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第九話 辺境伯

 

 辺境伯のエレノアール邸、その大広間は、静寂に支配されていた。

 中央に立つ男は、腰に無骨な長剣を帯び、黒鉄の鎧に身を包んでいる。

 ライファス・エレノアール。

 王国の北端を守り、その武勲は知らぬ者がない。年齢はようやく三十に届こうかという若さだが、その立ち姿には一切の隙がなく、幾多の死線を越えてきた者だけが纏う、濃密な覇気が漂っていた。


「楽にしたまえ、化粧師殿」


 ライファスの声は低く、硬質だった。

 グランツは黙って頭を下げ、道具袋を床に置いた。

 

「グランツ殿は、とても口が堅いとアリシア嬢に聞いたが」

「顧客の秘密は、絶対に守ります。というか、聞きません。僕が興味があるのは、顔だけですから」

「そうか。……だったら、これを見てもらおうか」


 ライファスは、迷いなく鎧の白革を解いた。

 重厚な鉄が床に落ち、鈍い音を立てる。続いて、汗に滲んだインナーも脱ぎ捨てられた。

 

 そこには、鍛え上げられた筋肉に包まれた、しかし、確かな膨らみを持つ双丘があった。

 

 グランツは、眉一つ動かさなかった。

 

「……驚かないのか?」


 ライファスが、自嘲気味な笑みを浮かべて尋ねた。


「いえ。そういうこともあるかな、と思っていました。少しだけ呼吸が浅かった。立ち姿の重心が、普通の男よりも、ほんの少し中心に寄っていた」

「恐ろしい男だな、貴殿は」


 ライファスは苦笑し、脱ぎ捨てた鎧を見つめた。


「このままだ私は。一生、このままだ。エレノアールの家を守るために、男として育てられた。父が、それを望んでいた。私自身も、それに納得はしている。だから今更、女に戻るつもりはない」


彼女は、自分の逞しい腕を見つめた。無数の剣傷が走っている。


「だが……夢を見るのだ。漆黒のドレスを着飾って、鏡の前で微笑み、楽しく踊る、夢を……。馬鹿げているだろう?  辺境の死神と呼ばれたこの私が……」


 グランツは、彼女を見上げた。

 その瞳には、戦場を駆ける騎士ではなく、叶わぬ夢に胸を焦がす、一人の女の姿が映っていた。


「馬鹿げてなどいません」


 グランツはライファスの目をまっすぐに見て言った。


「ライファス様。ドレスを着る必要はありません。そんなものを着なくても、貴方には気高い美しさがあります。どれだけ戦場を駆けようとも、その美しさが損なわれることは絶対にありません」

「……ありがとう。あたりまえの話だが、そんなことを言われたのは、生まれてはじめてだ」

「今日、ここに僕を呼んだ理由は、ドレスは無理でも、化粧ならと……」

「……ああ、そうだ。誰もいない部屋でする化粧など、なんの意味もないだろうが」

 

 ライファスはそう言って視線を逸らした。

 戦場では敵から逸らしたことのない眼が、今は少女のように宙を彷徨っている。


「無意味じゃありません。自分の美を確認するのは、女性にとっては時に食事よりも大切なことなのです」


 グランツは、道具袋から、かつてシアのために使った「夜蛾の鱗粉」と、メイサのために使った「魔魚の鱗粉」を取り出した。


「その奥底に眠る女性としてのあなたに、誰にも気づかれない、あなただけのドレスを着せましょう。僕が筆を置いた時、あなたがそれをどう感じるかは、わかりませんが」


 ライファスは、困惑しながらも、ゆっくりと目を閉じた。

 

 グランツの筆が、彼女の顔に触れる。

 眉の形は変えない。しかし、眉尻に白光蝶の銀粉を極薄く乗せ、知性の奥に潜む「気品」を際立たせる。目元には、夜蛾の鱗粉を、光の加減でしか見えないほどの薄さで仕込み、瞳の奥に「ミステリアスな陰」を宿らせる。

 唇には、色を乗せない。ただ、蜂蜜と龍の鱗の粉末を混ぜたクリームで、その輪郭を微かに整え、鋼のような意志の中に、ひとさじの「柔らかさ」を加えた。

 

「……終わりました。ライファス様」

 

 ライファスは、ゆっくりと目を開けた。

 鏡は見ない。ただ、自分の体に、何かが吸い付くような、不思議な感覚があった。

 それは、重い鎧とは違う、絹のように滑らかで、しかし、自分を守ってくれる、確かな「ドレス」の感覚だった。

 

 彼女は立ち上がった。

 その瞬間、大広間の空気が、劇的に変わった。

 立ち姿は、以前と同じ、隙のない騎士。だがその姿には、誰にも媚びない、圧倒的な「気高さ」が宿っていた。

 

「……これが、私か?  鎧の下に、ドレスを着ているような……」


「ええ。あなたは今、世界で最も美しい騎士です。誰にも見せる必要はありません。あなた自身が、その美しさを知っていれば、それで十分です」

 

 ライファスは、自分の胸元にそっと手をやった。

 彼女の目に、一滴の涙が浮かび、すぐに消えた。

 

「……ありがとう、グランツ。これで……生きていける……」

 

 彼女は、再び黒鉄の鎧を纏った。

 鎧が、以前よりも、彼女の体を優しく守っているように見えた。

 

 グランツは、エレノアール邸を後にした。

 北の森から吹く風が、少しだけ、花の匂いを含んでいる気がした。



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