45.北太平洋の巨大な渦
しばらくは穏やかな飛行だった。
一時間も飛ばないうちに、海岸線が見えた。
「アッサマ、聞こえるか? これから海上に出る。エンジンのヒーターをオンにするのを忘れるなよ」
『了解。さっきエンジンに熱を入れたところです』
「気流も荒れるから、気をつけてくれ」
『ソラヒトさんも、海に飲まれないでくださいよ。
ハルカさんを危険な目に遭わせたら、承知しませんから』
「ああ、気をつける」
海が広がった。太平洋だ。これまで見てきたどの海とも違う、灰色の冷たい海だった。
海上を数時間飛んだところで、空気が変わった。
気温が急激に下がっていく。コックピットの中でも、息が白くなった。
「……寒いな。ハルカは大丈夫か?」
「寒いけど、平気。シベリアとアラスカ、両方から冷気が流れ込んできてるのがわかる」
前方に、雲が見えた。これまで見てきたものとは違う種類の雲——いや、壁だ。灰色の壁が、巨大な螺旋を描いて回っている。中心に向かうほど、色が濃くなっている。
「あれが、オデッセイ島を包む、渦の雲……」
無線から、アッサマの声が入った。
『ソラヒトさん、風速が異常です。計器がおかしくなりそうなレベルで』
「大丈夫。想定内の風だ。
ハルカが言ってた通り、渦の流れに沿って螺旋状に飛ぶ。
機体が流されてるわけじゃないから、気にしないでついてきてくれ」
『ええ、了解しました』
俺は操縦桿を握り直した。
渦に近づくにつれて、機体が大きく横に振られる。
「風に逆らわないで」とハルカが言った。「流される方向に、舵を合わせて」
俺は操縦桿を風に合わせて切った。スカイフィッシュ号は、渦の縁をなぞるように、大きな大きな円を描いて飛んだ。シンデン改も、後ろからついてくる。
「くっそ寒ぃぃ……」
俺の歯はガチガチと震えていた。
「エンジン、大丈夫?」
ハルカに言われ、計器を確認した。
「……今のところは、熱がちゃんと効いてる」
「よかった」
「アッサマの方は大丈夫か?」
『問題ないです』
とアッサマの声が無線から返ってきた。
少しずつ渦の中心に近づく。風の強さはどんどん強くなっていく。
「ハルカ、今どの辺りだ?」
「渦の中心のちょうど南側。風の強さは変わらないけど、気温は上がってくると思う」
その時、雲の中に入り、視界が悪くなった。ハルカの声を頼りに、操縦桿を握る。
「十秒後、少し強い風がくる。機首を左に」
「了解!」
雲を抜けると、下に海が見えた。波が異様に高い。渦の力で、海面まで巻き上げられているようだった。
「すげぇ波だな……」
「近づかないで。海面まで嵐に巻き込まれてる」
しばらく飛行すると、外が段々と暗くなってきた。ここからは夜間のフライトだ。気温もさらに下がった。コックピットの外側に、氷の結晶が張り付いている。
「アッサマ、計器の確認怠るなよ。
一瞬でもバランスを崩したら、機体が吹き飛ぶからな」
『了解しました。ソラヒトさんも寝たりしないでくださいよ。後ろにはハルカさんが乗ってるんですから、気を抜かないでください』
「わかってる。“全員”で帰ろう……!」
円を描きながら、計器を確認して少しずつ高度と角度を調整していく。
その極限の状況に、一瞬たりとも気を抜くことなく飛び続けた。
風の音以外、何も聞こえない。外は真っ暗。完全に、無の世界だった。
無線でシンデン改の位置を確認しながら、夜通し飛んだ。
◇
「……太陽だ」
あれから何時間飛行しただろう。
東の空が少しずつ明るくなったと思ったら、渦が落ち着きを見せた。
「ハルカ、これは……?」
「中心に近づいてきてる証拠。回転が緩やかになってきてる」
「ということは……」
「もうすぐ、見える」
俺は前方を見つめた。雲の向こうに、何かの輪郭が見え始めていた。
間違いない。オデッセイ島だ。
「アッサマ、見えるか?」
『……見えています。これが——オデッセイ島ですか……』
アッサマの声は震えていた。
雲が、少しずつ晴れていく。
その先に、今度ははっきりと島が見えた。巨大な木が何本も生えている。巨木の森だ。
その島を取り囲むように、三日月型の島も見えた。
これまで見てきたどの土地とも違う、異様な静けさがあった。風はまだ強いが、島の上空だけ不思議と空気が落ち着いている。
無線から、トビオ爺の声が聞こえた。長い沈黙の後、ようやく出てきた言葉だった。
『……ついに、帰ってこられたか』
その声には、五十年分の何かが詰まっているように聞こえた。
スカイフィッシュ号とシンデン改が、島に向けてゆっくりと高度を下げていく。




