14.水に沈んだ街
東京を出て、南へ向かった。
太平洋沿いに南下しながら、ハルカは海上の大気を読み続けた。
ついさっき、静岡の海岸線を過ぎたところだ。
「ミドリさんが言ってた通り、この辺は全く樹木が生えてないんだな」
「本当だ。ほとんど岩と苔しかない」
「ところでハルカ、海上の気流はどうだ?」
「ダメ。ずっと荒れてる。東の海は、どこも同じ」
「どのくらい荒れてるんだ?」
「とにかく波が高くうねっているのが伝わってくる。上空の乱気流が海面を引っ張ってる感じ」
「やっぱ厳しいか?」
「今の“天井”だと無理。それに、沖合に出るほど、何か嫌な感覚がある。うまく言えないけど、東に向かってはいけないような」
「わかった。もう少し偵察を続けよう」
◇
太陽が一日の中で一番高い位置にきた。
しかし、紀伊半島まで南下しても状況は変わらなかった。
それどころか、半島の先端に差し掛かった頃、突然エンジンの回転数が落ちた。
「ソラヒト?」
「わかってる。きっとエンジンが——」
その瞬間、エンジンが咳き込むような低い爆発音が一発鳴った。
塩を含んだ海風が長時間エンジンにあたり続けた影響か、吸気系に問題が起きているのかもしれない。
「内陸に入るぞ。潮風の届かない山の向こう側に降ろして整備する」
「分かった。このまま内陸側へ向かって旋回して」
紀伊山地の稜線が、正面に迫ってきた。
「ハルカ、この先の“天井”は?」
「あまり高くはない。なるべく低空を飛びながら山を越えて。
機体の調子は大丈夫?」
「本調子じゃないが、行くしかなさそうだ」
スロットルを限界まで押し込むと、エンジンが唸りを上げた。
しかし回転数が上がりきらない。
失速しないギリギリの角度まで機首を上げる。稜線が近づいてくるが、旋回を繰り返し、少しずつ高度を上げた。
「ソラヒト、天井まで、あと五十メートル」
「わかってる……!」
「速度が落ちすぎると失速する」
「それもわかってる……っ!」
翼が震えた。失速手前の、あの嫌な感覚だ。
機首をわずかに下げて速度を回復させる。しかし、高度は上がらない。
岩肌が、コックピットのすぐ横を流れた。
「上がれ……、上がってくれ……!」
そして——越えた。視界が、一気に開けた。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
俺の手は、操縦桿の上で小さく震えていた。
スカイフィッシュ号のエンジンは、断続的に咳き込みながらもなんとか頑張ってくれた。
眼下に広がる盆地の中に、広大な湖が現れた。どこまでも続く湖。
太陽の光を受けて、エメラルドブルーに輝いている。
「ハルカ、これって琵琶湖か?」
「……」
ハルカは答えなかった。
何かを考えている風の間があった。
「……ハルカ?」
「……違う。琵琶湖は、もっと北にあるはず……」
「じゃあなんていう名前の湖だよ?」
「……わからない。地図帳には載ってなかった」
俺もハルカも、言葉を失った。
(五十年間で、湖が形成されたのか……?)
水面のあちこちから、建物の屋根が顔を出していた。
五重塔の上部が、水面から突き出ている。
鳥居が半分沈んでいる。
「街が……沈んでるのか……?」
「すごい……」
と言ったハルカの声は、珍しく少し大きかった。
「なんか、本当にすごい景色だな。
人類の歴史が、水の中に沈んでいる……」
低空で湖面を飛ぶ。屋根スレスレを通ると、水の中に道路の白線が見えた。かつてのお店の看板が、水面の下でぼんやりと光を反射していた。
「てか、水の透明度高いな。かなり深くまで見えるぞ」
「人がいなくなって、水が澄んできたんだと思う。生活排水がなくなったから」
「やっぱ人間がいない方が、自然はきれいになるんだな……」
湖の北側に、陸地が見えてきた。
かつての奈良市街の高台だろうか、水没を免れた丘の上に、小さな集落がある。煙が上がっているのが見えた。
「とにかく、あそこの近くに降りるぞ。エンジンも限界に近い」
平らな場所を探しながら低空で旋回する。エンジンが断続的に咳き込む。時間がなかった。
「あそこ。丘の上、少し開けてる」
ハルカが指を差した。
「狭いな」
「他に場所が、ない」
「しゃーないな」
アプローチに入る。しかしエンジンの出力が安定しない。スロットルを操作するたびに、回転数が不規則に上下する。
とにかく、機体の挙動が読みにくかった。
「ソラヒト、右から風。流される」
「了解した」
機体が左に流されかけたが、修正した。
しかし、エンジンが咳き込んだ瞬間、機首が下がった。
「やば……っ」
無理にでも機首を引き起こす。
しかし、丘の端が目の前に迫っていた。草が風圧で波打つ。
そして、主脚が地面に叩きつけられた。普段よりも強く機体が跳ねた。
操縦桿を押さえ込むと、速度が落ちていった。
丘の端まで、三メートルほどの距離で止まった。
その先は、湖だった。
二人とも、しばらく動かなかった。
エンジンが、ぷすん、と音を立てて勝手に止まった。
「あっぶな……、水の中に落ちるところだった……。
とにかく、降りてみよう」
俺の声は、少し掠れていた。
しばらく息が詰まっていた証拠だ。
コックピットから降りて、スカイフィッシュ号の周りを一周した。エンジンカバーを開けると、吸気系のパイプに塩の結晶が詰まっていた。
「塩詰まりだ。直せないことはないけど、道具がいるな。それに、もう一人、人手が欲しいな」
俺は頭を掻いた。どうすっかなーといった感じだ。
「助けを借りることも大事。
さっき煙が上がっていた場所、集落があるかもしれない」
丘の奥の方を見ると、細い煙が一本上がっていた。
「そうだな。行ってみっか!」
俺はハルカの手を取った。




