第一話 弟の十歳の誕生日
「カラメリア戦記」第二作へようこそ。
本作は、第一作に登場したエマの友人マリーを主人公とした物語です。
第一作を読んでいなくてもお楽しみいただけますが、登場人物たちの関係をより深く知りたい方は、第一作もぜひご覧ください。
第一作『子爵令嬢って、もう少し偉いんじゃなかったっけ?』は、全五話で完結しています。
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大陸歴661年・春
春の風というものは、もう少し穏やかなものだと思っていた。
「姉様!また取れちゃった!」
庭先から妹の声が聞こえた。振り返ると、木の枝に結んだ青いリボンが風にあおられ、するりとほどけてしまっている。
「もう。せっかくきれいに結んだのに」
頬を膨らませているのは、妹のコレット・ラフォール。家族からはコットと呼ばれている。
今年十二歳になる、私の二つ下の妹だ。少し勝ち気で、年下扱いされるのが苦手な子でもある。
「コット、もう少し下の枝に結んでみましょうか」
「でも、上の方がきれいに見えるわ」
「そうね。でも、何度も取れてしまっては困るでしょう?」
「……それは、そうだけど」
不満そうにしながらも、コットはリボンを差し出した。私は少し背伸びをして、今度は風の当たりにくそうな枝を選ぶ。結び目をきゅっと締めると、青いリボンはようやく落ち着いた。
「これなら大丈夫かしら」
「うん! ありがとう、姉様!」
さっきまでの不満はどこへやら。妹の明るい声に、私も笑ってしまった。
私の名前はマリアナ・ラフォール。ラフォール子爵家の長女で、家族からはマリーと呼ばれている。
今年で十四歳になる。今は、春の休暇で、王都の屋敷から領地の本邸へ帰ってきていた。王国学院の初等課程二年を終えたところで、休暇が明ければ三年生になる。コットも、この春から学院の初等課程に入学する。
これからは王都の屋敷で一緒に暮らすことになるのだけれど、今日は朝から入学準備どころではないらしい。何しろ、大切な弟の誕生日なのだから。
「姉様!」
ちょうど屋敷の方から、元気な声が飛んできた。男の子が一人、こちらへ走ってくる。
「準備は終わった?」
「ええ。ちょうど終わったところよ」
「じゃあ、見てもいい?」
「もちろん。今日はレオンのお祝いなのですもの」
弟のレオナルド・ラフォール。家族からはレオンと呼ばれている。五人きょうだいの中では唯一の男の子で、ラフォール子爵家の跡取りでもある。そして今日、十歳の誕生日を迎えた。
「すごい! こんなに飾ってくれたんだ!」
庭を見渡したレオンの目が、きらきらと輝いた。
「コットが頑張ったのよ」
「私だけじゃないわ。姉様も手伝ってくれたもの」
「二人ともありがとう!」
その言葉だけで、コットはすっかり機嫌を直したようだった。このところレオンは、何かにつけて『もうすぐ十歳だから』と口にする。ただ、勉強にも剣術の稽古にも、以前より熱心になっている。
いずれ家を継ぐことを、幼いなりに意識しているのだろう。もっとも、昨日は大好きな焼き菓子を一つ余分に食べようとして、たしなめられていた。こういうところは、まだ十歳である。
「さあ、そろそろ中へ戻りましょう。母様たちがお待ちよ」
「はい!」
私たちは三人で、屋敷へと歩き始めた。春の陽光を浴びた本邸の白い壁が見える。その向こうには、ラフォール領の街並みが続いていた。王都の屋敷とは違って広い庭があり、子供の頃から見慣れた景色がある。
ここへ帰ってくると、やっぱりほっとする。何より、家族が待っているのだから。
私には、母様が二人いる。
幼い頃からそれが当たり前だったので、特に不思議に思ったことはない。私たちが暮らすリュセリア王国では、代々魔法を受け継ぐ一部の領地貴族に、一定の条件で複数の妻を迎えることが認められている。ラフォール家も、風魔法を受け継ぐ家門の一つだ。
けれど、私にとって大切なのは、難しい決まりごとよりも、お二人がどちらも大好きな母様だということである。
「マリー姉様!」
玄関へ入るなり、小さな女の子が駆け寄ってきた。エリザベート・ラフォール。愛称はエリーズ。レオンと同じ年に生まれた妹で、今年十歳になる。レオンの方が先に生まれたので、彼のことを兄様と呼んでいる。
普段は張り合うことも多い二人だけれど、今日はエリーズの方がそわそわしていた。
「レオン兄様への贈り物、もう渡していいかしら?」
「まだよ。お食事の後にしましょうって、クラリス母様がおっしゃっていたでしょう?」
「だって、早く見てほしいんだもの」
そう言って、両手を後ろに隠す。どうやら、贈り物をこっそり持ってきてしまったらしい。
「エリーズ」
奥から声がした。妹はびくりとして振り返る。
「お祝いは、みんなで揃ってからにしましょうね」
「……はい」
そう言いながら、エリーズは両手を後ろに隠したままだ。クラリス母様はそれを見て、困ったように微笑んだ。
こちらが、父様の第二夫人、クラリッサ・ラフォール。今年三十五歳になる、私たちのクラリス母様だ。明るく面倒見のよい方で、本邸の家政を取り仕切っていらっしゃる。
誰が寝不足なのか、誰が朝食をあまり食べなかったのか。私たち自身が忘れてしまいそうな小さなことまで、よく気づいてくださる。
「レオンも、少しこちらへいらっしゃい」
「はい、クラリス母様」
クラリス母様は、駆け回って少し乱れたレオンの襟元を整えた。
「今日は主役なのですから、そんなに慌ててはいけませんよ」
「はい!」
「それに、マリーも。王都では、ちゃんと朝のお食事をいただいていますか?」
「もちろんです、クラリス母様」
「本当に?」
少し疑わしそうな目で見られた。実を言うと、学院の課題に夢中になって、朝食の時間に遅れそうになったことが何度かある。どうしてご存じなのだろう。
「……気をつけています」
「それなら、よろしいです」
クラリス母様は満足そうに頷いた。まったく、クラリス母様には敵わない。
その隣から、誰かが私の袖を引いた。
「マリー姉様」
「なあに?」
「レオン兄様は、今日から大人なの?」
末っ子のアントニーナ・ラフォール。皆からニナと呼ばれている、二月に六歳になった妹だ。
「まだ大人ではないと思うわ」
「でも、もう十歳でしょう?」
「そうね。ニナより四つも年上なのよ」
「じゃあ、やっぱり大人だわ」
真剣な顔で頷くので、笑いをこらえるのが大変だった。レオンは少し得意げな顔をしている。けれど、エリーズが「私だって、今年十歳になるんだから」と呟いたのを聞くと、二人はまた何か言い合いを始めそうになった。
「さあ、主役が喧嘩をしていては、お祝いが始められないわ」
廊下の向こうから、もう一人の母様が姿を現した。エレオノール・ラフォール。私の実母で、父様の第一夫人。今年四十三歳になられた。私たちはエレナ母様と呼んでいる。
「庭の飾り付け、ありがとうね。二人とも頑張ってくれたわ」
「コット、今朝は随分早くから準備していたのでしょう? 疲れていない?」
「平気です、エレナ母様!」
「そう。それならよかったわ」
エレナ母様は優しく微笑んだ。普段からにこやかで、私たちを軽くからかうこともある。けれど、領地の商いについて話すときは、驚くほど頼もしい。
商人たちと商談して取引を増やし、ラフォール領から王都へ送る品物を増やしてきたのも、エレナ母様の働きによるところが大きいそうだ。帳簿を前にしたときの真剣な表情は、私たちと過ごしているときとは少し違う。私は、そんなエレナ母様の姿も好きだった。
「あら、コット。髪が少し乱れているわね」
そう言って、エレナ母様はコットの髪に絡まった青い糸くずを、指先でそっと取ってくださった。
「えっ?」
「あとで結び直してあげましょう」
「ありがとうございます、エレナ母様」
エレナ母様は、もう一度コットの頭を優しく撫でた。
私とレオンはエレナ母様の子で、コット、エリーズ、ニナはクラリス母様の子だ。でも、誰がどちらの子なのかで、母様たちが私たちへの愛情を分けたことはない。二人の母様から生まれた五人は、皆きょうだいだ。
母様たちが話し合いながら私たちを育ててくださる姿を、私はずっと見てきた。私にとって、これが家族なのである。
昼食の席には、久しぶりに家族全員が揃った。父様の隣にはエレナ母様、その向かいにはクラリス母様が座り、私たち五人がそれぞれの席につく。
上座に座っていらっしゃるのが、父ギヨーム・ラフォール。今年四十三歳になる、ラフォール子爵家の当主である。父様は風魔法を使う領主として、領地の統治と防衛を担っていらっしゃる。
普段は穏やかで、私たちの話にもよく耳を傾けてくださるけれど、お仕事となると厳しい。執務室に朝から晩までいらっしゃることも多く、幼い頃は、父様はいつお休みになるのだろうと不思議に思ったものだった。
父様が杯を掲げた。
「それでは、レオン。十歳の誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます、父様!」
レオンが嬉しそうに答える。
「十歳になったからといって、急に大人になるわけではないぞ」
「分かっています」
「本当かしら」
エレナ母様が微笑んだ。
「昨日は、明日から十歳だから焼き菓子をもう一つ食べてもよいはずだ、と言っていたそうだけれど」
「エレナ母様!」
食卓に笑い声が広がった。レオンは耳まで赤くなっていたけれど、すぐに笑い返した。
「一つくらい、よいと思ったんです」
「あら、そうなの?」
「もう十歳なんですから!」
「では、今日は十歳のお祝いですもの。焼き菓子を一つ多く用意してもらいましょうか」
クラリス母様がそう言うと、レオンの表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、クラリス母様!」
「あら、クラリス。あなたまで甘やかすの?」
「今日くらいは、よろしいでしょう?」
二人の母様は顔を見合わせ、楽しそうに笑っていた。父様も、そんな二人を見ながら目を細めている。私は、この時間が好きだ。
私は王国学院に入学して以来、学期中は王都の屋敷で暮らしている。家令や侍女たちがいて、不自由な生活ではない。母様たちも折に触れて王都へいらしてくださる。それでも、本邸で暮らす家族と毎日顔を合わせられるわけではないので、寂しくはある。
春からはコットがそこに加わる。それはとても嬉しいのだけれど、今度は領地に残るレオンたちが少し寂しくなるのかもしれない。そう考えると、手放しで喜んでばかりもいられなかった。
「姉様?」
隣のコットが、私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「何でもないわ。少し考え事をしていただけ」
「また学院のこと?」
「……どうしてそう思うの?」
「姉様、難しい顔をするときは、たいていそうだもの」
思わず苦笑してしまった。コットは、私が思っている以上に、私をよく見ているらしい。
「心配しなくても大丈夫よ。王都は私がちゃんと案内してあげるからね」
「本当?」
「ええ。だから、楽しみにしていて」
「うん!」
コットは嬉しそうに頷いた。その笑顔を見て、私も少しだけ気持ちが軽くなった。
ラフォール家のような領地貴族にとって、家を継ぐということには大きな責任が伴う。領地を守り、領民の暮らしを支え、必要なときには軍を率いる。父様が日々向き合っていらっしゃる仕事を、いつかレオンが引き継ぐことになるのだ。
そして、私たちの家には代々伝わる風魔法がある。レオンも、いずれ父様のように風を操る日が来るのかもしれない。そう考えたところで、私は少しだけ自分の手元へ目を落とした。
実を言うと、もうすぐ十四歳になるというのに、私にはまだ魔法が発現していない。
魔法貴族の子供は、十二歳前後で属性に目覚めることが多いと聞く。もちろん、十五歳を過ぎてから発現する人もいるらしい。だから、私もまだ望みがないわけではない。父様も、お二人の母様も、私を責めたことは一度もなかった。
それなのに、皆が優しいからこそ、少しだけ気にしてしまう。誰にも責められないのなら、自分でも気にしなければよいのに。そう簡単にはいかないところが、我ながら困ったものだと思う。
今朝の青いリボンを思い出した。もし私にも風魔法が使えたら、あんなふうに何度も結び直さなくて済むのだろうか。……いや、リボンの結び目くらいは、自分の手で結んだ方が早いかもしれない。
そんなことを考えて、私は思わず小さく笑ってしまった。
「マリー?」
エレナ母様が、こちらを見ていらっしゃる。
「どうかしたの?」
「いいえ。何でもありません、エレナ母様」
「そう?」
エレナ母様はそれ以上尋ねず、穏やかに微笑まれた。何も聞かないでいてくださることが、ありがたいときもある。
私は目の前の食卓へ視線を戻した。今日は、レオンの誕生日なのだから。
昼食が終わると、エリーズが待ちかねたように立ち上がった。
「レオン兄様! これ、私からのお祝い!」
両手で差し出したのは、青い糸で縁を飾った小さな布袋だった。ところどころ縫い目は曲がっているけれど、揃えようとして何度もやり直した跡がある。
「エリーズが作ってくれたの?僕のために?」
「クラリス母様に教えてもらったの。……ほんの少しだけ」
エリーズは、少し恥ずかしそうに続けた。
「中には、稽古のときに使う小物を入れられるでしょう?」
「すごいな。ありがとう、エリーズ。大切にするよ」
レオンは布袋を両手で受け取り、早速腰の紐に当てて大きさを確かめた。エリーズは誇らしそうに顎を上げたけれど、耳だけが少し赤い。
「ここ、青い糸にしたの。レオン兄様の剣のお守りになるかなって」
「なるよ。きっと」
レオンが迷わず答えると、エリーズはようやく満面の笑みを浮かべた。いつもは張り合ってばかりの二人が、そのときだけはとても素直だった。私は、何だか胸が温かくなるのを感じた。
「よかったわね、エリーズ」
エレナ母様がそう声をかけると、エリーズは嬉しそうに頷いた。
「はい、エレナ母様!」
「レオンも、大切にするのですよ」
今度はクラリス母様が、弟に笑いかける。
「もちろんです!」
ニナは隣で一生懸命手を叩き、コットは自分が飾った庭を見に行こうとレオンを誘っている。父様はそんな子供たちを嬉しそうに見つめ、エレナ母様とクラリス母様は顔を見合わせて笑っていた。
いつか私たちも大きくなって、こうして同じ食卓に揃うことが難しくなるのかもしれない。学院を卒業し、それぞれが別の場所で暮らすようになったとしても、今日のことは、きっとずっと覚えているだろう。
春の休暇が終われば、また新しい一年が始まる。コットも学院へ入り、私も三年生になる。まだ魔法は使えないし、これからのことも分からない。けれど、今はもう少しだけ、この賑やかな時間を楽しんでいたかった。
窓の外では、青いリボンが春の風に揺れていた。今度は、ちゃんと結ばれている。
――エマの手帳より
大陸歴661年・春
『レオンはもうすぐ十歳。贈り物は焼き菓子。母様と選んだ』
『お店では紐で包んでくれた。結び方を見たはずなのに、もう覚えていない』
『手紙には「おめでとう」と書いた。封をする前にもう一度確認すること』
『次は包み方を聞くこと。見て覚えられると思ったのは失敗』




