16.水中に記録された歴史
翌朝。重い瞼を開けて起き上がると、ミオが小屋の前で待っているのが見えた。
ロープと浮き袋を括りつけたリュックを背負い、手には水中眼鏡を持っている。
「おはよう! 今日は天気がいいから、湖底がよく見えるよ!」
「おはようさん。何時から待ってたんだ?」
「今来たところだよ〜!
さっきまでは一人で泳いでた!」
「朝から元気だな……」
「湖は朝が一番きれいなんだもん! 早く行かないともったいないよ!」
その時、カズマさんが顔を出した。
「あ、カズマさん。おはようございます!」
「ああ、おはよう。
ミオ、お客さんに無理させるな。それとソラヒトくん、夕飯前に少し時間が作れそうだ。もう一度エンジンを見せてくれ」
「わかりました、お願いします!
ほら、ハルカ。背中に乗りな」
「ありがとう」
俺はハルカを背負って、ミオについていった。
丘を下りると、湖岸に出た。
朝の湖は、昨日とは全然違った様子だった。
水面が鏡のように静まり返っている。風がなく、波もない。
エメラルドブルーの水が、朝日を受けて輝いていた。
水没した屋根瓦の列が、水面の下できらきらと光っている。
「きれい……」
ハルカが言った。
「毎朝見てるけど、ウチは全然飽きないよ!」
ミオが言った。
俺は何も言えなかった。
ただ、その美しい水面をじっと見ていた。
「この辺が、奈良駅のあたり! あそこに見える四角いのが、駅のホームの屋根ね!」
コンクリートの構造物が水から顔を出していた。
かつての駅が、水中に残っていた。
「電車って、もう走ってないんだよな」
俺は当たり前なことを言った。ただ、その事実を確かめるように。
「そりゃ、走ってないよ! でも、線路は底にそのまま残ってる。潜るとはっきり見えるよ!」
「水の中の線路……、不思議なもんだな」
「錆びてるけど、形はちゃんとある。電車が止まったままの場所もあるよ!」
「時が止まったままなんだな」
「うん。水の中で止まってる。五十年間、ずっと」
ミオは少し進んで、湖岸の突き出た岩の上に立った。
「ここからだと、湖の中がよく見えるよ!
あれが興福寺の五重塔で、あそこが——」
水面から、赤茶けた塔の上部が突き出ていた。最上部だけが水面に出ており、その下は水の中に沈んでいる。
水面の揺れに合わせて、塔の輪郭が水中でゆらゆらと揺れていた。
「飛行機から見た時と、全然違うな。今見ると、塔だってはっきりわかる」
「上まで登れるよ?」
「え? 上って?」
「潜って、塔の中に入って、階段を泳いで最上部に出られる!」
「よくやってるのか?」
「毎日じゃないけど、よく行くよ!」
「どんな景色が見えるの?」
ハルカが聞いた。さっきからミオの話を真剣に聞いている様子だった。。ハルカの中の想像力が掻き立てられているのかもしれない。
「景色で言えば、ただ湖の真ん中に立ってるって感じ!
周りを山に囲まれた湖の、ど真ん中。他には何もない。水と、山と、空だけ。
でもやっぱり、一番高いところに立つと、元気が湧いてくる!」
「私も、行ってみたい」
「潜れる?」
「ううん。残念だけど、私は生まれつき体が弱くて、泳げない。
行ってみたいってのは、願望」
「そうなの? でも、私もこう見えて、すごく身体が弱いの。
持久力はあるんだけど、一気に強い力を出すのが苦手で——だから、水の中にいると、身体が軽くて、すごく楽なんだ!」
「ミオちゃんは、水中が楽なんだ。私は、空中が楽」
「空中か〜、ウチはちょっと怖いな!
でも、水中が楽なのは慣れたからかも!
泳がなくても綺麗に水中が見れる場所があるから、連れてってあげる!」
ミオに連れられて来たのは、湖岸から少し張り出した木の桟橋だった。
廃材で作られた桟橋で、先端まで行くと湖底が真下に見える。透明度が高く、湖底まで見えた。
「すごいでしょ! これ、お父さんが作ったんだ!」
俺はハルカと共に恐る恐る湖を覗き込んだ。すると、湖底には街があった。
道路がある。歩道がある。信号機が立っている。かつての商店の看板が、水底で静かに光を反射している。
車が一台、道路の脇に停められたままになっている。
誰もいない、音もない——ただ、人類の歴史がそこにある。
「すげぇな、ほんと……」
と思わず言葉が漏れた。声が小さくなっていた。
「確かに、人が急にいなくなった場所って感じがする。
車が停まってるってことは、誰かがどこかに行こうとしてたってこと。買い物とか、学校とか。
でも帰ってこれなかった」
ハルカは状況を整理するように言った。
「……ああ、そうだな」
「ウチも最初にここを見た時、悲しくなって泣いた。
でも今は、なんか違う気持ち」
「違う気持ち?」
とハルカが聞いた。
「うまく言えないんだけど、街が消えたんじゃなくて、水の中に潜ってるって感じがする」
「それって……、テツジさんが言ってたことに、近いかもな」
俺はテツジさんの言葉を思い出していた。なんとなく、繋がってるような気がしたからだ。
「テツジさんって?」
「俺らが東京で会った人だ。いろんな出来事をずっとノートに記録し続けてる九十歳のお爺さん。
その人は、『記録されないものは、忘れ去られてしまう』って言ってた。
この街は、ノートの代わりに、湖の底に記録されてるんじゃないかな?
そして、ミオが毎日潜って見ててくれている。
だから、奈良の街はずっと残っていくんだ」
「……確かに、言葉で表現するとそんな感じかも!
めっちゃスッキリした!」
桟橋の先端に、三人で並んで座った。
足を水面の上に出して、揺らしながら話した。
「ミオは、生まれた時からずっとここにいるのか?」
「うん。この水没した街が、私の故郷」
「そっか。これからもずっと住み続けるのか?」
「んー、わからない。でも、しばらくはここにいたいかな。
湖の底には、まだまだ見たことのないものがたっくさんあると思うから!」
「こんだけ広かったら、そうだよな」
「ウチね、奈良の大仏が見たい!
湖の底に沈んでるのは感じるんだけど、私まだそこまで潜ったことがなくて」
「感じる……? どういうことだよ?」
ミオはつま先を水面につけて、目を閉じた。




