私たちは三人で席を囲んだ。教室の窓から見える庭の角度が、初等課程の頃とは違っている。それでも、一緒に食事をする相手は変わらなかった。
「さっきの街道の授業、面白かったわね」
私が言うと、リネが頷いた。
「ええ。私は、橋を通る道と山道を通る道で、運送費がどれくらい変わるのか気になったわ」
「リネらしいわね。私は橋のことが気になったの。領地の道でも、壊れた橋を直すのは大変なのでしょうね」
「場所によって、費用を負担する人も変わるかもしれないわね」
エマが横から言った。
「エマは、何が気になったの?」
「昔の人は、どちらの道を通っていたのかしら。新しい橋ができる前と後では、賑わう町も変わったかもしれないでしょう?」
「もう、すぐ歴史の話になるのね」
リネが笑う。
「だって、昔のことを知れば、今の道のことも少し分かるかもしれないもの」
エマは真面目な顔で答えた。その様子がおかしくて、私も笑ってしまった。
すると、エマが何か思いついたように言った。
「今度、古い地図を探してみようかしら」
「王国の街道なら、書店に記録があるかもしれないわね」
エマは早速手帳を開きかけた。
「それも書いておくの?」
「もちろん。忘れてしまったら困るでしょう?」
そう言ってから、エマは私たちの顔を見て、少しだけ照れたように笑った。結局、手帳には何か一行書き足したらしい。
街道の修繕については、父様にも尋ねてみたくなった。
学院から帰ると、玄関にエレナ母様が待っていた。
「お帰りなさい、マリー。コットは?」
「一緒です。すぐ後ろに」
「ただいま戻りました、エレナ母様!」
コットが元気よく答えて、駆け寄った。
「新しい教室はどうだった?」
「まだ少し落ち着きません。でも、エマとリネも同じ教室ですから」
「それなら心強いわね」
今度はコットが、新しい先生や友達のことを楽しそうに話し始めた。
お茶の時間になり、私は授業で見た街道の地図について話した。
「同じ荷物でも、どの道を通るかで、かかる費用や日数が変わるのですね」
「ええ。商人たちは、少しでも確実に荷が届くように考えているのよ」
「私は、道を整えることが、商いにもこんなに関わっているとは知りませんでした」
「そうね。決まった日に荷を届けられるかどうかで、商いの約束も変わってしまうもの」
エレナ母様は、実際に雨で荷を送る日を遅らせたり、遠回りを選んだりしたことがあると教えてくださった。
「父様にもお尋ねしてみようと思います。橋や道の手入れは、どなたが決めていらっしゃるのかしら」
「いいと思うわ。あなたが気になったことを、そのまま聞いてごらんなさい」
「はい」
「それから、王都まで運ぶ品物のことなら、私の帳簿も一緒に見てみましょうか」
「ぜひ、お願いします」
そういえば、エレナ母様の商いについて、私はまだ知らないことばかりだった。
夕方、父様への手紙を書き始めた。
橋や道の修繕について教えていただきたい。そう書き添えて、筆を置いた。窓の外では、春の風が庭の若葉を揺らしていた。まだ、あの風を操ることはできない。
それでも、普通科での明日が、少し楽しみになっていた。
――エマの手帳より
大陸歴662年・春
『高等課程の初日。マリーとリネと同じ普通科の教室。ひとまず安心』
『街道の授業。マリーは橋、リネは運送費。私は旧道が気になった。同じ授業なのに感じ方は違う』
『古い街道の地図を探すこと。王都の書店にあるかもしれない。学院の図書室にもあるかも』
『エレナ様が王都で暮らし始めた。マリーがよく笑っていた。よかった』
『手帳の紐はまだ使える。新しく買う必要は、今のところない』




