閑話Ⅰ 母たちの午後
大陸歴661年・秋
「マリー、そろそろ皆さんがいらっしゃるわよ。コットにも声をかけておいてね」
「ええ、エレナ母様。二人でお迎えするわ」
マリアナは庭のコットに声をかけ、二人で玄関へ向かった。東屋の支度は、もう整っているらしい。私があれこれ口を出す必要もなさそうだ。
私はエレオノール・ラフォール。旧姓はベルヴァン。ラフォール子爵家の第一夫人で、学院時代からの友人には、今もエレナと呼ばれている。
来春からは、この王都の屋敷で暮らすつもりだ。長女のマリアナと、その妹のコットが学院へ通う間、二人のそばにいてあげたい。マリアナも十四歳になり、これからは社交や、いずれ迎える娘たちの縁談にも目を配らなくてはならない。領地の商いから離れるのは気がかりだけれど、クラリスと相談し、領地での日々の手配は商人たちにも少しずつ任せている。王都へ移っても、取引先との交渉や帳簿の確認は続けるつもりだ。
今日はその準備の合間に、学院時代の友人二人をお茶に招いた。娘たちも友人に会えるとあって、朝から嬉しそうだった。
「エレナ、久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
先に到着したのはマリーだった。マルグレート・ベルナール。若い頃と変わらない笑顔を見ると、自然とこちらの顔も緩む。
「あなたこそ。春はほとんど話せなかったものね」
「そうよ。しばらくゆっくりできるのでしょう?」
「ええ、そのつもり。少し王都での時間を増やそうかと思っているの」
玄関で待っていたマリアナとコットが、エマを迎えた。その姿に目を留めたマリーは、コットに声をかけた。
「まあ、コット。背が伸びたわね。クラリスによく似てきたわ」
「マリー伯母様、お久しぶりです」
コットは少し照れくさそうに頭を下げた。マリーとクラリスは姉妹だから、コットとエマは従姉妹同士でもある。エマもコットに笑いかけた。
ほどなく、シャルロット・モローも娘のリネを連れて到着した。学院時代からの友人で、私たちは今もシャルと呼んでいる。マリアナとコットが迎えると、リネも嬉しそうに駆け寄った。
「遅くなって、ごめんなさい」
「大丈夫。ちょうど皆が揃ったところよ」
挨拶が済むと、マリアナが三人を庭の東屋へ案内した。コットもお菓子の皿を持って一緒に向かう。私たちも庭に面した居間へ移った。窓を少し開けていたので、近くの東屋から四人の声が聞こえてきた。
「ねえ、エマ。学院で覚えておきたいことって、どうしているの?」
「手帳に書いているよ。忘れそうなことは」
「手帳に? 授業のことも?」
「うん。気になったことも、あとで調べたいことも」
「そんなに書いていたら、すぐいっぱいにならない?」
「なるよ。だから、もう次の手帳を用意してある」
コットが目を丸くしたので、マリアナとリネが笑った。つられてエマも少し笑う。どうやら、まだまだ話は尽きそうにない。
「私たちも、あんなふうだったわね」
マリーの言葉に、思わず頷いた。
私たちが親しくなったのは、学院の初等課程に入ったばかりの頃だった。
先生から配られた計算問題の用紙を見て、私は思わず声を上げた。
『先生、ここの合計が合っていません』
教室の視線が一斉にこちらを向いた。先生が用紙を見直してくださる間に、私は自分の声が少し大きすぎたと気づいた。
『エレナ、言い方はもう少し優しく』
隣の席で、マリーが小声で言った。
『だって、間違っていたら皆が困るでしょう?』
『それはそう。でも、皆の前で言われたら先生だって驚くわ』
返す言葉を探していると、計算問題の用紙を配り直すことになり、係の生徒が困っていた。
その様子を見て、シャルが言った。
『私たちも運びましょう。三人増えたらすぐ終わるでしょう?』
私とマリーは顔を見合わせ、そろって立ち上がった。間違いを見つけるだけでは足りない。そんな当たり前のことを、あの日のシャルが教えてくれた。
それが、三人の始まりだった。
高等課程の冬には、学院の慈善市も一緒に手伝った。私は仕入れと帳簿、マリーは人員の手配、シャルは教会の施療院との連絡を受け持った。
『先に、施療院で本当に必要な品物を確かめたいの。飾りが立派でも、届けるものが足りなければ困るでしょう』
『それなら、仕入れの表を直さなくてはね。無駄な買い物はしたくないもの』
私がノートを開くと、マリーが二人の間に入って笑った。
『あなたたち、同じことを考えているのに、いつも順番が違うのね』
あの冬の市は、決して三人だけで成し遂げたものではない。それでも、得意なことの違う私たちが一緒に働けると分かった、大切な思い出だった。
「エレナ、何を考えているの?」
ふと顔を上げると、マリーがこちらを見ていた。
「昔のことよ。あなたに、言い方を注意されたときのこと」
「まあ。そんなことまで覚えているの?」
「忘れようがないわ。帳簿の数字が合わないたびに、あの日のことを思い出すもの」
「それは少し、責任を感じるわね」
シャルが笑い、私もつられて笑った。こうして話していると、長い年月が過ぎた気がしない。
「そういえば、そろそろ王都で着るものも揃えなくてはね。今はどんな仕立てが流行っているのかしら」
「飾りを重ねるより、布地の色を生かす装いが増えたみたいよ」
「それなら、腕のいい仕立て屋を紹介してちょうだい」
マリーはすぐに二、三軒の名前を挙げた。シャルも、教会の催しでよく顔を合わせる職人の話をしてくれた。こういうことは、手紙よりも顔を合わせて聞く方が早い。
「それで、領地の商いは順調なの?」
「ええ。王都へ送る品物も少しずつ増えているわ。ただ、商人たちとの打ち合わせも増えて、相変わらず忙しいけれど」
「ふふ、エレナらしいわね。でも、あまり無理はしないで」
「そういえば、近いうちに、元主家でもあるモンフェール侯爵家のお茶会へ伺う予定なの。今まで王都にいなかった分、顔を出しておこうと思って」
「それなら、アデラート公爵夫人もいらっしゃるかもしれないわね。モンフェール侯爵家のご出身だし、ご子息もマリアナたちと同じ学年で、来春には高等課程へ進まれるはずよ」
「そうなの? 直接お話ししたことはないから、少し緊張するわ」
「エレナなら大丈夫よ。いつもどおりに話せばいいわ」
シャルの言葉は、昔から不思議と人を安心させる。
「ところで、セリーのご婚約はその後どう?」
私が尋ねると、マリーは嬉しそうに、それでいて少し寂しそうに微笑んだ。
「両家で準備を進めているわ。本人たちが喜んでいるのは何よりだけれど、いつか家を出ていくと思うと、やっぱりね」
「そうでしょうね。大切に育てた娘ですもの」
私もいずれ、娘たちを送り出す日が来るのだろう。今はまだ、王都で一緒に暮らせる春を待っているというのに。
窓の向こうから笑い声が聞こえた。東屋では、マリアナとエマ、リネにコットも交じって、身を寄せ合うように話している。
「あの子たちも、もう三人とも十四歳なのね」
マリーが、年上の三人を眺めながら言った。
「ええ。あっちのマリーも五月に誕生日を迎えたわ。コットがこの屋敷でお祝いを用意してくれたそうなの。私は領地から手紙を送ることしかできなかったけれど」
「リネもお祝いに行って、楽しそうに帰ってきたわ。とても喜んでもらえたって」
シャルが微笑んだ。
「六月にはコット、八月にはエリーズも誕生日を迎えたの。離れて暮らすようになってから、なおさらきょうだい同士で気にかけているみたい」
「クラリスも喜んだでしょうね」
「ええ。もちろん、私も」
そんな話をしていると、娘たちの成長が急に近く感じられた。離れていても、それぞれが誰かを思って過ごしている。それが嬉しくもあり、少し寂しくもある。
「そういえば、私たちも誰かの誕生日を口実によく集まったわね」
「口実がなくても集まっていたでしょう?」
マリーに言われて、三人で笑った。
東屋ではコットが何かを一生懸命話し、エマがいつになく長く答えている。そこへマリアナが口を挟み、リネが笑う。学院で同じ教室にいる三人に、少し年下の妹が加わっても、楽しそうなことに変わりはない。
私たちは三人で友人になった。娘たちがどんな輪を作るのかは、あの子たち自身が決めればいい。
「もう一杯、お茶をいただいてもいいかしら」
「もちろん。今日はまだ時間があるのですもの」
私はカップに手を伸ばした。来春からは、決めなければならないことが山ほどある。それでも今日は、昔からの友人たちと、娘たちの笑い声を聞きながら過ごしていたかった。
――エマの手帳より ― 夜のまとめ
大陸歴661年・秋
『今日は母様とラフォール家の王都屋敷へ。マリーとリネとお茶を飲んだ。コットも一緒だった。母様たちは奥の部屋で、よく笑っていた』
『コットとは何度も顔を合わせているけれど、二人でこんなに長く話したのは初めてかもしれない。従妹なのに、知らなかったことがまだ多い。学院の授業のことから、私の手帳の話になった。次の手帳も用意してあると言ったら、目を丸くされた。いつも持ち歩くのだから、予備は必要だと思う』
『年齢も学年も違うけれど、四人でお茶を飲むのは楽しかった。母様たちも、昔はこんなふうだったのだろうか。次に会うとき、コットに聞こうと思ったことを書いておく』




