36.世界の端、ヒマラヤ山脈
——すると、プロペラが回り始めた。
エンジンの音はない。別の何かが、プロペラを回している。俺の意思が、直接スカイフィッシュ号に伝わっていた。
「ソラヒト……」
と言ったハルカの声は震えていた。
「心配するな。大丈夫だ……!」
とは言ったものの、大丈夫ではなかった。
頭が割れるように痛かった。額に汗が滲む。視界の端が暗くなる。それでも、操縦桿を握り続けた。
「私も、遠くの風を正確に感じる。
四時の方向、三十秒後に強い上昇気流が来る」
「任せろ! その気流で、一気に越える……、越えてやる……っ!」
スカイフィッシュ号が、ゆっくりと旋回を始めた。
翼一つ動かすのさえ、かなりの体力を使う。
ハルカはカウントダウンをしてくれた。
「五、四、三、二、一」
「今だ……っ! 風に乗れ、スカイフィッシュ号!!」
——すると、機体はまるで、質量を持っていないかのように浮かび上がった。
機首は優にエベレストの稜線の高さを越えている。
「このまま越えるぞ! ハルカ、しっかり掴まってろよ!」
「越えて、ソラヒト……っ!」
「行け……っ! 越えてくれぇぇっ!!」
「……」
——空が、広がった。
視界を遮っていた白い壁が取り払われたように、前方に青い青い空が現れた。
「こ、越えた……ぞ……」
「うん。……越えた」
スカイフィッシュ号は、チベット高原に向かって滑空を始めた。高度が落ちていく。地面が近づいてくる。
八百メートル。
五百メートル。
三百メートル。
百メートル。
そして、チベット高原の芝生に着陸した。していた。正直、どうやって着陸させたのか、覚えていなかった。
頭の中で、何かがぶつりと音を立てた。視界が白くなる。
「……ラヒト!」
ハルカの声が遠くへ消えていき、そのまま意識を失った。
◇
気がついたら、星が見えた。
いつの間にか夜になっていたようだった。
「……ヒト! ソラヒトっ!」
ハルカが俺の顔を覗き込んでいた。目が赤い。泣いていたのかもしれない。
「……ごめん。無理しちまったな。怖い思いさせた……」
「……謝らなくて、いい」
体を起こそうとしたが、腕に力が入らない。頭が重い。
「……俺、どのくらい気ぃ失ってたんだ……?」
「五時間くらい」
「……そうか」
二人でしばらく、チベットの宇宙を見ていた。
夜なのに、星が輝いて明るいとさえ感じた。
後ろには、ヒマラヤの峰が黒い壁となって見えた。
あの壁を越えてきた——二人はその事実を噛み締めていた。
◇
夜明けのチベット高原は、静かだった。
どこまでも続く、茶色と緑色の地面。草はわずかに生えているが、木は一本もない。ヒマラヤ以外の山はない。
ただただ広く、地平線まで何もない。
俺は背中を地面につけたまま、空を見ていた。
青かった。これまで見てきた空の中で、一番濃い青だ。
標高が高いせいで、大気の層が薄いからだろう。太陽を近くに感じる。
本来それは、気持ちのいい天気のはずなのだが、今の俺にとっては好ましくない状況だった。
——暑い。暑さでどんどん体力を持っていかれる。
「あちーし、腹も減ったな」
「減りすぎて、もうわかんない」
「ああ、そういや俺もそうだった……」
頭が回っていない。体を起こそうとしても、腕が重い。頭の奥に、鈍い痛みが残っている。昨日の能力発動の反動だ。
そりゃそうだ。ロボットアームを動かしただけでしばらく寝込んだのに、あんなデカい飛行機を動かしたんだ。
「無理しないで」
とハルカが言った。
「つってもよ、俺ら詰んでないか?
せっかくあのヒマラヤを越えたってのに……」
「荷物なら、積んでない」
「あー、その“ツむ”じゃなくてな……」
ハルカも完全に頭が回っていない。
頭が回っていないことは頭で理解できるのだが、そこで思考が止まる。
「ソラヒト、ちょっと待ってて」
ハルカは荷物を漁り始めた。食料でも探しているのだろうか。しかし荷物などあるはずがない。昨日、機体を軽くするために全部捨てたのだから。
「何も残ってないだろ?」
「桃の顆粒、一粒だけ落ちてた」
ハルカは、それをつまんで俺の元へ歩いてくる。いつも以上に、よたよたと。
そして、何も言わずに俺の口の中に入れようとした。
「いや、それはハルカが食べてくれ。
そんな一粒ぽっち譲ったところで、何もカッコつかねぇのはわかってるけどな」
「私はいい。 早く食べて」
「食べない」
「食べて」
「……」
「ソラヒトが食べないなら、私も食べない」
「どっちかは食べないと、もったいないだろ」
そんな生産性のないやり取りが続いた。
チベットの空の下で、二人きり。スカイフィッシュ号の三枚の翼が、風でかすかに揺れた。
「LABIの倉庫で直してよかった。この翼がなかったら、ヒマラヤは越えられなかった」
「ダーラムさんのおかげ」
「そうだな。……帰りに、ちゃんと寄ろう。越えたって報告しに」
——その時、ハルカが目を見開き、空を見上げた。
「……聞こえる」
「何がだ?」
「何かはわからない。でも、近づいてくる」
「ん〜?」
俺は耳を澄ました。耳を澄ますのさえ憚られるくらい体力は消耗しきっていたが、それ以外にできることはなかった。
最初は何も聞こえなかった。しかし、しばらくすると——確かに空から聞こえた。ゴォォ、という低い唸りが。




