第四話 大人になるということ
大陸歴662年・冬
冬の風は、なかなか手厳しい。王都セレーヌの朝は、息を吐くと白くなるほど冷え込んでいた。窓の下の石畳には薄く霜が降り、中庭の木々は枝を静かに伸ばしている。
セレスト山脈では、雪で峠を越えられない日もあるという。それに比べれば、王都の冬は穏やかな方なのだろう。南の方では、冬でもそれほど寒くならない土地があるそうだ。同じカラメリア大陸でも、随分と違うものだと思う。
けれど、寒いものは寒い。私は肩に羽織ったショールを少し引き寄せてから、机の上の暦に目をやった。
大陸歴662年。
新しい年になったのだ。もっとも、王国学院では、年が替わったからといってすぐに学年が変わるわけではない。新学年が始まるのは春で、私たちはまだ初等課程の三年生である。それでも、春になれば高等課程の一年生。
その事実は、寒さよりも少しだけ私の背筋を伸ばした。
そういえば、昨年の五月十八日、十四歳の誕生日を迎えたときも、少しだけ大人になった気がしたものだった。学院が始まってひと月ほど経った頃のことである。
その日の放課後、正門で待っていたコットは、いつもより嬉しそうだった。エマとリネも一緒に屋敷の馬車へ乗ってきたので、不思議に思いながら帰ったのを覚えている。
屋敷へ着くと、小さな卓に焼き菓子と花が並んでいた。家令や侍女たちに手伝ってもらいながら、コットが用意してくれたらしい。
『姉様、十四歳のお誕生日、おめでとう!』
『おめでとう、マリー』
エマとリネも声を揃えてくれた。私は驚いて、すぐにはお礼の言葉が出なかった。
『エマ、ちゃんと覚えていてくれたのね』
『もちろん。忘れないように、ずっと前から手帳に書いておいたもの』
『それなら間違いないわね』
リネが笑い、小さな包みを差し出した。中には淡い青色の栞が入っていた。エマからは、丁寧な文字で書かれたお祝いのカードをいただいた。
領地からも手紙が届いていた。父様とエレナ母様、クラリス母様、それにレオンやエリーズ、ニナからの言葉も添えられている。文字を覚えたばかりのニナの一行は少し曲がっていたけれど、何度も読み返した。
『十四歳になったのだから、もう少ししっかりしなくちゃね』
私が言うと、リネは首を傾げた。
『誕生日を迎えたからって、急に何もかもできるようになるわけではないでしょう?』
『それも、そうね』
『でも、今日のことは忘れないでね。私も書いておくから』
エマの言い方がおかしくて、三人で笑った。コットも得意そうに笑っている。
それからひと月ほど経った六月二十一日は、コットの十二歳の誕生日だった。今度は私が、屋敷の皆と相談して、小さなお祝いを用意した。
クラリス母様からは手紙と髪飾りが届いた。コットは手紙を読み終えると、少しだけ黙ってから髪飾りをつけ、『どう、姉様』と得意げに笑った。
『よく似合っているわ。お誕生日、おめでとう、コット』
『ありがとう、姉様。次のお休みには、クラリス母様にも見せなくちゃ』
離れていても、祝ってくれる家族がいる。あのときの妹の笑顔を思い出すと、私も少し温かい気持ちになる。
その夏の八月十八日には、私とコットも領地の本邸に帰り、エリーズの十歳の誕生日を家族八人で祝った。春のレオンのお祝いでは、エリーズが青い糸で縁取った布袋を贈っていた。今度はレオンが、小さな包みを妹へ差し出した。
『どの色が好きか分からなかったから、いろいろ選んだんだ』
包みの中には、色とりどりの刺繍糸が入っていた。
『ありがとう、レオン兄様! これで何を作ろうかしら』
糸を嬉しそうに並べるエリーズを、父様もエレナ母様もクラリス母様も見守っていた。贈り物を渡す側と受け取る側が入れ替わっただけなのに、二人が少し頼もしくなったように見えた。
机の端には、今も私の誕生日にいただいた青い栞を挟んだ本がある。十四歳になって八か月ほどが過ぎた。大人になったと言えるほど、何かが変わったわけではない。それでも、選ばなければならないことは、少しずつ増えている。
朝食の席で、家令が一通の手紙を持ってきてくれた。
「マリアナお嬢様。エレナ奥様からお手紙が届いております」
「ありがとう」
封を確かめるまでもない。エレナ母様の字だった。今も領地の本邸を主な暮らしの場にしていらっしゃるけれど、今年の春には王都の屋敷へ移られる予定だ。コットと私は、ここでエレナ母様をお迎えできる日を指折り数えている。
昨年の秋、エレナ母様は王都の屋敷の準備を確かめるために訪れ、学院時代の友人をお茶に招かれた。エマのお母様のマルグレート叔母様と、リネのお母様のシャルロット様である。三人は初等課程から高等課程の普通科まで六年間、同じ学級で学んだ親友だった。
その日、私とコット、エマ、リネの四人も庭の東屋でお茶をいただいた。屋敷の方からは、お三方の楽しそうな笑い声がときおり聞こえてきた。
『昔のお友達と会うとね、つい学院にいた頃の気分に戻ってしまうのよ』
帰り際、あんなふうに笑われるエレナ母様は珍しいと伝えたら、そうおっしゃっていた。
私とエマとリネも、いつかあんなふうに笑ってお茶を飲むのだろうか。そう考えると、何となく嬉しかった。
そんな昨年の秋のことを思い出しながら、私は手紙を開いた。最初に書かれていたのは、領地の近況だった。
手紙の余白には、少し不揃いな字で『マリー姉様へ』と書き添えられていた。どうやらニナも、エレナ母様のお手紙に参加したらしい。ひと文字ずつ丁寧に書いたことが伝わってきて、私はその部分を、ほかの文章より長く眺めてしまった。
レオンは寒い中でも剣術の稽古を欠かさず、エリーズは新しい刺繍を覚えたそうだ。ニナは覚えた文字で私へ手紙を書こうとしているという。コットには、同じ王都の屋敷へ別便で手紙が届いたらしく、私に見せに来た。
「姉様、父様が来月の市で新しい荷を出すんですって」
コットは手紙をたたみながら、誇らしげに言った。
「エレナ母様が決められたの?」
「ええ。王都への道が混む前に出せるように、って」
離れて暮らしていても、エレナ母様の考えは、私たちの日々の暮らしにつながっているらしい。
「私も今夜、返事を書こうかしら」
「じゃあ、一緒に書きましょう。私もエリーズに、新しい学院の教室のことを教えてあげたいの」
「エリーズは、きっと詳しく聞きたがるわね」
コットと顔を見合わせて笑った。領地と王都の間を行き来する手紙は、いつの間にか、離れている時間そのものを埋めるものになっていた。どうやら、みんな元気らしい。私は安心して、続きを読む。
『王都の屋敷の準備も、少しずつ進めています。春にはあなたと一緒に過ごせる日が増えそうで、楽しみにしています』
そこまでは、いつものエレナ母様らしいお手紙だった。けれど、次の一文で手が止まった。
『高等課程に進めば、学院でのお付き合いも少し変わることでしょう。社交の席で着る衣装についても、あなたの好きな色を考えておいてくださいね』
社交で着る衣装。私は思わず、自分の袖を見た。学院では制服を着るけれど、茶会などに招かれる日には別の衣装が必要になる。高等課程へ進めば、そうした機会も増えるのだろうか。
エレナ母様が王都へいらっしゃる理由には、きっとそうした準備もあるのだろう。嬉しいことのはずなのに、少し落ち着かない。何を選べばよいのか、私はまだよく分からなかった。
その日の学院では、高等課程への進学希望を確かめる用紙が配られた。
「まだ正式な届け出ではありません。ご家庭とも相談して、希望する課程を考えておいてください。普通科を希望する方は、学びたい選択科目も挙げておきましょう」
先生の言葉を聞いて、私は紙へ目を落とした。高等課程には、普通科と魔法科がある。普通科では皆で受ける授業のほかに、王国史や王国法、算術、財務、商業、領地運営などから、関心のある科目を選んで学べるという。一方、魔法科で学べるのは、魔法が発現し、適性を認められた生徒たちだ。魔法が使える生徒は、だいたい魔法科に進む。
……私はまだ魔法に目覚めていないから、今のところ普通科へ進むことになる。分かっていたことだった。けれど、目の前に用紙が置かれると、何だか少し違って感じられる。ラフォール家は、代々風魔法を受け継いできた領地貴族である。父様も風を操ることができる。私もいつかは、と考えない日はない。
それでも、十五歳になる年を迎えて、まだその気配はなかった。
「マリー、大丈夫?」
授業が終わり、用紙を見つめていた私に、リネが声をかけた。
「進路希望って、こうして紙に書くとなると、少し迷うわね」
「ええ。普通科に進むつもりだけれど、選択科目を何にするか、まだ迷っているの」
「そうね。私も、何を選べばいいのか……」
自分が魔法を使えないことを気にしているとは、うまく言えなかった。二人は知っているはずなのに、今は言葉にすると余計に気になりそうだった。隣からエマが言った。
「私は、王国史と王国法を中心に学びたいわ」
「エマは前からそう言っていたものね」
リネも答える。
「私は算術や財務のことを、もっと学びたいわ。商業の授業も気になるの。父様のお仕事を手伝えればいいな」
二人には、学びたいことがある。私は、どうだろう。
「マリーは、何が好き?」
リネの問いに、少し考えた。
「領地の運営に関わることかしら。商業や街道のことも気になるの。父様がお仕事の話をしてくださるときも、知らなかったことがたくさんあって……。王国法も、きっと役に立つと思うの」
「領地貴族は学ぶことがたくさんあるわね」
「そうかしら」
「学びたいことがあるなら、今はそれを学べばいいと思うわ。私もいつか、歴史書を書けるくらい勉強してみたいもの。高等課程なら、調べられることも増えるでしょうし」
エマもそう言って微笑んだ。二人は、私が魔法を使えないことを気にしていると知っていても、無理に励ましたりはしなかった。ただ、いつもどおりに話してくれる。
それが、とてもありがたかった。
昼休みには、別の話題が出た。
「そういえば、セシリア様はもうすぐご卒業なのね」
私がそう言うと、エマは頷いた。
「ええ。春に卒業なさって、夏にはジュリアン様とご結婚される予定よ」
セシリア・ベルナール様は、エマのお姉様である。今は王国学院の高等課程三年生で、ヴァルモン伯爵家の次男ジュリアン様と婚約していらっしゃる。
昨年の秋のお茶会でも、そのご婚約が話題になったと、あとでエレナ母様から聞いた。詳しいお話までは知らないけれど、マルグレート叔母様にとって、大切なご準備が続いているのだろう。
「お姉様がお嫁に行かれたら、エマは寂しくなるでしょう?」
「そうね。髪を結んでくれる人がいなくなるわ」
「もう……」
エマが真面目な顔で答えたので、私たちは笑った。でも、その気持ちは何となく分かる。家族と暮らしていると、いつまでも同じ毎日が続くように感じてしまう。けれど、ある日を境に、当たり前だったことが変わっていくのだ。エマもきっと寂しいのだろう。そうした気持ちは、あとで手帳に書き留めるのかもしれない。
「高等課程へ進む頃には、婚約のお話が出る方も増えるのでしょうね」
リネが言った。貴族の家では、高等課程に入ってから相手を吟味し、縁談を進めることが多いらしい。学院で知り合った方とご縁ができる場合もあれば、家同士の事情からお話が進む場合もあると聞く。もちろん、すべての家が同じではない。
私たちも、いつかはそうした話をするのだろうか。
「リネは、もう考えているの?」
「いいえ。私はまだ勉強の方が気になるわ」
リネらしい答えだった。
「エマは?」
「私も。……でも、姉様のお話を見ていると、考えなくてはいけないことが多そうね」
「そうね」
私は頷いた。貴族の婚姻は、自分一人のことではない。そのくらいは分かっているつもりだ。でも、どんな人と、どんな暮らしをしたいのかと尋ねられたら、私にはまだ答えられないと思う。きっと、父様やエレナ母様たちは、私よりずっと先のことを考えてくださっているのだろう。
だからといって、いつまでも自分で考えなくてよいわけでもない。朝の授業で渡された進学希望の用紙を思い出した。まずは、目の前のことから考えてみよう。
夕方、王都の屋敷へ帰ると、私は机の前に座った。
窓の外はもう薄暗い。春には庭のリボンをほどいた風が、今は窓の外で冷たい音を立てている。
季節が巡るうちに、私も少しずつ変わっていくのだろうか。机の上には、学院から持ち帰った用紙と、エレナ母様からの手紙が並んでいた。私はまず、進学希望の欄に「普通科」と書いた。その下の選択科目の欄には、領地運営と王国法に関わる授業を挙げてみた。
今の私にできる勉強を、きちんとしてみよう。その気持ちは、誰かに決めてもらったものではなかった。次に、エレナ母様への返事を書く。レオンたちの近況を知らせていただいたお礼。王都で一緒に暮らせるのを楽しみにしていること。それから、高等課程では領地のことや王国法も学んでみたいということ。
最後に、社交で着る衣装の色について書こうとして、少し手を止めた。何色がよいだろう。エレナ母様に選んでいただく方が、きっと間違いはない。けれど、今回は私の好きな色を尋ねてくださったのだ。
私は、領地の庭を思い出した。レオンの十歳の誕生日に、コットと二人で結び直した青いリボン。春の空によく似た、あの色が好きだった。
『社交の席で着る衣装は、淡い青にしていただけたら嬉しいです』
そう書き終えてから、私は少し笑った。去年の誕生日、十四歳になったからといって急に大人にはなれない、とリネが言った。今なら少し分かる気がする。大人になるというのは、きっと、何もかも分かるようになることではない。まだ知らないことも、迷うこともある。それでも、自分で考え、自分で選べることを少しずつ増やしていくのだろう。
窓の外では、相変わらず冷たい風が吹いていた。春が来るまでには、まだ少し時間がある。私は手紙を丁寧に折りたたみ、明日届けてもらえるよう、机の端に置いた。
――エマの手帳より
大陸歴662年・冬
『高等課程の希望用紙。私は普通科。選択科目は王国史と王国法。どちらも学びたいので両方書いた』
『マリーは風魔法のことを気にしていた。マリーはマリーなのに。うまく言えなかった』
『セリー姉様の結婚が近い。髪の結い方はまだ失敗する。姉様がいないと困る』
『手帳に紐をつけた。風には勝てる。字を書くときは少し邪魔』




