第三話 春風の再会
大陸歴661年・春
領地から王都へ戻る馬車の窓に、見慣れた街並みが近づいてきた。春の休暇が終わり、また王国学院へ通う毎日が始まる。
本邸を出るとき、レオンは、今度こそ剣術の稽古を見せると張り切っていた。エリーズは「レオンが袋を大切にしてくれるといいな」と少し照れくさそうに言い、ニナは何度も手を振ってくれた。
隣の席では、コットが膝の上に新しい学院の本を抱えている。私には進級後の教室が待っているけれど、妹にとっては初めての学院生活だ。領地を発つ前、レオンとエリーズは王都の学院について、あれこれ尋ねてきた。二人とも、いつか自分たちが通う学院に興味があるのだろう。
「コット、学院が始まったら、三人にも様子を書いてあげましょうね」
「もちろん。ニナには、庭のリボンがまだ結ばれているかも聞いてみたいもの」
離れて暮らすからこそ、伝えたいことが増える。コットがそう思ってくれているのが、私には嬉しかった。家族のいる領地を離れるのは、いつだって少し寂しい。けれど王都には、会いたい友人たちがいる。
そう思うと、馬車の揺れまで軽く感じられるから不思議だった。
翌朝、王国学院の正門をくぐると、中庭の噴水の音が聞こえてきた。初等課程の校舎へ向かう生徒たちで、道は賑やかだ。私たちは今年、初等課程の三年生になった。来年の春には高等課程へ進む。
同じ学院に通うだけなのに、学年が一つ上がったと思うと、少し背筋が伸びるような気がした。今朝はコットと一緒に屋敷の馬車で学院まで来たけれど、ここからは教室が別になる。
「コット、授業が終わったら正門のそばで待っているからね」
「うん。帰りには声をかけるね」
コットは元気よく頷いたものの、初等課程一年生が集まる方へ向かう足取りは、少しだけ慎重だった。私も初めての日は緊張したものだ。何か困ったことがあれば、すぐ相談してくれるといいのだけれど。
私は妹を見送ってから、エマたちに会うため、いつもの中庭へ向かった。
「マリー!」
聞き慣れた声に振り返ると、リネット・モローが手を振っていた。王都に暮らす男爵家の令嬢で、私と同じ年の生まれだ。この春ひと足先に十四歳になった。親しい者はリネと呼ぶ。お父様は王国の財務を扱う官庁に勤めていらっしゃる法衣男爵だ。リネ自身も算術が得意で、数字の多い問題に向き合っているときは、とても楽しそうだ。
もちろん、得意だからといって自慢するようなことはない。私が計算に困っていれば、どこを間違えたのか、一緒に確かめてくれる。
私たちの母親同士は、王国学院で初等課程から高等課程の普通科まで六年間同じ学級に通った旧友だ。その縁で、私たちも学院へ入る前から顔を合わせ、一緒に遊んできた。今では、気兼ねなく何でも話せる大切な友人である。
「おはよう、リネ。休暇はどうだった?」
「いつもどおりよ。母様と買い物に出かけたり、本を読んだり。マリーは?」
「弟の誕生日をお祝いしてきたの」
「レオンね。十歳になったんでしょう?」
「ええ。本人はすっかり大人になったつもりみたい」
リネがくすりと笑った。
「十歳になったら、少し背伸びしたくなるのかしら」
「二人とも、おはよう」
今度はエマがやって来た。手には、いつもの手帳を持っている。朝から何かを書いていたらしく、手帳の端に細い栞が挟んであった。
「おはよう、エマ」
「おはよう。マリー、レオンのお誕生日はどうだった?」
「とても喜んでいたわ。焼き菓子もありがとう。箱を開ける前から、いい匂いがするって」
「それはよかった。母様にも伝えておくわ」
エマは嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、コットは今年から入学よね」
「ええ。さっき初等課程一年生の教室へ向かったところよ。初めての学院なのに、王都へ着くまでレオンとエリーズの話ばかりしていたの」
「レオンとエリーズは同い年なのよね」
リネはそう言って微笑んだ。
「入学したら、仲よく並んで歩きそう」
エマは手帳を閉じ、私たちと並んで歩き出した。
午前の算術では、商会の帳簿を使った問題が出された。私は途中まで順調に計算したつもりだったのだけれど、最後の数字がどうしても合わない。昼休みになり、三人で中庭に腰を下ろしてから、リネに答案を見てもらった。
「リネ、ここだけ教えてくれる?」
「ええ。……あら、マリー。運送費を二回引いているわ」
「二回?」
「こちらは合計で、こちらはその内訳でしょう。どちらも引いたら、同じ費用を二度払ったことになるもの」
「あ、本当ね。ありがとう」
言われてみれば、難しい話ではなかった。リネは印を一つ付けただけで、答案を私に返してくれた。すぐに答えを教えるのではなく、間違いに気付かせてくれるところが彼女らしい。
「エマはできた?」
「たぶんね。算術は、見直しだけでいいかな。それよりも、私は王国法の課題の方が気になるわ」
「じゃあ、そっちもあとで確認しましょう」
そう言うと、二人とも頷いた。得意なことが違っていても、困ったときには助け合える。私は、そんな私たちの関係が好きだった。
「そういえば、マリーのお母様、来年から王都で暮らすんだって?」
食事を終えた頃、リネが尋ねた。
「ええ、来年の春からよ。コットも学院に入ったし、エレナ母様が一緒にいてくれると思うと心強いわ」
「それなら、今までよりお母さまと一緒に過ごせるのね」
「そうなの。嬉しいけれど、父様たちには少し申し訳ない気もして」
「どうして?」
「私とコットだけが、エレナ母様と過ごす時間が増えるでしょう?」
リネは少し考えてから、静かに言った。
「マリーとコットが嬉しいなら、お父様たちもきっと喜ぶと思うわ」
「そう、かしら」
リネは頷き、優しい目で私を見つめた。
「そうね……。私、少し考えすぎていたみたい」
「マリーは、みんなのことを考えすぎよ」
そう言われると、何だか恥ずかしい。
「私なら、母様と一緒に暮らせるって聞いたら、まず喜ぶわ」
「私もそう思う」
エマも頷いてくれた。二人に話しているうちに、心の中で引っかかっていたものが、少しずつほどけていく気がした。
「来年は、私たちも高等課程ね」
ふと、エマが言った。
「そうね。二年間なんて、あっという間だったわ」
初めて学院の門をくぐった日が、つい昨日のことのように思える。
「エマは、やっぱり歴史や王国法を勉強するの?」
リネが、エマに尋ねた。
「そのつもり。学びたいことが多すぎて、どれから始めたらいいのか迷うくらいよ。リネは?」
「私は算術をもっと学びたいわ。父様のお仕事の話を聞くと、数字で分かることって思っていたより多いのよ」
二人には、もうそれぞれ楽しみにしていることがあるらしい。私は、どうだろう。ラフォール家に代々伝わる風魔法は、もうすぐ十四歳になるというのに、まだ使えない。
だから、当面は二人と同じように学問を続けるつもりでいる。勉強が嫌いなわけではない。ただ、何を一番学びたいのかと尋ねられたら、すぐには答えられそうになかった。
「マリー?」
考え込んでいた私を、エマが覗き込んだ。
「ごめんね。ちょっと来年のことを考えていたの」
「まだ時間はあるわ。これから考えればいいじゃない」
リネはいつもの調子で言った。
「そうね。急いで決めなくてもいいわよね」
「もちろん。何かあったら、一緒に考えましょう」
エマも微笑む。私は二人に礼を言って、そっと息をついた。そのとき、暖かな風が噴水の向こうから突然吹いた。エマが膝に置いていた手帳のページが、さらさらとめくれる。エマは慌てることもなく、指先でページを押さえた。
「春は気持ちがいいけれど、風が強い日は困るわね」
「手帳を閉じればいいのに」
リネが笑う。
「まだ書きたいことがあるもの」
エマも笑った。その横顔を見ながら、私は思った。これから何を学ぶかは、まだ決められない。それでも、三人でこうして過ごせる時間は大切にしたい。
授業が終わる頃には、昼間の風も少し弱まっていた。私は約束どおり正門のそばで待つ。一年生たちが校舎から出てくるのを眺めていると、コットが私を見つけて駆け寄ってきた。
「姉様、待たせちゃった?」
「いいえ。初めての授業はどうだった?」
「少し緊張したけれど、隣の席の子とお話しできたわ」
「それならよかった。何か困ったら、すぐ言ってね」
「もう、姉様は心配しすぎよ」
そう言いながらも、コットは嬉しそうだった。私たちは正門で待っていた屋敷の迎えの馬車に、一緒に乗り込んだ。
帰り道、コットは先生や新しい教室のことを次々に話してくれた。私もエマとリネに会えたことを伝える。領地の家族への手紙に書きたいことが、早くも増えてしまった。
馬車の窓から春の風が入り込んだ。新しい一年は、まだ始まったばかりだ。
――エマの手帳より
大陸歴661年・春
『マリーが王都へ戻った。レオンは焼き菓子を気に入ったらしい。割れずに届いてよかった』
『帳簿問題、運送費の二重計上。リネはすぐ見つけた』
『エレナ様は来春から王都で暮らす予定。マリーは嬉しそう。顔に出ていた』
『春の風で手帳のページがめくれた。紐をつけるか検討。まだ検討』
『来年からは高等課程。希望する科目を調べること』




