(6-2)
◇
仕事から帰ってきた翠は《会議で出社する。夕飯は食べていてくれ。俺の分はいらない》との書き置きを見て、ため息をついていた。
――せっかくお惣菜を買ってきたのに。
話題の海鮮春巻きを食べてほしかったんだけどな。
ま、お仕事じゃ、しょうがないもんね。
一人で食事を済ませ、風呂から出ると、蒼也からメッセージが入っていた。
《まだ終わりそうにないから先に寝ていてくれ》
もう十時過ぎだった。
そんなに遅くなるなんて。
経営者が一般の社員とは働き方が違うことは頭では理解していても、やはりこういうことがあると、健康を心配してしまう。
心が安まる時もないのではないだろうか。
だからこそ、支えてあげたいし、責任をまっとうする姿を応援したいとも思う。
ただ、正直なところ、ちゃんと休んでほしいし、早く帰ってきてほしい。
もしも、求められるなら、受け入れてあげたいし。
――私はいつでもいいですよ、蒼也さん。
昨夜のことを思い出して体が熱くなる。
広いリビングで一人、首がちぎれそうなほどぶんぶんと振って頭から妄想を弾き出す。
日付が変わるくらいまでは待っていようと、翠は幼稚園から持ち帰ってきた材料をテーブルの上に広げると、九月から使う秋をモチーフにした折り紙やちぎり絵を作り始めた。
お月見のお団子にススキ、紅葉、きのこ、赤トンボに蓑虫……。
しかし、昨夜は蒼也に寝させてもらえなかったせいで、さすがに眠気が襲ってきた。
赤い紙をちぎっているうちに、いつしか翠は眠りに落ちていた。
◇
目を覚ますと、ベッドの上だった。
――あれ?
私、蒼也さんを待ちながら工作の途中で……。
ガバッと飛び起き、隣を見ても蒼也はいない。
まさか、帰ってないとか?
でも、私、自分でここまで来たの?
ベッドを降りてリビングへ行くと、ソファで蒼也が眠っていた。
スーツのままだ。
――ちょ、えっ。
また、そんな格好で。
起こそうと歩み寄った足が止まる。
テーブルの上に紅葉のちぎり絵ができあがっていた。
もしかして、眠っている間に作ってくれてたの?
童話に出てくる小人さんのお手伝いじゃないんだから。
「ありがとう。大きな小人さん」
お礼をつぶやくと、蒼也が薄く目を開けた。
「ん、朝か?」
「おはようございます」と、翠は自分から口づけた。
「お姫様のキスで目覚める朝は最高だな」と、抱き寄せられて、蒼也の上に倒れかかる。
「翠……」
爽やかな朝のキスが濃厚に重ねられていく。
「ちょ、ちょっと、蒼也さん」
「ベッドに行くか?」
「そういうことじゃありません」
翠は蒼也を抱き起こすようにラグの上に腰を下ろし、正座した。
「昨日の夜はどうしたんですか?」
「ん、ああ」と、はぐらかしながら髪を大きくかき上げる。「取締役会が長引いてね。悪いが今夜も遅くなるかもしれない」
「会社で何かあったんですか?」
「いや、なんでもないよ」と、うっすら伸びた髭をさする。「心配しないでくれ」
「でも……」
「外部の人間に話せない機密事項もあるからさ」
――あっ。
そうですよね。
経営者ともなると、一般社員にすら口外できないこともあるだろう。
まして、妻は会社の人間ですらないのだ。
疎外感に押しつぶされて翠の心はしぼんでしまった。
唇をとがらせうつむく妻の肩に夫が手を置く。
「すまない。仕事の心配事は家庭に持ち込まないようにしたいんだけどな」
翠は顔を上げて蒼也を見つめた。
「いえ、いいんです。ただ、私も妻ですから、夫のサポートをしたいんです。あくまでも家庭でできることですけど」
「すごくうれしいよ。ありがとう」と、蒼也の微笑みが迫ってくる。「じゃあ、またキスさせて」
蒼也の情熱的なキスに不安が押し流されていく。
「でもさ」と、唇を離した蒼也がささやく。「昨日も帰ってきてパジャマ姿の翠を見たらホッとしたよ。あんなかわいくて無防備な姿、俺以外に見せるなよ」
――無防備って。
蒼也さんにだって見せたくないですけど、もう。
「そういえば、私をベッドまで運んでくれたんですか。全然気がつかなかったです」
「相当疲れてたんだろ」と、意味ありげに蒼也が口元を押さえる。「昨日は朝までほとんど寝てなかったもんな」
え、あっ……。
誰のせいですか、もう。
頬を赤らめる妻を夫がのぞき込む。
「ベッドに運んだとき、俺に抱きついたのは覚えてる?」
「だ、抱きついたんですか、私?」
「なんだよ、俺の名前を呼びながら唇を突き出してきたくせに」
「う、うそ、そんなことしてません……よね」
「妻に誘われたら、俺も男だから我慢できなくてさ」
ま、まさか……。
「な、何したんですか?」
その質問を待っていたかのように、蒼也がニヤける。
「お休みのキスに決まってるだろ」
あ、キス……。
「違うこと想像してた?」
「してません!」
「俺のことケダモノと思ってるかもしれないけど、さすがにそれはないよ」
「それって何ですか、それって」
反撃だ。
「いや、まあ、ほら、おぼえてるだろ。愛し合った俺たちがしたこと。なんなら、今から再現しようか」
「しません!」
ああ、もう、言わせなきゃ良かった。
照れくささに視線をそらしながら翠は無理矢理話を変えた。
「工作やってくれたんですか?」と、紅葉のちぎり絵を指す。
「ああ、さすがに一つだけだったけどな。こんなんで良かったか?」
「めちゃくちゃ上手じゃないですか」
「先生に褒められたのは何年ぶりかな」
と、蒼也がラグの上に落ちていた折り紙を手に取った。
「こんなの作ってたんだな」
テーブルの縁にひょっこり顔を出したのは、花婿の折り紙だった。
「あ、それは……」
昨夜蒼也のことを考えながら、つい折ってしまったのだ。
突っ伏して寝ている間にテーブルから落ちてしまったらしい。
「花嫁もいるんだな」
白いドレスの花嫁が隣に顔を出す。
「パパパパーン、パパパパーン」と、おどけながら蒼也がメンデルスゾーンの結婚行進曲を口ずさむ。「新郎新婦の入場です」
いきなりペープサート?
一歩一歩近づいていく人形に目が引き寄せられる。
音楽が終わったところで、蒼也が人形にキスをさせた。
見ていた翠の耳が熱くなる。
「なんか、見てるだけでむずむずしちゃいますよ」
「俺たちもする?」と、蒼也がじっと見つめてくる。
鼓動が二倍速で跳ね上がる。
「そ、それより、朝ご飯急がないと」と、翠ははぐらかした。
――ああ、もう。
ちゃんと聞かれたら照れちゃうでしょ。
不意打ちだったら受け止めてたのに。
キッチンに逃げた翠を追って蒼也が声をかけた。
「それなんだけどさ」と、冷蔵庫を開ける。「パンを買っておいたよ。デニッシュ系と少し温めるとおいしい惣菜系」
「わあ、おいしそうですね」
「会議が長引いて夜食をデリバリーで頼んだんだ。そこの店、パンも扱っててさ。ついでみたいで悪いけど」
「うれしいですよ」と、翠は思わず吹き出してしまった。「釣った魚に餌をやらないはずなのに」
「ああ、悠輝の話か」と、蒼也も笑う。「あいつもたまには間違えるのさ」
早速翠はオーブントースターにチーズたっぷりのピザトーストを入れた。
じっと中をのぞき込む翠に蒼也が微笑みかける。
「飲み物はオレンジジュースでいい?」
「はい、お願いします」
テーブルの上に、カスタードクリームにフルーツを乗せたデニッシュと温めた惣菜パンを並べる。
「朝から豪華ですね」
「喜んでもらえて何よりだよ」
さっきまで疲労の抜けない顔をしていた蒼也の表情が緩んでいる。
「じゃあ、いただきます」と、翠も朗らかな声を上げた。
すると、蒼也がピザトーストをちぎって突き出す。
「ほら、あーんして」
「子どもじゃないです」
「いいから、ほら。チーズが垂れるよ」
ああ、もう。
パクッと口に入れたとたん、緊張して喉に詰まりそうになる。
ん、ぐぐっ。
「おいおい、ほら、ジュース」
「は、はい」
「子どもじゃないんだろ」
「急いでるんですよ。朝からペープサートごっこなんかしてたから」
「ごめんごめん」と、謝った蒼也が真顔で見つめる。「翠……」
――え?
と、いきなり頬にキスしてくる。
ちょ、え!?
「トマトソースついてる」
やだ、またついてた?
「翠はいつも翠だな」
「もう、馬鹿にして」
頬を膨らませて口をとがらせる翠に、蒼也は人差し指を押しつけてきた。
「かわいいって言ってるんだよ」
わざと拗ねたふりをしつつ朝食を終えて翠は支度を済ませた。
「ちぎり絵、忘れるなよ」
「あ、そうでした」
危ない、危ない。
センセー忘れん坊って、笑われちゃうところだった。
スーツを脱ぎながら頬にキスして蒼也が背中を押す。
「俺はシャワーを浴びてくるから、行ってらっしゃい」
翠は立ち止まってカウンターに置かれたスーツに手を伸ばした。
「ハンガーにかけておきましょうか」
「いや、クリーニングに出すつもりだったんだ。そのままでいいよ」
「あ、そうなんですね。じゃあ、行ってきます」
八月下旬の街は朝から入道雲が湧き上がり、部屋を出たとたん汗ばんでしまう。
ハンカチを取り出し、たたくように額に当てると、気合いが入る。
さて、今日も一日頑張ろうっと。




