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ベンチャーCEOの想い溢れる初恋婚 溺れるほどの一途なキスを君に  作者: 犬上義彦


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(3-2)


   ◇


 あらためて車は蒼也のマンションへ向かう。


 蒼也は、ずっと口をとがらせたままの翠を悟られないように横目で眺めていた。


 ――相変わらずだな。


 その唇、まるでキスしろってせがんでるみたいだ。


 幼い頃に初めて会った日のことは今でも覚えている。


 忘れたことなどない。


 ただ、その約束があまりにも幼すぎたせいで、大人になってから交際する理由として持ち出すには、かえって障害になっていたのだ。


 また逆に、子どもの頃にそれほど親密でなかったことも、大人になってからもお互いを意識し続ける土台になっていたことも事実だ。


 つかず離れず、かつ、遠慮し合う微妙な関係だったからこそ、二人の関係は炭火のように消えることなく続いてきたのだ。


 だからこそ、勢いに任せてこんな形で進めることになってしまったわけだが、こうなった以上は後戻りはできないし、するつもりもない。


 ずっと夢見てきた。


 俺はこの日のために生きてきたんだよ、翠。


 車が到着し、荷物を下ろす。


「俺が運ぶよ」


「大丈夫ですよ」


 紳士的に手を差し伸べてみたものの、翠は自分でエントランスへ引きずっていく。


「ずいぶん大きなスーツケースにしたんだな」


「どれくらい必要か分からなかったので」


「もちろん、ずっといてくれていいんだぞ」


(偽装結婚なんて、それこそ『偽装』なんだからな)


「はあ、そうですか」


 声のトーンが沈んでいるのは突然のことで戸惑っているのだろうと受け止め、蒼也は腫れ物に触るような気持ちで翠を部屋へ招き入れた。


「広いお部屋ですね」


 淡々とした口調で室内を眺め、翠が窓に歩み寄る。


 眼下には低層マンションなどが建ち並んだ住宅街が広がり、背骨のように高速道路が延びて、六月にはめずらしくその先には小さく富士山が見えた。


 夏至近くで日はまだ高いが、夕方の時間帯だった。


「夕飯にはまだ少し早いですよね」と、翠がキッチンの様子を眺めている。


「そうだな。とりあえず、お茶でも入れようか」


「ちょっと先に冷蔵庫見ておいていいですか」


「もちろん、遠慮しないでくれ。なにしろ、もう君の家だからな」


「あれ?」


 冷蔵庫を開けた翠が固まっている。


「どうした?」


「何も入ってないんですけど」


 それは悠輝の冷蔵庫だった。


「ああ、それは悠輝が撮影用に持ち込んだやつなんだ。電源も入ってないだろ」


「撮影って、『即興バズレシピ』のですか?」


「そうなんだよ。あいつ、ここをスタジオとして使っててさ」


「じゃあ、私が住むと邪魔ですよね」


「そんなことあるわけないだろ」と、蒼也は声を張り上げた。「邪魔なのはあいつの方だ」


 と、そこへピーンポォーンと間延びしたインターフォンが鳴った。


「噂をすれば、あいつか」


 蒼也がドアを細く開けると、悠輝が体をねじ込むように入ってきた。


「やっほー、来たよ」


「いらっしゃい」と、キッチンから翠が声をかける。


「あれ、翠ちゃん? なんで?」と、パンダでも見かけたみたいに声が裏返る。「もしかして最悪のタイミング?」


「いつも勝手に押しかけてくるくせに今さらだろ。ここはおまえのスタジオじゃないんだぞ」


 嫌味を吐く蒼也の脇を抜けてキッチンへ入ってきた悠輝はカウンターに箱を置いた。


「案件がらみのイベントがあってさ。スポンサーさんからスイーツを大量にもらっちゃってね。こんなの一人じゃ食べきれないから持ってきたんだ」


「わあ、ありがとうございます」と、翠は悠輝の開けた箱をのぞき込む。「そういえば、コンビニスイーツでコラボしたってニュース見ましたよ」


「そうそう、それの新作発表会だったんだ。来週発売なんでね、今はまだ市販されてないやつだよ」


「そんなすごいのいただいちゃっていいんですか」


「どうぞどうぞ。男二人で食べたら悲しくなるところだったから、翠ちゃんがいてくれて助かったよ」


 会話が弾んでいるところで蒼也の視線を感じた悠輝がトーンダウンする。


「でも、お邪魔だったよね。せっかく許嫁を家に呼んだのに」


「そんなことないさ」と、蒼也はぶっきらぼうにつぶやいた。「もう許嫁じゃないんだし」


「はあ? どういうこと?」と、悠輝の目が飛び出しそうなほど丸くなる。「もしかして別れ話の途中だったとか? え、嘘でしょ。止めてよ。なんで、どうして、信じられない。ありえないでしょ。冗談だよね」


 焦る悠輝の表情に、思わず二人とも吹き出す。


「え、何、どうしたのさ」


「俺たち結婚したんだよ」


 蒼也の種明かしに、悠輝は池の鯉みたいに口をパクパクさせながら二人を見る。


「はあ? なんだよ、びっくりさせないでよ、もう。息が止まるかと思ったよ。ていうか、それはそれでおめでとうだけど、急にどうしたんだよ。今まで何にもなかったのに」


「実は、おまえにも話しておかなくちゃいけない事情があってさ」


 蒼也が言葉を濁すと、悠輝は深刻さを察した表情になってエスプレッソマシンの前に立った。


「せっかくだから話を聞く前にコーヒー入れるよ。翠ちゃんもデカフェのカプチーノでいい?」


「あ、あの、実はさっきコーヒーは飲んだので」


「じゃあ、爽やか系のアイスティーでも作ろうか」


「私、やりますよ」


 手伝おうとする翠を制して悠輝が器具をそろえる。


「大丈夫。このマンションのことは僕の方が詳しいからね」


「何の自慢してんだ、おまえ」と、蒼也がにらみつける。


「おお、こわ」


 そんな仲のいい二人のやりとりを翠は微笑みながら眺めていた。


 手際よく甘い香りのアップルティーがグラスに注がれ、悠輝のお土産と共にテーブルに並べられる。


 三人はラグの上に腰を下ろして好きなスイーツを選んだ。


 エクレア、プリン、フルーツゼリー、ロールケーキにクレープと、スイーツバイキングのようで目移りしてしまう。


「実はさ」と、それぞれ選んで食べ始めたところで蒼也が祖父の容態について話を切り出した。


「幸之助さんが」と、悠輝がスプーンを持つ手を止めた。「それはまた何と言ったらいいか。僕のことも蒼也と同じように孫みたいにかわいがってくれてたからね」


「俺には厳しかったぞ」


「何言ってんだよ、おじいちゃん、甘甘だったじゃんか。子どもの頃にさ、蒼也の家に遊びに行くと、いつも萬英堂のどら焼きをくれてさ。ほら、ミサラギホテルにも入ってるだろ。初めて食べた時に僕が『すごくおいしいです』って言ったのをいつまでも覚えていて、おととしくらいにお目にかかった時にも用意してくれてたんだぜ」


「そうだったっけか」と、蒼也は照れくさそうにスイーツを口に押し込んでつぶやいた。「うまいな」


 悠輝がニヤけながら翠に耳打ちする。


「翠ちゃん、これ、蒼也の最大級の褒め言葉だから」


「そうなんですか」


「嘘情報教えるなよ」


「蒼也はね、本当においしいと思ってるときは口数少なくなるんだよ」


「そんなことないって」


 意固地な否定が逆効果だと気づいて蒼也は黙り込んだ。


 そんな様子を横目に悠輝がわざとらしく棒読みふうに言う。


「あーあ、これからは撮影にお邪魔しにくくなるなぁ」


「いいですよ」と、翠が手を振る。「今まで通りにしてください。私も撮影のお邪魔はしませんから」


「蒼也に蹴飛ばされたくないから遠慮するよ」


「DV男みたいに言うなよ」と、蒼也が眉間に皺を寄せた。


「これはそうだね。名誉のためにも訂正しなくちゃ。翠ちゃん、蒼也はそういうことはしないやつだから安心して。なにしろ、育ちがいいからね」


 翠はクスクス笑って聞いているが、蒼也は鼻に汗を浮かべている。


「だからさ、おまえが言えば言うほど嘘くさくなるだろ」


「はいはーい、黙ってスイーツ男子になりまーす」


 その宣言からは、三人で真面目なスイーツ品評会をおこない、悠輝のこだわりが詰まったカスタードエクレアが満場一致でグランプリに選ばれた。


「このエクレア、いくつでも食べられますね」


 翠の賞賛に蒼也がかぶせる。


「アップルティーが合うんだろ」


 悠輝がまた翠に顔を寄せてささやく。


「ね、意外と評論家としても信頼できるだろ」


「聞こえてるぞ」


「その感想、キャンペーン動画で使わせてもらうよ。名前は出せないから、僕からのお勧めの食べ方ってことで」


「勝手にどうぞ」と、蒼也が呆れ顔で肩をすくめる。


「あ、そういえば、夕飯どうします?」と、翠がたずねた。


「甘いもので満たされてしまったな」と、蒼也はグラスに残ったアップルティーを飲み干した。


「パスタとサラダでも作ろうか」と、提案した悠輝が頭をかく。「ていうか、僕邪魔だよね。蒼也は翠ちゃんの愛情たっぷり御飯を期待してるんだもんね。退散しようか」


「愛情って、べ、べつに、ふつうの御飯ですって」


 慌てる翠の表情を楽しんでいる悠輝に、蒼也がぶっきらぼうに言う。


「べつに、邪魔ってことはないさ」


「でも、撮影しないなら、ここには用はないからね」


「だから、専用スタジオみたいに言うなって」


 と、その時だった。


 キュルルルゥと、翠のおなかが鳴り響いた。


「え、あんなに食べたのに?」と、悠輝が朗らかに笑う。


「あ、あの、これは違います」


 蒼也も笑い出す。


「実際、夕飯何にするかな。楽しみだな」


「おっと、じゃあ、今度こそ、僕は退散するよ。蒼也との友情を壊したくないからね」


「そんな気をつかわないでくださいよ」


 翠は引き留めようとするが、蒼也をチラリと見た悠輝が荷物をまとめて立ち上がる。


「またちゃんと連絡してから来るからさ。ばいばい」


 玄関で靴を履きながら悠輝が振り返る。


「あ、翠ちゃん、また都合がついたらパーティーに来てよ。蒼也、僕一人だと居心地悪いから、これからも奥さん借りてもいいだろ。あ、なんか、この言い方もマズイか。じゃあね。おっと、お二人とも、おめでとうございます!」


 ドアが閉まると、急に部屋が静かになった。


「あいつ」と、蒼也は苦笑を浮かべた。「散々からかっていったな」


「でも、お祝いしてくれて嬉しかったですよ」


「そうだな」と、翠と向かい合って蒼也は本音をもらした。「いいやつなんだ、根は」


 落ち着きを取り戻した部屋で、二人は夕飯の準備に取りかかった。


 窓の外はすっかり暗くなって、金粉をまき散らしたような夜景が広がっていた。



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