(4-8)
◇
翠がコロッケの下準備をしている間、蒼也はサラダと味噌汁を作っていた。
「料理上手ですよね」
「アメリカにいる時に、やってたからね」
「あまり外食しなかったんですか?」
「向こうは量が違うから、すぐに太るんだよ。最初の一か月でヤバイと思って、後は自炊だったね」
言葉通り、包丁さばきもリズミカルで手慣れたものだ。
負けてはいられないと翠もマッシュポテトに炒めた挽肉とマヨネーズ、粒マスタードを混ぜると、香りにつられて蒼也が鼻を突き出してくる。
「これって、ほぼポテサラだよな」
「そこまでマヨネーズは濃くないですけどね」
二人の共同作業で成形し、流れ作業でパン粉をまとわせ、油に入れると、ピチパチジュワッといいリズムを奏でながらコロッケが色づいていく。
網に引き上げると、蒼也が手を出すが、熱さに手を引っ込める。
「お行儀悪いですよ」
唇をとがらせ抗議する翠に蒼也が口づける。
「だって、こんなにうまそうなんだからさ。コロッケくらいおあずけにしないでくれよ」
「男の人って、どうしてそうつまみ食いが好きなんですか」
「男?」と、声のトーンが変わり、腕をつかまれる。「男って誰だ?」
あまりの力に、亀のように首をすくめて翠は声を絞り出した。
「う、うちの父です……けど」
「本当か?」
腕をよじりながらうなずく翠を壁際に押しつけ、蒼也は耳たぶに口づけた。
「油……危ない……ですよ」
そんな警告も無視して蒼也の唇が首筋から胸へと這っていく。
蒼也の息にくすぐられ、翠の唇から思わず赤面するような声が漏れる。
その表情を逃さず、攻撃はどんどんエスカレートしていく。
「蒼也さんの方こそ、他にお付き合いしてた方、いるんじゃないですか」
「いるわけないだろ」と、キスを止めた蒼也が顔を上げてお互いの額をくっつける。「悠輝に聞いてみろ。俺のことなら、何でも知ってる」
真剣な眼差しに、思わず翠は吹き出してしまう。
「それはそれでいやですね」
と、ピーッとアラームが鳴って、自動消火装置が作動した。
冷静さを取り戻した蒼也が手を離す。
「二人ともしたこともない火遊びで喧嘩してしまったな」
「笑い事じゃないですよ」と、翠は換気扇のスイッチを『強』に変えた。
「つい、熱くなってしまった。すまない」
「コロッケは冷めたみたいですけど」
湯気の落ち着いたコロッケを菜箸で一つつまんだ翠が蒼也の口に差しだした。
「はい、あーん」
「お、おう……」
さっきは自分から手を出していたくせに、耳を赤らめながら口を開く。
サクサクといい音を奏でながら蒼也が微笑む。
「おいしいですか」
「こんなにうまいコロッケ食べたことないぞ」
「じゃあ、はい、もっと」
「んぐ……、おい、そんなに入らないって」
お仕置きのつもりでカウンターに追い詰め、翠は蒼也の口にコロッケを押し込み、黙らせた。
その夜、二人は同じベッドで眠った。
初めての蒼也の腕枕に緊張しながらも、反対の腕で腰を抱き寄せられると、翠はなんとも言えない安らぎを感じた。
夫婦の行為はできなくても、見つめ合い、何度も口づけを交わし、愛を伝え合った。
「翠、好きだ。愛してる」
「私も、蒼也さん」
「ずっと本音を言いたかった。これからは何度でも言うよ」
何度でも聞きたい。
蒼也の唇は熱く、パジャマ越しに伝わる鼓動が翠の心臓と響き合う。
背中に回された手が遠慮がちに腰から下へと忍び寄る。
「ごめんなさい。今日は……」
蒼也の手がぴくりと跳ねる。
「あ、いや、すまない。分かっているから、安心してくれ」
――我慢してるんだろうな。
だけど、こればっかりは仕方がない。
代わりにしてあげられることも分からない翠はただ蒼也の愛撫に身を委ねているしかなかった。
子どもを寝かしつけるように背中をゆったりとしたリズムでさすられると、瞼がしだいに重くなっていく。
と、安らかな寝息が聞こえてきた。
――蒼也さん?
寝かしつけているつもりの蒼也が先に眠っていた。
雲の上で昼寝でもしているような、なんとも言えない穏やかな寝顔だ。
翠は蒼也の負担にならないように腕から頭を上げて枕に顔を埋めた。
――おやすみなさい。
目を閉じると、コロッケを食べていた蒼也の姿が思い浮かんだ。
結局、『うまいうまい』と、五個も食べたのだ。
お父さんに教わって、お母さんのレシピを受け継いでよかったな。
ありがとう、お父さん、お母さん……。
私、幸せになるね。
いつの間にか眠りに落ちていて、目が覚めたのは明け方だった。
目の前に壁があって、それが蒼也の広い背中だと気づくのにずいぶんと時間がかかった。
――ああ、一緒のベッドで眠ったんだっけ。
寝息のリズムで柔らかく揺れる背中に額と手を押しつけると、あたたかな体温を感じる。
と、その時だった。
「翠……」と寝ぼけた声でつぶやきながら、蒼也が寝返りを打った。
長い腕が背中に回され翠は抱き枕にされていた。
――ちょ、ちょっと……。
眠っているだけに、遠慮も加減もなく抱きすくめられ、逃れることはできない。
脚の間に膝が入り込んできて、固く大きな棒のような物が翠の腹に押しつけられる。
――え?
何これ?
何か隠し持ってるの?
これって……もしかして……嘘でしょ。
これを、アレするんだよね。
ムリムリ、絶対無理。
こんなのって……凶器でしょ。
かわいい象さんじゃないの?
え、ちょっと、どうしよう。
蒼也の寝顔を見つめていると、頬が火照りだし、体の芯が熱く疼いて止まらない。
こわいけど……。
だけど……。
ずっと我慢しててくれたのかな。
こんなになるのって、そういうことだよね。
「ん……俺の翠……」
美術館に飾られた彫刻のような端正な表情なのに甘い寝言を囁かれると、すうっと不安が消えていく。
うふふ、そうですよ。
あなたの私ですよ。
翠は眠っている夫に口づけた。
「ん……」と、蒼也がうめきながら薄く目を開けた。「あっ……み、翠か」
そんなつぶやきと共にいきなり抱きしめられる。
「夢じゃないんだな」
「はい、目覚めても一緒ですよ」
「いいもんだな。これからはこんな目覚めが続くんだな」
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
蒼也が両腕を突き上げながら体を起こす。
「今日から仕事だろ。朝ご飯作るよ」
「え、蒼也さんだって、仕事あるんですよね」
「ま、いいじゃないか。とりあえず、コーヒー飲むだろ」
「はい、いただきます」
軽やかにベッドを抜け出すと、蒼也はキッチンへと向かう。
翠は少しベッドの上に座って体が目覚めるのを待っていた。
エスプレッソマシンの蒸気の音から少し遅れて濃厚な香りが漂ってくる。
釣られるように鼻を突き出しながら翠もキッチンへ立った。
「フレンチトーストでいいか?」
「え、そんなのも作れるんですか」
「簡単だろ。混ぜて浸して焼くだけ」
――世の中では、それを手間と言うんですよ。
「支度してきていいぞ。その間に用意しておくから」
「はあい、楽しみにしてます」
と、洗面所へ向かおうとしたら、パジャマの袖を引かれた。
――え?
くるりと引き寄せられ、キスが命中する。
「ちょ、えっ」
「パジャマ姿がかわいいから、つい我慢できなかった」
この数ヶ月、同居はしていたものの、寝室は別にしていたし、深夜まで仕事をしている蒼也とはすれ違ってばかりいた。
こんなふうに朝を迎えるのは新鮮な気分だった。
握りあった手から伝わる温かな気持ちを愛おしむように寄り添い、二人は何度もキスを交わした。
お盆休み明けの初日は雲一つない快晴で、朝から三十度を超えていた。
それでも預かり保育の園児たちは元気いっぱい汗まみれになって駆け回っている。
翠が教室に入ると、ヒロキくんが駆け寄ってきた。
「センセー、おはなあげる」
折り紙の向日葵だ。
「わあ、ありがとう」
「じゃあ、オレ、ナツミセンセーとケッコンしてくるねー」と、ヒロキ君は手裏剣のように花を翠に放り出すと、くるりと背を向けて行ってしまった。
「え、あ、そうなの」
お祝いしてもらったのに、なんか振られた気分。
いいですよぉだ。
私には蒼也さんがいるんだから。
手の中で向日葵をくるくると回しながら翠は一人苦笑していた。




