第3章 迎えに来た王子様(3-1)
お昼御飯を食べ終えて、午後の活動が始まろうとしていた。
伴奏の楽譜をそろえて教室に行こうとしていた翠は園長に呼び止められた。
「咲山先生、ちょっとよろしいですか」
「はい、なんでしょう」
「実は、お客様がいらっしゃっててね。来てくれるかしら」
元々物腰柔らかで、教員や保護者たちから陰で『マダム』と呼ばれている園長が妙におどおどしている。
「私にですか?」
「ええ、いいから、ちょっと」と、こっそり手招きする。
「はあ、そうですか」
園長について職員室へ向かった翠はエントランスを通り過ぎようとして足を止めた。
表に、新興住宅地の幼稚園ではまず見かけない黒塗りの大型セダンが横付けされていたのだ。
中央のピラー部分にミサラギグループのシンボルが輝いている。
――え、まさか。
呆然と立ち止まっていると、応接室から幼稚園の低い天井を気にして身をかがめながらスーツ姿の男がのっそりと姿を現した。
「やあ、突然訪ねてきてすまない」
「蒼也さん、どうして?」
「実は……」
と、そこへ園児たちが駆け寄ってきた。
「ミドリセンセー、おうたまだぁ」と、ハルトくん。
「ごめんね、お客さんなの」
「おまえはだれだ」と、遠慮なく蒼也を指さすコーキくん。
「おなまえなんていうの?」と、なぜか鼻に指を入れて聞くミウちゃん。
「しゅごーいイケメン」と、両手を伸ばすヒナちゃん。
「わたちとケッコンして」と、いきなりプロポーズのリノちゃん。
「じゃあ、わたしも」と、横から蒼也の脚に絡みつくユウナちゃん。
「オレのほうがつよーい!」と、ヒロキくんは謎のアピール。
収集つかなくなりそうなところを、羊飼いのように園長先生がみんなを引き離す。
「はいはい、みなさん、ミドリ先生はちょっと用事があるから、園長先生とお歌を歌いましょうね」
目線を交わしあって園長に子どもたちを託した翠は蒼也に詰め寄った。
「こんなところに、どうしたんですか」
「いきなりで悪いが、急ぎだったんだ。昼休みにスマホにメッセージを入れておいたんだが、既読がつかなかっただろ」
――え?
エプロンのポケットからスマホを取り出すと、たしかにメッセージが入っていた。
「ごめんなさい。いそがしくて見てませんでした」
「いや、いいんだ」
実際、昼休みなんて全然休めないし、勤務中は一分たりとも余裕などない。
なのに蒼也が外の車を指す。
「実は、これから一緒に来て欲しいんだ」
「無理ですよ」
「園長先生には話をしてある」
強引に背中に手を回す蒼也に翠は抵抗した。
「どこへ行くんですか。えっと荷物、それより、着替えもしないと」
「そのままでいい」
「良くないです。支度するんで三分待ってください」
――もう、なんなのよ。
仕事場に押しかけてきて、園長に何を言ったか知らないけど、早退させてまで連れ出そうなんて、どういうつもりなのよ。
許嫁なんて名ばかりでデートにだって誘ってくれたことないくせに。
そもそも、私がミサラギグループの御曹司と関係があるなんて、園児の保護者に知られたら面倒なことになるんだけどね。
だからこそ、園長は穏便に事を運ぼうとしてくれたんだろうけど、あんな目立つ車で来てたら、意味ないじゃないのよ。
支度を済ませて戻ってくると、蒼也はいきなり手を引いて翠を車へと押し込んだ。
――まるで誘拐じゃないのよ。
蒼也が乗り込むとすぐに運転手が後輪を沈ませながら黒塗りセダンを発進させた。
どこへ行くのか訪ねようとしたら、蒼也が口にハンカチを押しつけてきた。
「翠」
まさか、拉致監禁?
「ケチャップついてる」
え、うそ!?
うわあ、危ないところだった。
また園児たちに笑われるところだった。
って、車はすでに幼稚園から遠く離れ、高速道路に乗って、都心へ向かっている。
「どこに行くんですか?」
「病院だ」
仕事の邪魔までして連れ出しておいて、一言だけの返事はあんまりじゃないかと、蒼也の横顔を見ると、言葉を継げないほど深刻に思い悩んでいるようだった。
「どうしたんですか?」
「実は、祖父なんだが……」と、蒼也は深くため息をついた。「食道癌が見つかってね。あと数ヶ月、長くて半年かそこらだそうだ」
「えっ?」
――余命半年?
お正月にご挨拶したときは全然お元気そうだったのに。
「治療方法はないんですか」
「もともと五年前に左脚の腫瘍を摘出してるだろ。経過観察をして一度は寛解と言われていたんだが、たまたま先日、心房細動が出て精密検査をした時に見つかったんだ。すでに肺とリンパへの転移も確認されているし、年齢も年齢だけに、手術はかえって危険だろうというのが医者の見解だ。なにより、本人が、あらがうことなく、受け入れたいと言っているんでね」
祖父の幸之助は九十歳だ。
二十年前に初めてお目にかかったときは経営の最前線にいたが、その後まもなく息子、つまり蒼也の父にあらゆる権限を譲って引退し、悠々自適の隠居生活を送っていた。
五年前の手術で自力での歩行が難しくなり、車椅子に頼る生活になっていたものの、日課として自宅の庭に出たりして、老け込まないようにしていたのだった。
それでもいつかそういう時は来るものなのだ。
翠は変えようのない運命の重さに胸が締めつけられ、言葉が出なかった。
隣のシートに埋もれるながら蒼也が額に手を当てて首を振っている。
「人は歳を取るし、いつかその時が来るのは仕方がない。それはその通りなんだが、なぜ、今なんだよ」
「蒼也さん」
「もっと……生きていてほしいし、もっといろんなことをしてほしいし、俺もいろんなことをしてあげたかったのに。なんでなんだよ……」
ぎゅっとつむった目から涙がこぼれ落ちる。
蒼也は自分でハンカチを取り出し、涙を拭いた。
「いや、みっともないところを見せてしまった。すまない」
「いえ、そんなことは」
「厳しい祖父だったが、いざ、こうして重い現実を突きつけられるとなんともやりきれなくてね。人の定めとはいえ、なぜ、どうしてと、理不尽さに打ちのめされてしまって」
嘆く蒼也に何かしてやりたいとは思うものの、翠は自分の膝の上で手をぎゅっと握っているしかなかった。
大型セダンとはいえ、並んで座る二人の間にそれほどのスペースはないのに距離が遠い。
「創薬ベンチャーとしてうちの会社も癌治療の新薬を開発しているんだが、必ずしもうまくいくことばかりではない。そんなのはこの業界では当たり前のことなのに、もっといい薬があれば、もっと手軽で確実な検査薬があれば……と、今さら何を言っても手遅れなのが悔しくてさ」
「うちの父も、母が亡くなった時に無力だって泣いていました」
翠はようやく一言つぶやけた。
父は国立大学で薬学を研究している学者だが、若くして亡くなった翠の母のことを今でも忘れずにいて、毎日仏壇の前で何かを語りかけるように手を合わせるのが日課だ。
翠は、蒼也の横顔に向かって語りかけた。
「でも、それでも前を向いて一つ一つ成功と失敗を重ねて成果を上げていくしかないんだって言っていました」
「そうなんだよな。今までに生み出された薬だって、何百もの失敗があったから正解が見つかったんだ。前を向いて新しい薬を生み出していかなくちゃならないんだよな」
自分自身に言い聞かせるようにそう言うと、蒼也はしばらくの間黙り込んでいた。
車は都心部に入り、高速道路を下りた。
高層ビル群を抜け、緑濃い公園沿いをしばらく進んだところで都心とは思えないお屋敷街に入り、巨大なマンションのような建物へと近づいていく。
「あれが病院だ」と、蒼也がシートから体を起こして翠と向き合った。「こんなことを頼むのは失礼なことだとは分かった上で頼むんだが、すまないけど俺と偽装結婚してくれないか」
「おじいさまを安心させるためにですか」
「ああ、申し訳ない」と、蒼也は深く頭を下げた。
「わかりました」
「恩に着る」と、蒼也が翠の手に自分の手を重ねる。「あくまでもお芝居だから」
「あ、はい。ですよね」
ため息をつく翠に気づく様子もなく、蒼也がまくし立てる。
「幼稚園の学芸会みたいな感じでさ、『お姫様と王子様は結ばれ、末永く幸せに暮らしましたとさ』みたいなラストシーンだけでいいんだ。眠っているお姫様に王子様がキスする場面とか、そういうのはいいから。ほら、幼稚園でも、そういう場面はぼかすだろ」
「まあ、そうですね」
「こういう頼み方が間違っているのは、重々承知しているんだ。本当にすまない」
「いえ、私もおじいさまにはお世話になりましたから」
「あの人のことだから、俺たちの芝居なんてお見通しだろうけどな」
そして、自分を納得させるように蒼也はつぶやいた。
「それでもいい。形だけでも安心させてやりたいんだ」
車寄せに到着して降りると、蒼也は早足でエントランスホールに入り、ちょうど開いたエレベーターに真っ直ぐ向かっていく。
身長差も二十五センチあるが、脚の長さが三倍あるのかというくらい速く、翠はほぼ全速力の勢いだった。
ぎりぎりエレベーターに滑り込んだところで、弾む息をおさえながら翠は聞いた。
「あ、あの、蒼也さん」
「ん、どうした?」
「本当に、私でいいんですか?」
最上階のボタンを押し、扉が閉まったところで蒼也が首をかしげた。
「どういうことだ?」
「ですから、結婚相手が私って、蒼也さんはそれでいいんですか?」
「何を言ってるんだ。だって、俺たちは許嫁だろ」
蒼也の目は真剣だ。
「でも、形ばかりというか、そんなの幼い頃の話じゃないですか」
「翠は嫌なのか?」と、食いぎみに言ってから蒼也は頭をかいた。「いや、こんな言い方をしてすまない。そうだよな。いきなりこんなことを頼まれたら困惑するだろうし、俺の都合で人生の大事なことを勝手に決められたらいい気分はしないよな」
「あ、あの、違います。そういうんじゃなくて」
と、エレベーターが到着して扉が開く。
廊下には人の気配はなく、静まりかえっている。
すぐそばにある個室の扉の前でいったん立ち止まると、蒼也がきっちりと腰を曲げて頭を下げた。
「とにかく、演技だから。頼む」
「はい」
ノックしてドアを開けると、中はちょっとしたマンションのリビングのような広さだった。
トイレもバスルームも備わっている。
窓際のベッドは少しばかり角度を上げてあり、幸之助がこちらを向いていた。
「おう、翠さんか。よく来てくれたね」
ややかすれ声だが、顔色も良く、事情を知らなければただの昼寝から起きたところかと思うだろう。
翠は何と声をかけるべきか一瞬ためらってしまった。
そんな表情を見て取ったのか、幸之助の方から切り出した。
「もう聞いてるだろうが、食道癌でね。まあ、気をつかわんでもいいよ。なんというか、むしろホッとしとるんだな。突然逝くより前もって言われていた方が覚悟もできるよ。なにしろもう九十まで生きたからね」
笑おうとするとむせてしまうようで、サイドテーブルに置かれたコップの水を自分でとって喉を潤した。
「実は」と、蒼也が枕元に歩み寄る。「今日は翠との結婚を報告に来たんだ」
「ほう、翠さんと、ようやくか」
好々爺然とした笑みを浮かべながらうんうんとうなずいた幸之助がぽつりとつぶやいた。
「わしは結婚式には出席できんだろうから、ここで誓いのキスだけでも交わしてくれんかな」
――はあ?
「キ、キスですか」と、翠はあからさまにたじろいでしまった。
「夫婦じゃからのう。遠慮はいらんて」
幸之助はスイス人の女性と結婚したため、西洋風な習慣に慣れている。
だから、キスは日常の挨拶みたいな感覚なのだろう。
蒼也が翠の腕をつかんで引き寄せた。
――ちょ、え。
向かい合って耳元でささやく。
「演技だ」
幸之助に聞かれないように翠も耳に向けてささやき返した。
「だって、そこはぼかすんじゃないんですか」
「演技だから。軽く、振りだけでいいんだ。カウントしなくていいから」
カウント?
ああ、なかったことにしろってことですか。
まあ、そうなんでしょうね。
すうっと心の奥が冷えていくのを感じる。
――なんか、馬鹿みたい。
演技なのに私一人だけ熱くなったり焦っちゃったり。
力の抜けた翠の背中に手を回し、首をかしげるように上体をかがめながら蒼也がまっすぐな目で見つめる。
「翠」
緑がかった茶色の瞳が迫ってくる。
「初めて会ったあの日から、ずっとこの時を夢見てきたよ」
はあ。
ずいぶん、手の込んだお芝居ですこと。
そんな導入部から始めなくてもいいんじゃないですか。
どうせ形ばかりなんだし。
「ずっと愛していたよ、翠。これからも愛してるよ」
翠が目を閉じると、蒼也の唇がそっと重なった。
出会った時から二十年。
生まれて初めて交わしたキスだった。
――あれ?
ちょっと、どうしたんですか。
軽く振りだけのはずだったのに、蒼也は唇を離さない。
離すどころか、むしろ背中に回した手に力がこもっているような……。
演技なのに心臓が止まりそう。
あ、あの、いつまでやってるんですか。
肺活量競争みたいじゃないですか。
本当に演技なんですか?
そんなに人前でじっくりお見せするようなものでもないと思うんですけど。
ツッコミに疲れ、お芝居にしては情熱的なキスに気が遠くなりかけた時、ようやく蒼也が顔を離した。
翠が目を開けると、あれほどまっすぐに見つめていた蒼也が目を泳がせていた。
「演技ですよね」
翠が抗議すると、蒼也の顔が真っ赤に茹で上がる。
「も、もちろん」
キスは上手だけど、役者としては大根ですよ。
二人並んでベッドを向くと、幸之助は目を閉じて静かに胸を上下させていた。
「じいさん、寝てる」と、蒼也が笑みをこぼす。
はあ。
今の結局、何だったんですか。
口をとがらせる翠に蒼也が顔を寄せてささやいた。
「損したとか言うなよ」
「言いませんよ」
――ていうか、そっちは損したと思ってるんですか。
ちょうどそこへ看護師さんが入ってきたので、二人は退出した。
エレベーターに乗り込んで蒼也はボタンを押し、翠は奥の壁際に立った。
振り向いた蒼也が前髪をかき上げながら笑みを浮かべた。
「協力してくれてどうもありがとう。すこしでも安心してもらいたかったんだ」
「お役に立てて何よりです」
「それでだな」と、蒼也が口ごもる。
「どうかしましたか?」
見上げる翠から視線をそらして蒼也がつぶやく。
「咲山先生にはいつご挨拶に行ったらいいだろうか」
「うちの父に……って、何のですか?」
「結婚のご報告に決まっているだろう」
「何言ってるんですか。演技ですよね?」
「それはそうなんだが、祖父が生きている間は演技を続けなくちゃならないだろ」
「まあそうですけど」
「だから、翠も俺のマンションに来るわけだし、当然、先生にもご了承をいただかないと」
「ちょ、え、蒼也さんのマンションに?」
動揺して言葉が途切れたところで、エレベーターが一階に到着した。
患者さんや付き添いの人々で混雑するロビーを抜けて表に出る。
車寄せには介護施設の患者さんを乗せてきた車が連なっていたので、蒼也は駐車場に向かって歩いていく。
また三倍速いその背中を追ってみどりは駆け足で追いかけた。
「蒼也さん!」
「ん?」
「あの、同居は困ります」
息の荒い翠に、蒼也は涼しい顔で答えた。
「だけど、いつかは正式に結婚するわけだろ。予行練習みたいなものだと思えばいいさ」
「仕事もあるし、心の準備とかも」
「幼稚園にはうちの運転手に送迎させるよ。準備は当分の間の着替えくらいでいいさ」
「あの、そういうわけには」
と、駐車場の入り口で運転手さんが待っていた。
「お車はこちらです」
「ありがとう。そうだ……」と、蒼也が急に振り向く。「理化学大学はこの近くだったよな。今から会いに行ってみよう」
――はあ?
「今からって、そんな」
運転手さんが開けたドアに押し込まれ、今度こそ本当に拉致監禁されながら翠は父の勤める理化学大学へと連れていかれた。
病院から大学までは車で十五分ほどで到着した。
父は研究室にいて、蒼也が報告するとあっさり受け入れていた。
「それは良かったね。おめでとう」
(良くないでしょ。キサマのような男に娘はやらんとか、なんとか言ってやってよ)
必死に鋭い目で合図を送っても、娘の視線など気づかぬ父はのんきにインスタントコーヒーを勧める。
「悪い虫がつくより、蒼也君なら安心だからね。虫は虫でも蒼也君はヘラクレスオオカブト……いや、ミヤマクワガタかな。ハハハ」
――何言ってんの、お父さん。
呆れる翠の横で、蒼也はぽりぽりと頭をかいている。
「いやあ、まだまだそんな立派な者じゃありませんよ、お父さん。精進します」
――はあ?
蒼也さんまで、この二人、どうなってんの?
案外お似合いなのかな。
それはそれでいいけど……ううん、全然良くないし。
インスタントコーヒーを味わいながら蒼也が話を進める。
「それでですね、正式な式や手続きはまだですが、私のマンションで同居を始めたいと思うのですが」
「ああ、そうですか」と、父は世間話に相槌を打つみたいに微笑むだけだ。「ご迷惑をおかけしないといいんだが、よろしくお願いしますよ」
ちょっと、迷惑って何よ。
こっちが迷惑してるんだけど。
「早くに妻を亡くして、男手一つってやつで育ててきましたから、何もしてやれなかったんだが、まっとうな大人にはなってくれたと思ってますよ」
しみじみと語る父に、蒼也もまたしみじみとうなずいている。
――勝手に二人の世界に入っちゃって。
抵抗する気も失せて、翠は冷めた苦いコーヒーを一息に飲み干した。
大学を出て車は蒼也のマンションに向かう。
「先に家に帰って着替えをとってきてもいいですか」
「泊まっていくのか?」
「だって、そう言ってたじゃないですか」
「今夜からとは思っていなかったけど、翠がそのつもりなら、俺は全然構わないぞ」
え?
はあ……。
あれ、話が違う……っていうか、あれ?
父に挨拶する理由が同居するからだったんだよね。
あっ!
でも、確かに、『今夜から』とは言ってなかった。
「翠」
「はい」
「急だったけど、受け入れてくれて、俺はうれしいよ」
受け入れてないですけど。
全然、まったく、ちっとも。
蒼也の指示で車は来た道を戻り、幼稚園に近い翠の自宅へとやって来た。
「俺は少し仕事の連絡をしなくてはならないから、車の中で待ってる」
蒼也に送り出されて家に入ったところで蹴飛ばすように靴を脱ぎ捨て翠はため息をついた。
――はあ。
なんでこんなことになっちゃったんだろ。
べつに嫌じゃないのよ。
むしろ、ずっと夢見てた。
こんな日が来るのを待っていたの。
王子様が迎えに来ました。
二人は末永く幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
うん、それでいいの。
だけど、今じゃないよね。
アハハ、これがマリッジブルーってやつか。
笑えないですけど。
ジェットコースターのような感情の起伏に酔ってしまいそうで、翠は考えるのを無理矢理止めて支度をした。
泥棒みたいに乱暴に衣装ケースを引き出し、洗面用具や当座の着替えをスーツケースに詰めるだけ詰めてドシンと蓋の上に腰を下ろす。
――あっ!
ちゃんとした下着あったっけ?
クタクタなのとか、シミの落ちないやつとか、もったいなくてなかなか捨てられなかったんだよね。
もう一度蓋を開け直して、中をチェックする。
……だめだ、こりゃ。
お見せできるような代物ではございませんよ。
だってしょうがないじゃない……と、ついとがってしまう唇を引っ込める。
事前に言われてたら、ちゃんと準備してましたよ。
買いに行く暇あるかな?
蒼也さんのことだから、ついてくるなんて言うかもな。
『どうせ買うなら、俺が選んでやるよ』
『あなた色に染めて欲しいの』
なんちゃって、アハハ。
その瞬間、霜が降りたみたいに頭の奥が冷え込む。
ばっかじゃないの、私、何言ってんの。
うれしさ半分、戸惑い半分、不安半分。
足したらあふれちゃう……って浮かれて算数もできなくなってるし。
――でもなあ。
結婚って、どんな感じなんだろう。
翠はほとんど母親の記憶がない。
父と母がどんな恋愛をして結ばれたのか、そんな話をまったく聞いたことがなかった。
夫婦として生活することがどんなものか、モデルになる姿を知らないのだ。
いいや、もう、なるようになれ!
いつまでも路上に車を待たせるわけにもいかないので、翠はスーツケースを引きずって実家を後にした。




