(4-7)
◇
一週間ぶりに蒼也のマンションにもどると、翠は部屋の空気を思い切り吸い込んで、「ただいま」とつぶやいていた。
「少しの間なのに、懐かしいですね」
「そうか」と、蒼也は後ろから翠を抱きしめた。「おかえり」
「汗かいちゃってますよ」
首をすくめる彼女の耳にささやきかける。
「先にシャワー浴びてきなよ」
「い、いきなりですか」
「本当の妻にするって約束しただろ。ここなら邪魔は入らないよな」
一瞬のためらいの後に、蒼也が後ろから翠の胸に右手を当てると、すかさず彼女の手が重なる。
翠の耳が真っ赤に染まるが、嫌がる様子はない。
薄いワンピース越しにレース素材の感触が伝わる。
恥ずかしそうにうつむく姿も首をかしげる様子も、そんななにげない仕草すべてが愛おしい。
本当に俺が独り占めにしていいのか。
……っつうか、誰にも渡すわけないけどな。
かわいすぎて、なんだか意地悪したくなる。
これまで模範的優等生だった俺のどこかにスイッチが入った気がする。
それもこれも、俺の心をくすぐる翠がいけないんだ。
蒼也は肺いっぱいに翠の髪の香りを吸い込み、左手で背中のファスナーを引き下ろした。
「シャ、シャワー浴びてきますね」
肩で服を押さえながら翠が蒼也の腕を抜け出す。
その姿を目に焼きつけながら送り出し、自分もスーツを脱いでハンガーに掛けた。
窓の外には日が傾いてもなお陽炎の立つ猛暑の街が広がっている。
じっとりと張りつくシャツを脱ぎ上半身をタオルで何度拭いても、自分の腕の中にいた妻の体の感触が胸をうずかせ、汗が引くどころかいくらでも吹き出してくる。
冷蔵庫からジャスミンティーを取り出し、グラスに注いで一息にあおる。
火照った体を貫くように冷たい液体が流れ落ちる。
――焦るな、落ち着け。
ここまで長いことかかったが、もう心配はない。
誠意を伝え、受け止めてもらえた。
自分には一切やましいところはない。
愛しい彼女とこの瞬間を迎えるために俺は翠一筋に生きてきた。
あとはただ、本能に身を委ねるだけだ。
と、その時だった。
「蒼也さん」と、背後から呼ぶ声がした。
「ん?」
カウンターに腰をぶつける勢いで振り向くと、シャワーを浴びに行ったはずの翠がさっきの格好のまますぐ後ろに立って子どものように泣きじゃくっていた。
背を丸めて視線を合わせ、蒼也はしっかりと肩を支えながら声をかけた。
「どうした?」
「ごめんなさい」
謝られても、状況がまったく分からない。
まさか、やっぱり俺ではだめだというのか。
ギラつく男の本性を見せたのが嫌われたのか。
籠にいた鳥が羽ばたいていくのを見送るような絶望を感じつつも平静を装って蒼也は穏やかにたずねた。
「大丈夫だよ。どうかしたのか?」
「ごめんなさい」
ただ謝るだけの妻を抱きしめ、蒼也は背中を撫でて落ち着かせた。
「心配ない。何があったのか言ってごらん」
「ごめんなさい」と、翠が嗚咽を漏らす。「生理になっちゃいました」
――お、おう……そういうことか。
「まだもう少し先かと思ってたんですけど、急に来ちゃったみたいで」
「そ、そうか……」と、予想外の出来事に困惑しつつも蒼也は翠をしっかりと抱きしめた。「謝らなくていい。翠は何も悪くないだろ」
「でも、ごめんなさい」
蒼也は額に口づけた。
「愛してるよ。だから泣かないでくれ。心配なんかしなくていい。翠のペースでいいんだ」
恥ずかしそうにうつむき胸に顔を埋める妻を柔らかく抱きながら、蒼也はささやきかけた。
「これまでだって、二十年、ずっと我慢してきたんだ。いつまでも待つよ」
「そんなにはかからないですけど」
ようやく泣き止んだ妻に蒼也はささやき続けた。
「それより、体調は大丈夫なのか。貧血とか、吐き気がしたり、匂いが気になったりしてないか?」
今度は妻が首をかしげていた。
「俺は男だから分からないが、休暇を取る人もいるくらい辛いんだろ」
「私はそこまでひどくはならないんで大丈夫です」
「そうか。でも、無理するなよ。ゆっくり休んでいいんだからな」
蒼也の言葉に翠が笑みをこぼす。
「よかった。がっかりさせちゃうかなって、心配だったんです」
「そんなことないよ。どんなことがあっても俺は翠を愛してる。これまでも、これからも、何があっても俺を信じていいんだよ」
「私も」と、翠が蒼也の胸に額を押しつける。「愛しています。これからもよろしくお願いします」
「ああ、俺も、よろしくな」
と、キュルルと蒼也のおなかが鳴った。
二人とも同時に笑い出す。
「おなか空きました?」
「さっき冷たいジャスミンティーを飲んだから刺激したかな」
「でもお夕飯の支度する時間ですよね。何がいいですか?」
「翠が食べられるものなら、なんでもいいぞ」
気づかう蒼也の顔を見上げながら翠が吹き出す。
「なんだよ。どうした?」
「さっきから、悪阻と間違えてませんか?」
――ん?
視線を上げて首をかしげる蒼也の胸を翠が人差し指でつつく。
「まだ何もしてないのに悪阻にはならないですよ」
「い、いや、べつに勘違いなんかしてないぞ」
「本当ですか?」
「当たり前だろ」
強弁するほど翠の視線が疑り深くなっていく。
頭に血が上って鼻に汗が浮かぶのを見られないように蒼也は冷蔵庫を開け、冷気に顔を突っ込んだ。
「そういえば、悠輝が昨日ジャガイモを持ってきたんだっけ。スポンサーからもらったらしい」
「じゃあ、コロッケ作りましょうか」と、翠も冷蔵庫をのぞき込む。
「揚げ物できるのか?」
顔を見合わせながら翠が微笑む。
「得意ですよ」
「だったら俺も手伝うよ」
「じゃあ、先に部屋着に着替えてきますね」
朗らかに寝室へと向かう妻の背中を見送りながら、蒼也はホッと胸をなで下ろしていた。
――よかった。
うまく励ませたようだ。
何が正解かは分からない。
だけど、だからこそ、二人で見つけていけばいい。
翠が笑ってくれるなら、俺は道化にだってなってみせるさ。
鼻歌交じりにジャガイモを取り出しながら、蒼也は妻の笑顔を思い浮かべていた。




