(6-3)
◇
シャワーを出た蒼也は、スマホにたまっているメッセージをチェックした。
――ん?
財務責任者からSNSの画面が転送されてきた。
須垣と蒼也がパーティーで話している写真が問題視されているというのだ。
あの時はただ挨拶をしただけで、業務に関する話はしていない。
今回の騒動に便乗して、あたかも情報が流出していたように見せかけるため、意図的に流されたらしい。
この画像にはすでに百を超えるコメントがついていた。
《インサイダー確定?》
《ヤバいだろ》
《これは決定的》
《通報案件》
《炎上確定》
脇が甘かったと言われればその通りだが、明らかに反社会的立場の人物でない限り名刺交換くらいはするし、写真を断ることもできない。
ただそれを悪用されたら誤解を鎮めるのは不可能に近い。
株式市場の取引開始まで三十分。
今日も波乱の一日になりそうだ。
蒼也はスーツをクリーニングサービスの袋に入れて玄関先に出し、新しいスーツに着替えるとオフィスへ向かった。
◇
幼稚園の昼休み、翠のスマホに知らない番号から着信があった。
迷惑電話だろうと、一度は無視していたら、画像が送られてきた。
――何これ?
一つの傘に収まった蒼也とレイナがタクシーに乗り込む姿を捉えた写真だ。
また同じ番号から着信がある。
翠は画面をタップした。
「写真が気になるだろ」
名乗っていないのに、直感的に相手が分かった。
「須垣さんですか?」
「勘がいいな」
「どうして私の連絡先を?」
「情報は力だろ」
答えになっていない返事に苛立つ。
「ご用件は?」と、自分でもびっくりするくらい棘のある声が出た。
「あんたの旦那が大変なことになってるのは知ってるか?」
夜遅くまで会議をしていたことは知っているが、詳細は聞かされていない。
返事を躊躇していると、見透かしたような笑い声が追い打ちをかけてくる。
「旦那の会社の株価が大暴落してる」
「そんな」
「旦那の会社を潰さないために、俺が助けてやってもいいぞ」
相手の意図がつかめず黙っていると、須垣の下卑た声が聞こえてきた。
「その代わり、もちろんあんたには俺の言うとおりにしてもらうけどな」
「何をすればいいんですか?」
「決まってんだろ。あんたの旦那への愛を試させてもらう」と、須垣は鼻で笑って続けた。「バレやしないよ。俺だってヤバイってことは分かってるんだ。わざわざ旦那に告げ口するわけないだろ。ちょっとだけ目をつむっていればいいんだ。何もなかったことにすればいい。それですべて円満解決。約束は守るよ。この世はフェアなトレードで成り立っているからな」
「話すことはありません。切ります」
通話を切った途端、別の画像が送られてくる。
ミサラギホテルのカードに蒼也あてのメッセージが書かれた写真。
《蒼也へ 久し振りに愛し合わない? 部屋で待ってる》
流麗な筆記体で《Reina》のサインも記されている。
これは……。
心臓がざわつき、思わず胸を押さえる。
須垣からまた電話がかかってくる。
出ざるを得ないように仕向けて、こちらの反応を楽しんでいるのだ。
翠は動揺を悟られないように努めて冷静に電話に出た。
「無理に落ち着いたふりなんかしなくていいぞ」
「イラつかせて駆け引きを楽しんでいるんでしょうけど、そうはいきませんよ」
取り繕ってみたところでお見通しなのは、こちらも承知の上だが、どちらにしろ向こうのペースにはめられてしまうのが悔しい。
「写真を見ただろ。旦那だって楽しんでるんだ。あんたも一人の男だけじゃつまらないだろ」
「どうしてこんな写真をあなたが持っているんですか?」
「言っただろ、情報は力だって」
黙っていると、須垣が声を抑え気味に語りかけてきた。
「どう受け止めるかは、あんた次第だな」
蒼也の会社がトラブルに巻き込まれているとしても、部外者の翠にできることなど何もないはずだ。
ただ、それが須垣の仕掛けたことだとしたら、ここで断ればまずいことになるのだろうか。
判断できずに無言の時間が過ぎていく。
「迷ってる暇はないぞ。今この瞬間も下落している。いつでも連絡を待ってるよ」
高慢な笑い声とともに電話が切られた。
スマホでミサラギメディカルを検索すると、真っ赤な株価が表示された。
関連表示で荒れたSNSも流れてくる。
――どうしたらいいの?
蒼也に連絡を取ってみようとしたが、そもそも、須垣の言っていることが本当なのかも分からない。
助けてやるというのは、株を買い支えるということなのか、それに、個人でそんなことができるのか、翠にはまったく見当もつかなかった。
「センセー、どうしたの?」と、ヒロキくんとルナちゃんが脚に飛びついてくる。
「あ、ううん、なんでもないよ」
慌ててスマホを片づけると、ヒロキくんが首をかしげる。
「トム・ソーヤとはなしてたの?」
「ち、違うよ」
「トム・ソーヤってなあに?」と、今度はルナちゃんが首をかしげる。
「こうえんのおじさん!」
あらら、やっぱりおじさんかぁ。
蒼也さん、あの時、本気で不機嫌だったな。
「センセー、おうたのじかんでしょ」
子どもはすぐに興味が移る。
今は、そういう切り替えがありがたい。
「そうだね、お教室に行こうか」
「オレね、こえでっかい!」
「元気いっぱい歌ってね」
子どもたちに手を引っ張られているうちに、翠は先生の顔に戻っていた。
午後の仕事に追われている間は、不穏な電話の内容は風のように吹き去っていた。
夕方、家に戻ってきたときだった。
クリーニングが返ってきていた。
蒼也が朝のうちに出しておいたものだろう。
翠はそれを部屋に持ち込んで、クローゼットにしまうためにビニール袋から取り出した。
ふと見ると、ポケットの内容物が小袋に入れてハンガーに引っかけてあった。
――これって……。
どうして?
いくら疎いといっても、さすがにそういうものだとは分かる。
薄く四角いコンドームのパッケージだ。
持ってないって言ってたのに……。
どうしてそれがスーツのポケットに?
昼間須垣に見せられた写真が頭をよぎる。
まさか、レイナさんと!?
そういう関係じゃないって言ってたけど、やっぱり嘘だったの?
――旦那だって楽しんでるんだ。
沼に引きずり込む魔物の手のように、須垣の声がわいてくる。
疑いたくはない。
だけど、何が本当なのか分からない。
それに、本当のことを知ったからといって、それが解決なのかすらも分からない。
何も知らない方が良かったの?
ウブで無知な翠でいれば良かったの?
関係のない部外者で居続けろというの?
ここから先は入ってこなくていい。
オマエニハカンケイガナイ。
思考が渦を巻き、胸が押しつぶされる。
――信じたいのに。
支えたいのに。
気がつけば荒い呼吸を繰り返し、目眩に襲われていた。
思わずしゃがみ込んで息を整える。
静かな部屋に一人。
心臓の音が反響し、潰れそうな心をさらに追い立てる。
ぎゅっと目をつむっているのに涙が滲み出してくる。
こんなところにいてはいけない。
翠は鞄をつかんでマンションを飛び出していた。




