第二話 友人からの手紙と母様の決断
大陸歴661年・春
昼食の後、私は王都から届いていた小包を取り出した。中には手紙と小さな焼き菓子の箱が入っている。差出人は、エマリア・ベルナール。
私の大切な友人である。
エマリアは王都セレーヌに屋敷を構えるベルナール子爵家の次女で、私よりひと足先に十四歳になった。王国学院でも同じ初等課程二年を終えたところで、親しい友人たちは彼女をエマと呼んでいる。ベルナール家は、領地を治める私のラフォール家とは違い、司法や行政の官職を担う法衣貴族の家だ。
エマのお父様、アルマン・ベルナール様は王国高等法院の判事を務めていらっしゃる。その影響もあるのか、エマは歴史や王国法の勉強が得意だ。学院の課題で分からないことがあると、私もよく助けてもらっている。
ただし、彼女には少し変わったところがある。
とにかく、何でも手帳に書き留めるのだ。授業の内容はもちろん、友人との約束、家族の出来事、時には食堂で出たお菓子の種類まで。理由を尋ねたことがあるけれど……
『忘れたら困るでしょう?』
と、当然のように答えた。そのくせ、肝心の手帳をどこに置いたか忘れてしまうこともある。けれど、私はそんなエマが好きだった。何事にも素直で、真面目で、時々少しだけ抜けている。一緒にいると、不思議と気持ちが和らぐのだ。
エマからの手紙には、王都や学院の近況と、次に会ったときに話したいことが書かれていた。そして、最後にはこんな一文が添えられていた。
『追伸。レオンのお誕生日、おめでとうございます。母と選んだ焼き菓子もご一緒に送っています。どうかお祝いをお伝えください』
私は思わず微笑んだ。きっと、手帳を確かめながら書いてくれたのだろう。
「マリー、誰からのお手紙?」
夢中になって読んでいた私に、エレナ母様が尋ねた。
「エマからです。レオンのお誕生日をお祝いしてくれています」
「あら、嬉しいわね」
クラリス母様も話に加わった。
「エマからなのね。今度会ったときに、お礼を伝えなくては」
「はい。エマにもそう書いておきます」
レオンが急に身を乗り出してきた。
「姉様、焼き菓子のにおいがする!」
私は笑いながら、焼き菓子の箱を弟へ渡した。まだ蓋も開けていないのに、レオンはすっかり夢中になっている。
そして、家族でお茶をいただいていたときのことだった。エレナ母様が、ふと父様に向き直った。
「あなた。少しご相談したいことがあるのですが」
「何だい、エレオノール」
「来年のことです」
父様が、静かに杯を置いた。
「来年?」
「ええ。マリーも、来年には王国学院の高等課程へ進みますでしょう」
私の名前が出たので、私は顔を上げた。王国学院には、十二歳になる年に入学する。三年間の初等課程を終えると、高等課程へ進み、合わせて六年間学ぶ。私も来年には十五歳になり、高等課程の一年生になる予定だ。
「そうだね。それがどうかしたのかい?」
父様が尋ねると、エレナ母様は少しだけ微笑んでから、言葉を続けた。
「私も、来年から王都の屋敷を生活の中心にしたいと思っているのです」
私は思わずエレナ母様を見た。
「エレナ母様が、王都へ?」
「ええ」
エレナ母様は私に頷いてくださった。
「これまでは、こちらの屋敷や領地の商いのことがあり、王都へはなかなか足を運べませんでした。でも、コットもこの春から王都の学院へ入りますし、来年にはマリーが高等課程へ進みます。いずれレオンとエリーズも、王都で学ぶことになりますもの」
コットも、ほんの少し目を丸くした。この春から私と二人だけで王都で暮らし、学院へ通うつもりだったのに、来年にはエレナ母様も一緒に王都で暮らすとは思っていなかったのだろう。
「これからの社交や勉強の準備も、少しずつ進めておきたいのです。それに……」
エレナ母様は、そこで少し言葉を切った。
「マリーとコットのそばにいてやれる時間も、もう少し増やしたいと思いまして」
私は、何も言えなかった。王都の屋敷での暮らしは、決して寂しいばかりではない。家令も侍女たちも親切で、学院にはエマをはじめ、親しい友人たちもいる。毎日の授業も楽しく、退屈する暇などほとんどない。
それでも……。
朝起きたときにエレナ母様がいらっしゃること。学院から帰ったときに「お帰りなさい」と声をかけていただけること。ほかの家では何でもないことが、少しだけ羨ましくなる日もあった。
「ですが、エレナ母様」
私はおそるおそる尋ねた。
「父様やレオンたちは、エレナ母様がおられなくても大丈夫なのですか……?」
「そうね。そのことも、きちんと相談しなくてはいけないわ」
エレナ母様が父様を見る。すると、隣に座っていたクラリス母様が、穏やかに口を開いた。
「レオンとエリーズ、それにニナのことは、私がこちらで見ています。エレナ様が王都でマリーとコットを支えてくださるなら、私も心強いです」
クラリス母様の言葉に、コットがそっと笑った。私たち二人のために、母様たちも暮らし方を考えてくださっていたのだ。
「こちらの屋敷のことも、どうぞご心配なさらずに」
「クラリス……」
「それに、マリーもコットも、エレナ母様と一緒に過ごせる方が嬉しいでしょう?」
急に話を振られて、私は少し慌てた。
「そ、それは……はい。もちろんです」
クラリス母様は、優しく笑った。私たちは、同じ屋敷で暮らしてきた家族だ。エレナ母様が王都へ移られることを、クラリス母様がどう思われるのか、私は少し心配していた。けれど、その表情に曇りはなかった。
父様はしばらく考えていらっしゃった。領地の当主として、簡単には決められないことなのだろう。王都の屋敷を本格的に動かすとなれば、使用人の配置も、家政の仕事も変わる。それでも、やがて父様はゆっくり頷いた。
「そうだね。マリーは、もうすぐ高等課程だ。コットもこの春から学院に通い始めるし、レオンとエリーズの準備も始めなければならない。良い機会だろう」
「あなた……」
「王都の屋敷については、家令とも相談しよう。来年から移れるように、少しずつ整えていけばいい」
エレナ母様の顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
「ただし、私が王都へ行く機会も、今までより増やさなくてはいけないな」
父様が笑う。
「でなければ、こちらに置いていかれたような気持ちになりそうだ」
「まあ、あなたったら」
今度はエレナ母様も笑った。ニナは、まだ話の意味がよく分かっていないようだった。
「エレナ母様は、ずっと王都に行ってしまうの?」
エリーズが尋ねる。
「ずっとではないわ。お祝いのときや、お休みのときには、こちらへ帰ってくるもの」
「じゃあ、またみんなでお食事できる?」
「もちろんよ」
その答えを聞いて、エリーズは安心したように頷いた。ニナも隣で嬉しそうに笑っている。レオンは、何やら真剣な顔で考え込んでいた。
そのとき、レオンがエリーズの方へ向き直った。
「学院に行っても、一人にはしないぞ」
レオンが少し偉そうに言ったので、エリーズは「私だって一人で行けるわ」と答えた。二人のやり取りにまた笑い声が起きた。
「父様」
「何だい、レオン」
「僕も、学院に行ったら王都で暮らすんですよね?」
「ああ。そのつもりだよ」
「じゃあ、今のうちに、もっと剣術を練習しておきます!」
父様は少し驚いたあと、声を上げて笑った。
「それはよい心がけだ。ただ、剣術だけでは駄目だぞ。勉強もしっかりな」
「……はい」
レオンの返事は、少し小さくなった。どうやら、十歳になっても苦手なことは苦手らしい。
その夜、自分の部屋へ戻った私は、窓を少しだけ開けた。春の夜風が、カーテンを優しく揺らす。
遠くには、ラフォール領の街の灯りが見えた。この春からはコットと二人で王都の屋敷から学院へ通い、来年にはエレナ母様も来てくださる。そう思うと、胸の奥が温かくなった。
もちろん、父様やクラリス母様、レオンやエリーズ、ニナと離れて暮らすことには、少し寂しさもある。
それでも、こうして帰ってくれば、いつもと同じ家族が待っていてくれる。きっと、来年からもそれは変わらない。
私は窓辺に置いたエマからの手紙を手に取った。王都へ戻れば、また友人たちと学院で過ごす毎日が始まる。そして来年には、高等課程へ進む。そこでは、どんな毎日が待っているのだろう。少し楽しみで、少しだけ不安だった。
私はもう一度、庭の方へ目を向けた。コットと一緒に結んだ青いリボンが、月明かりの下で静かに揺れている。昼間はあんなに強かった風も、今はすっかり穏やかだ。風というのは、不思議なものだと思う。見えないのに、確かにそこにあって、いつの間にか景色を変えてしまう。
私は、まだ風を操ることができない。けれど、いつか父様のように風を使える日が来るのだろうか。そんなことを考えてから、私はそっと窓を閉めた。
そうだ、エマに返事を書こう。
レオンがとても喜んでいたこと。家族みんなで、楽しい誕生日を過ごしたこと。そして、来年からエレナ母様が王都へいらっしゃることも。きっとエマは、自分のことのように喜んでくれるだろう。
私は机に向かい、便箋を一枚取り出した。書きたいことは、思っていたよりたくさんあった。
――エマの手帳より ― 夜のまとめ
大陸歴661年・春
『マリーは領地へ帰省中。家族八人でお祝いの予定』
『本日、レオン十歳。祝いの手紙と焼き菓子は先日送った。菓子が割れていないことを祈る』
『マリーに会ったら、レオンが何を喜んだか聞くこと。菓子の無事も確認すること』
『そういえば、テオも去年十歳になった。靴下の件で大変だった。誕生日とは関係ないが忘れない』




