35.ヒマラヤ山脈を超えろ
ヒマラヤの渓谷に入ると、両脇から岩と雪の崖が迫ってきた。
植物はほとんど生えていない。生き物の気配もない。
ただ、岩と雪と空だけがある世界だ。
「二秒後、下降気流。機首を上げて」
俺の背中に、ハルカの手が触れる。
「任せろっ!」
機体が地面に押し付けられる前に、三枚の主翼を操作した。エンジンの出力も上がり、下降気流の中でも高度を維持し続けられるほどの揚力があった。
「三枚翼、やっぱすげぇな……。
エンジンも調子いいし、行けるな……!」
「うん。でも、油断はしないで」
渓谷に沿って、どんどんと高度を上げる。エンジンが唸る。三枚翼が空気をしっかり掴んでいる。
以前のスカイフィッシュ号なら、ここでもう限界だったかもしれない。しかし今は、まだ余裕がある。
そして、渓谷を抜けた。
スカイフィッシュ号は、雪の山肌の上を飛んでいる。
それでもヒマラヤは、まだまだ高かった。
「ソラヒト、さっきから同じ場所をぐるぐる飛んでる。どうしたの?」
「空気が薄くて、思ったよりエンジンの出力が上がらない。
高度を上げて、速度を回復しての繰り返しだ。
……くそっ、地球に引っ張られてる感じだ」
ハルカは少し黙った。後部座席で、何かを考えているようだった。
「……荷物、捨てる?」
ハルカからの予想外の提案に、はっとした。
「……本気か?」
「本気。それで越えられるなら」
「……そうだな、機体を軽くすっか。何が降ろせそうだ?」
ハルカは荷物を確認した。
食料の残り、予備の工具、着替え、毛布。
次々と外に投げた。
「これで少しは軽くなったが……、まだ足りないな」
「もう捨てられるもの、ない」
捨てるもの、捨てられるもの——俺は空気が薄まる中、必死に頭を巡らせた。
「……燃料だ! 燃料を一部捨てよう。それしかない」
「燃料を?」
「ああ。あそこに見えてる山がエベレストなんだろ?
あそこを越える分だけ残せば、その先は滑空でなんとかなる……!」
「わかった。ソラヒトを、信じる」
俺は燃料タンクの蓋を開けるレバーを見た。
(……やるしかない)
普段は飛行中に間違えて触らないようにストッパーがかかっているのだが、それを外した。そして、レバーを引いた。
「ハルカ、しっかり捕まってろよ……!」
俺は機体を傾けた。
給油口からは、ドボドボとエリクシル燃料が溢れ落ちた。
「……よし、だいぶ軽くなった。
このまま一気に駆け上がるぞ……!」
給油口を閉じ、機体を水平飛行に戻す。
そして、山頂部分に挑む時が来た。向こう側には、青い空がある。
あそこを越えれば、チベット高原だ。
「ソラヒト、燃料は?」
「……あと一割。でも、余裕で足りる」
軽くなったスカイフィッシュ号が、エベレストに向かってぐんぐん高度を上げていく。
三枚の翼が、薄い空気をしっかり掴んでいる。新しいエンジンが全力で回っている。
「そのまま。速度を落とさないで」
「了解……!」
「ソラヒト、左から突風が来る。五秒後」
突風はハルカの読み通り、五秒後に来た。
凄まじい音と共に、風が通り抜けた。
風を受け流す態勢を取っていたスカイフィッシュ号は、ほとんど影響なく飛行を続けた。
「流石だな、ハルカ」
その直後、ハルカに背中を強く叩かれた。
何かを言っている気がしたが、風の音でよく聞こえなかった。
そして——
「うわっ……!」
この日一番の強さの下降気流がスカイフィッシュ号を襲った。
なんとか機体を立て直したが、大きく高度を落としてしまった。
「くっそ、また高度を上げ直さないとな……」
その時——エンジンが、止まった。
プロペラが回転を落とした。
機体から音が消え、無音の世界になった。
(え…………?)
「ソラヒト……?」
「わかってる」
「燃料が」
「わかってるって……!」
俺の計算は、完璧すぎたのだ。
もしもの時のための燃料まで捨ててしまっていた。
スカイフィッシュ号は百八十度旋回し、元来たインドの方向へ無音で滑空をしている。するしかなかった。
「ソラヒト、このまま戻っても、ダメ。
平野に着く前に失速して、墜落する……」
「んなこと言ったって、燃料が……っ!」
「……落ち着いて、ソラヒト。手を、貸して」
操縦桿から手を離すのは危険だった。
しかし今は、ハルカを信じて従うしかなかった。
右手を後部座席に差し出すと、ハルカに手を握られた。
その手の中には——聖なる岩の欠片があった。
「ハルカ……、これって……」
香港でハルカが危なかった時、ロボットアームが動いた。
あの後、ただ試そうとしてもダメだった。強い意志が必要だった。
右手はハルカの手を握ったまま、左手で操縦桿を操作した。
その瞬間、頭の中にスカイフィッシュ号の構造が流れ込んできた。翼の形、エンジンの内部、燃料パイプの配置、電気系統の経路。全部が、手に取るようにわかった。
燃料は空っぽだ。しかしエンジンの仕組みはわかった。空気を圧縮して、プロペラを動かす。燃料がなければ——自分で動かせばいい。
(……動け。……動いてくれ!)
俺は自分の手足のように繋がったスカイフィッシュ号に力を加えた。いや、そんなイメージで念じた。




