(3-3)
◇
冷蔵庫の中を二人でのぞき込みながらメニューの相談。
顔が近いことに気づいて一瞬引きそうになるけど、翠はなんとかこらえた。
「さっき言ってた、パスタとサラダでいいか」
「あ、はい、そうですね」
蒼也の提案に合わせて翠はいくつかの材料を取り出した。
「ブロッコリーとアスパラ、それとシーフード素材がありますから、オリーブオイルとニンニクのパスタにしますよ」
「うまそうだね」
「蒼也さんはちょっと辛めが好きですよね」
「作る人の好みでいいよ。タバスコで調整できるし」
どちらかといえば翠が辛いのが苦手なのを蒼也は知っているのだ。
「でも、せっかくだから、食べてほしいのを作りますよ」
「そ、そうか……じゃあ、任せる」
「はい。期待してくださいね」
と言いつつ、実は隠し事がある。
トマト系のソースにしないのは、また『ケチャップついてる』と笑われないためだ。
「俺はサラダを作るのを手伝うよ」
「あ、そうですね。お願いします」
と、野菜室を開けたときだった。
リビングのテーブルの上で蒼也のスマホが震えた。
「おっと、電話だ。すまん」と、駆け寄った蒼也がスマホを取り上げる。「オウ、ハーイ、グッモーニン」
あれ、朝?
夕方なのに?
あ、そうか、海外の人だと、時差があるのか。
蒼也は真剣な表情で会話をしながら窓辺に歩み寄っていく。
結婚すると、パートナーの仕事のリズムにも合わせていかなくちゃならないんだろうな。
翠はサラダの材料を取り出し、一人で調理に取りかかった。
早くに亡くなった母の代わりに、翠は小学五年生くらいからカレーやラーメンなどを作っていた。
レシピ通りにやるだけで、自分では得意と思っているわけではなかったが、たいていのものは作れる。
ただ、蒼也の味の好みは正直よく分からない。
好き嫌いやアレルギーはないようだが、味付けの好みはどうだろう。
心の片隅に不安を残しつつ、翠がパスタとサラダを完成させたところで蒼也が電話を終えてカウンターに戻ってきた。
「あ、すまん」と、頭を下げる。「もうできあがってたか。一人でやらせてしまって申し訳ない。重要な話だったんで」
「心配しないでください。お仕事はお仕事ですから」
盛りつけたお皿を蒼也がじっと見つめている。
「どうかしましたか?」
「いや、見事なものだなと」
海老やイカのシーフード素材をオリーブオイルとガーリックでペペロンチーノ風に仕上げたパスタはブロッコリーとアスパラの緑が目に鮮やかだ。
スライスしたキュウリとトマトにレタスのサラダもシンプルだが、立体的な盛り付けがみずみずしさを演出している。
「ええと、その……」と、一言つぶやいた蒼也が考え込んでいる。「丁寧に切ってあるな。大変だっただろ」
「どうしたんですか。悠輝さんの配信動画にレビューでも書くんですか?」
「いや、ちゃんと言葉にして褒めろってあいつに言われたからさ」
正直な打ち明け話に翠は思わず吹き出してしまった。
「それじゃあ、かえって褒め方下手で誤解されますよ。なんか後ろめたいところでもあるんじゃないかって。感想は食べてからでいいですよ」
「まあ、そうだよな」と、蒼也が笑いながらテーブルに皿を運んでいく。
そんな彼の背中を目で追いつつ、翠はふふっと笑みをこぼしていた。
蒼也と同級生だった悠輝に紹介されたのは翠が中学生になったときだったが、その時に耳打ちされたのだ。
『翠ちゃんが実在していてよかったよ。あいつが女の子に自分から声をかけたなんて、僕、信じられなくてさ。翠ちゃんっていう二次元キャラかと思ってたんだよ』
悠輝の話では、中学の時点ですでに身長が百八十あった蒼也は、系列小中高の女子ほぼ全員から告白されていたらしいけど、あっさり断っていたらしい。
『悪いが、今やるべきことが多すぎて、余計なことは考えられないので』と。
そこは、心に決めた許嫁がいるからと主張して欲しいところだけど、蒼也なりの本音だったんだろう。
告白してきた相手の気持ちを『余計なこと』と言い切ってしまえば、相手がどんな気持ちになるかなんて、配慮せずにバッサリ断ち切ってしまった方が、むしろ引きずらなくていいという判断なのだろうが、人柄によっては恨まれるところだ。
――ホント、罪な人。
一番振り回されたのは私なんだけどね。
仕事では有能なのに、恋愛になるとなんでお膳立てとか気づかいが苦手なんだろう。
まっすぐすぎるというか、段階を飛ばすというか、簡単に言えば強引なんだろうな。
日本の大学を出てからも、アメリカに留学し、MBAを取得、ベンチャー企業の経営者となってからは仕事で忙しくて、恋愛なんてしてる暇なかったんだもんね。
小学生の頃は年下だった私の方が幼すぎたから頼もしく見えたけど、実際のところ、蒼也さんは基本的に女性の扱いに関しては不器用なのよね。
でも、それはたぶん、誠実さの証なんだろな。
それを一番分かってるのは私……って、やだ、もう、何考えてるんだろ。
一人で勝手に盛り上がっちゃって恥ずかしい。
「どうした、せっかくだから食べよう」
ラグに腰掛けた蒼也に呼ばれて翠も顔の火照りをしずめながらテーブルについた。
気がつけば、長い脚を無理矢理テーブルの下に収めていて、カニの標本みたいだ。
「あの、窮屈そうですけど、脚伸ばしてもこっちはスペースあるんで大丈夫ですよ」
「いつもこんな感じだよ」
「そうなんですか」
ふふっと蒼也が笑みを浮かべる。
「ああ、いや、悠輝にはそんな気をつかわれたことなかったなって思ってさ。俺の方が場所を貸してやってたのにね。まあ、いいや、食べよう。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
さっそくパスタを口にした蒼也に翠はたずねた。
「味、どうですか?」
「うん、おいしいよ」
「ああ、良かった」
「これからは、いっぱいうまいものが食べられるな」
頬が熱くなるのは唐辛子のせいじゃない。
「悠輝さんみたいには、レパートリーないですよ」と、翠は手で顔をあおいだ。
「あいつのはただの適当だからな」
「適当にあれだけできちゃうんですから、天才ですよ」
「うーん、悔しいけど、そうなるか」
新妻の前で他人の料理を褒めていることに気づかない蒼也のことを、翠はむしろ微笑ましく思っていた。
「ん、どうした?」
「なんでもないです」
「気になるよ」
じっと見つめられて翠は適当にはぐらかした。
「結婚して良かったなって思ったんです」
「そ、そうか」と、蒼也の耳が真っ赤に染まる。「俺も……うれしいぞ」
ごまかしたつもりが思わず蒼也の本音を引き出してまた顔が熱くなる。
翠は食べる手を止めて膝の上に置き、頭を下げた。
「これから、よろしくお願いします」
蒼也も背筋を伸ばして頭を下げる。
「こちらこそ、末永くよろしく頼むよ」
起き直って視線を合わせたとたん、二人とも吹き出してしまう。
「改まって言うと、照れくさいな」
「そうですね」
和やかに食事を終えると、蒼也はカウンターに食器を運び、洗い始めた。
「私やりますよ。ここの生活にも慣れておきたいんで」
そんな翠に蒼也は優しく微笑む。
「うまい料理をごちそうになったんだから、俺がやるって。先に風呂に入ってていいよ」
「じゃあ、用意してきますね」
風呂はきれいに掃除されていて、スイッチを入れると、着替えを用意している間にできあがっていた。
他人の家でお風呂に入るのは緊張する。
――しかも男の人の家で裸になるなんて。
考えると固まってしまいそうになるので、無理に振り払って、旅先の宿だと思うことにした。
実際、風呂場は実家より広く、入ってみると思ったよりもくつろげた。
「はーぁ」と、思わず声が漏れる。
家事全般はできるから生活することに心配はないけれど、蒼也と二人だけという点はどうしたって気になる。
いくら偽装結婚と言われたからって、やっぱり夫婦だもんね。
同じベッドで一緒に寝るんだろうし、もちろん、それだけじゃないだろうし。
いいの、覚悟はできてるの。
ただ、それがきっかけで、幻滅されてしまったらどうしようって、不安なのよね。
私って、そんな価値あるのかな。
容姿とか、体型とか、特徴なんてないのよね。
漫画だと、背景に埋もれたモブ。
嫌われたくないな。
ガッカリさせたくないな。
かといって、自分にできることなんて何にもないもんね。
翠はいつの間にかお湯の中に鼻まで沈んでいて、慌てて体を起こした。
――ま、なるようにしかならないか。
とりあえず、念入りに洗っておこうっと。
普段あまり意識しないところまでしっかりお手入れをして、風呂から出ると、ラグの上でタブレットを眺めていた蒼也が顔を上げた。
「パジャマ、かわいいな」
「えっ、あ、そ、そうですか」
思わずちゃんとボタンをはめてあるか確かめてしまう。
自宅から持ってきた着慣れたものなのに、褒められると、なんだか急に落ち着かない感じになる。
褒め方下手な蒼也がポロッとそんな感想を言うなんて、予想もしていなかったのだ。
――あまりの不意打ち、ずるくないですか?
と、ちょっと口をとがらせる翠に笑みを向けながら蒼也が続けた。
「ずいぶんご機嫌だったね」
え?
「風呂場から鼻歌みたいなの、聞こえてきたよ」
――うそ、私、歌ってた?
「フンフーンみたいな感じだったけど、かすかに聞こえたよ」
うわあ、恥ずかしい。
無意識にくつろぎすぎてたのかな。
「あ、あの、蒼也さんも、お湯が冷めないうちにどうぞ」
「まあ、追い炊きもできるから心配ないよ。ちょっと仕事で確認しておくことがあってさ、後で入るよ」
「そうですか」
「翠は明日は出勤だろ。先に寝ててくれ。俺はこれからドイツの投資家とオンラインでミーティングがあるんだ」
「さっきの電話もそうでしたけど、時差があるからですよね。遅くまで大変ですね」
「毎日こんな感じだよ。経営者にはワークライフバランスなんて人権はないんだろ」
「無理しないでくださいね」
「ああ、そうだな。ありがとう」
タブレットに視線を落としながら、蒼也が続けた。
「シーツは取り替えておいたから、ベッドを使ってくれよ。キングサイズだから、横にも寝られるよ」
「そんなに寝相悪くないですよ」
「俺は、結構寝返り打つんだよな」
へえ、それは知らなかったな。
眠ってて気づかれないからって蒼也さんの背中におでこくっつけちゃったりしてたら急に寝返り打ってそのまま寝言で愛してるなんて言いながら抱きしめられちゃったりして。
きゃー、どうしよう。
オホン。
はい、また、一人で盛り上がらない。
今度は鼻歌歌ってないよね。
イエロカードはまだ一枚のようだ。
と、再び蒼也のスマホに着信があった。
「じゃあ、悪いね」と、軽く手を振ってからスマホを取り上げる。「遠慮なく先に寝ててくれていいから」
「あ、あの……」
「ん?」と、スマホのマイクを指で塞ぐ。
「いえ、なんでもありません」
――本当に忙しいんだな。
翠は逃げるように寝室に駆け込んだ。
蒼也が言っていたとおり、キングサイズのベッドは広くていいけど、一人で眠るには寂しすぎる。
べ、べつに一緒に寝てほしいとか言ってるわけじゃないけど。
あ、そういえば、お休みのキスとかもしなかったな。
私の仕事のことを気づかって、先に寝ていいよって言ってくれたんだからありがたいんだけどね。
ついため息がこぼれる。
同じベッドで寝るどころか、キスもしない。
それって、夫婦なのかな。
やっぱり、なんかもうちょっとくらい新婚さんらしい甘い雰囲気とか……ないのかな。
倒れ込むようにベッドに横たわり、仰向けになって天井を見上げる。
――しょうがないよね。
偽装結婚なんだもん。
必要がなくなったら、お別れしなくちゃならないんだよね。
いきなり同居って言われたときは拒んだくせに、今は別れたくないなんて思っちゃってる。
へんなの、私。
悪い方への思考が止めどなくあふれてくる。
他人の家のベッドで眠るなんて、本当はありえないことなのに。
今日一日で、いろんなことがあったけど、記憶をたどろうとすると思考が停止してしまう。
体よりも、心が疲れていた翠は、そんな不安を抱えながらも、いつの間にか眠りに落ちていた。




