(4-6)
◇
本当ならばスイスにいたはずの一週間、翠は自室で考え事を続けていた。
ベッドに仰向けに寝転んでいると、コロッケをつまみ食いしていた時の父の顔が思い浮かぶ。
――意外だったな。
お父さんが昔の恋の話をしたことなんて今までなかったのにな。
なんかお母さんのことを話してると、目がキラキラしちゃってて、こっちが恥ずかしくなっちゃったよね。
蒼也さんも、私の前ではいつもあんなふうな目をしていた気がするけど、あれは気のせいだったのかな。
翠はふと、あまり記憶にない母のことを思った。
お母さんがいたら、蒼也さんのこと、どう思うかな。
なんかアドバイスしてくれたかな。
こんな大事な時なのに、相談できないなんて……。
子どもの頃の約束なんて、大人になった今、いつまでもしがみついていてはいけないんだろうし、向こうだってそう思ってるんだろうな。
とは言っても、あの時の約束が嘘だったわけじゃないし、解消しようなんて思ったこともないし、向こうから言われたこともない。
あの約束は本物だったのに、偽装結婚で終わっちゃうのはやっぱり悲しいんだ。
だって、やっぱり、私、蒼也さんのことが……好き……だから。
自分の頭の中でいくら考えてみても、何度も同じことの繰り返しだった。
恋って、一人じゃ決められないんだよね。
やっぱりちゃんと話してみなくちゃいけないんだろうな。
スマホを持ち上げて翠は何度も返信をしようとしたが、打った文字を結局キャンセルしてしまうのだった。
画面を遡って蒼也からのメッセージを何度も読み返し、スマホを胸に抱くと、涙があふれ頬を伝う。
――こわいんだ。
お父さんとおんなじだ。
いい方に出るとは限らない答えを知るのがこわいんだ。
雷をこわがる子どもみたいにギュッと目をつむって、時が過ぎていくのを待っていても解決はしないって分かってるのに。
蒼也さんと話すのがこわいんだ。
行き場のない思考の渦に飲み込まれていつのまにか眠ってしまい、しだいに昼と夜が逆転した生活になっていた。
休暇の最終日、昼過ぎに蒼也が実家に訪ねてきた。
応対したのは父だった。
「お父さん、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」と、スーツ姿の蒼也がきっちり腰を折って頭を下げた。
「いや、ちょっとした行き違いでしょうから」と、父は翠を呼んだ。
少し前に目覚めて髪には軽くブラシをかけてあったものの、くたくたなTシャツのまま翠は蒼也に対面し、サンダルを突っかけて表に出た。
「少し散歩しませんか」
「お、おう……」
素直な翠に蒼也はたじろいでいたが、陽炎揺らめく住宅街の道路を二人は並んで歩いた。
お盆休みも終わる時期だが出かけている人が多いのか、街全体が閑散として蝉の声に覆われていた。
考えてみればこんなふうに二人で歩くのは、初めて会ったあの冒険の日以来二十年ぶりだった。
蒼也と会うのは御更木家の行事に呼ばれた時か、悠輝を挟んで三人でいるときだけだった。
「連絡もしないで突然押しかけてしまってすまない」
「どうせ見てませんでしたから」
「そ、そうか」と、蒼也が口ごもる。「一方的にメッセージを送りつけてすまなかった」
「いえ、返信できなくてこちらこそすみませんでした」
「ちゃんと話し合うべきだとは分かっていたんだが、マスコミやら取引先への対応ですぐに会いに来られなくて申し訳なかった」
「いいですよ」と、翠は両腕を空に突き上げてつぶやいた。「気持ちの整理がつかなかったから、かえって考える時間ができて良かったです」
皮肉ではなく、本音だった。
あれから冷静になって考えてみると、蒼也が本当の気持ちを何度も口にしていたことに気づいたのだ。
特に、『大事にするよ。当たり前だろ。俺の最愛の人だぞ。じいちゃんがばあちゃんを愛していたように、俺だって翠を愛してるに決まってるだろ』という叫びが演技だったとは思えない。
それに、幸之助の前で初めて交わしたキスも熱かった。
『初めて会ったあの日から、ずっとこの時を夢見てきたよ』
『ずっと愛していたよ、翠。これからも愛してるよ』
もしそれがただの演技なのだとしたら、その時は本当に別れよう……そう思って出てきたのだった。
じりじりと照りつける日差しを避けて、二人は樹木生い茂る公園に入った。
「すまなかった」と、あらためて蒼也が頭を下げる。
「いえ、いいんです」
「じいさんのために緊急で無理矢理納得してもらおうと、俺が『偽装結婚』なんて言ったから、余計な心配をかけてしまったんだよな」
翠の返事を待たずに蒼也が言葉を継いだ。
「俺は最初から本気だったんだよ。それなのに、あんな申し込み方をして悪かった。二十年前の約束で翠の気持ちを縛りつけているんじゃないかって、どうしても踏み込むことができなかったんだ」
緑がかった茶色の瞳が熱を帯び、言葉があふれ出してくる。
「正式に俺の妻になってくれ」と、蒼也は翠の手を握った。「もう結婚式もしたのに今さら正式になんて、俺が悪いんだよな。だけど、今度こそ、偽装じゃない、本当の本物の妻になってほしい。ずっと俺だけの宝石でいてくれよ」
そして、深く息を吸い込んだ蒼也は、うつむく翠の顎に手をやってクイッと顔を上げさせると真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「俺は君だけのトム・ソーヤでいるからさ」
――へ?
「とむ?」
ポカンとする翠の反応に、蒼也の顔がみるみる茹で上がり、額に手を当てて天を仰ぐ。
「嘘だろ。覚えてないのか。初めて会ったあの日の会話」
「いや、あの、言ったのはたしかに私でしたけど……」
思わず翠が吹き出してしまうと、蒼也はシャツの襟元に指をかけて熱を逃がしながら首を振った。
「なんだよ。俺がスベったみたいじゃないかよ」
「だって、まさかプロポーズの決め台詞にするなんて思ってなかったから」
「二十年間この日のために温めてきたんだぞ」
――そう。
二十年ずっと考え続けてくれていたのだ。
そんな蒼也の誠実さに気づくのに、少し時間が必要だったのだ。
今は分かる。
私は飛び込んでいけばいい。
――蒼也さんを信じて。
蝉の声が止んで、木漏れ日がキラキラと降り注ぎ、まるで世界が二人だけになったようだった。
世界が明るくなるって、こういうことだったんだ。
父の言葉を思い出した翠は自分から蒼也の手を握った。
「プロポーズしてもらったのに、さっそく喧嘩しちゃいましたね」
「そうだな」と、蒼也が翠を引き寄せた。「すまなかった」
「先に謝っちゃだめですよ」
「どうして? 悪いのは俺だろ」
「私が分からず屋みたいじゃないですか」
今度は蒼也が笑い出す。
「また口がタコみたいになってる」
そのとがらせた口に蒼也が唇を近づけてきた。
「こ、こんなところで」
「だって、キスを誘ったんだろ」
「ち、違います」
顔を背けようとする翠の背中に手を回し、蒼也が力強く抱き寄せる。
いくらもがいても逃げられない。
「人が来たらどうするんですか」
「いなかったら、いいのか?」
挑発的な瞳がエメラルド色の輝きを強めてまっすぐに射貫いてくる。
再び口をとがらせながら、翠もその瞳を見つめ返した。
「いいですけど……」
蝉の声が、激しさを増す鼓動を隠してくれる。
しばらく見つめ合っていると、根負けしたのか蒼也が首を振りながら髪をかき上げた。
「まいったな。そう強気に出られるとは思わなかったよ」
二人とも同時に笑い出す。
あまり笑いすぎて涙が滲み出してきた。
いろんなことがあったけど、お互いの気持ちを確かめることができて翠はホッとしていた。
すぐそばの木で蝉が鳴き出し、キスをせかすように公園のいたるところから蝉の声が湧き上がる。
そっと翠が目を閉じた時だった。
「ミドリセンセー」
とっさに突き飛ばすように蒼也と間合いを開けて振り向くと、公園に入ってきた男の子が手を振りながらこちらへ駆けてくるところだった。
「ヒロキくん、こんにちは」と、翠も手を振り返した。
以前蒼也が幼稚園に来たときに『オレのほうがつよーい!』と謎のアピールをしていた園児だ。
「あ、オレこのひとしってる」と、まぶしそうに蒼也を見上げて指をさす。
「おーい、ヒロキ」と、後からヘロヘロになりながらお父さんが駆けてくる。「あ、これは翠先生でしたか。いつもお世話になってます。いやあ、子どもは元気で外に行きたいって言いますけど、暑くて大人はしんどいですよ……」
膝に手をついて喘いでいるお父さんの横でヒロキくんがぴょんぴょん飛び跳ねる。
「ねえ、センセーあそぼ」
つい横の蒼也と顔を見合わせてしまう。
「こら、先生は忙しいんだぞ」と、お父さんがたしなめるけど、ヒロキくんは納得しない。
「おじさんとデート?」
おませさんに図星をつかれて焦る翠と、オジサンと呼ばれてあからさまに不機嫌になる蒼也を見上げながらお父さんがたずねた。
「えっと、こちらの方は?」
「夫の御更木です」と、蒼也がうなずくように頭を下げた。
「あ、先生、ご結婚なさってたんですか。全然知りませんでした」
「ええ、まあ、その……」
しどろもどろの翠の脚にヒロキくんが絡みつく。
「えー、ミドリセンセー、オレとケッコンするんじゃないの」
思わず笑ってしまったが、横の蒼也の目は地獄の番犬のようだった。
とっさに翠ははぐらかした。
「ごめんね。先生もう結婚しちゃったの。明日からまた預かり保育が始まるから、幼稚園でいっぱい遊ぼうね」
「やくそくだよ」
「うん、はい、じゃあ、ゆびきり」
翠が差し出した小指をひったくるようにヒロキくんが小指を絡めてくる。
「うーそついたーらイーチオークマーンエン」
「あらら、たいへん。じゃあ、絶対約束守らないとね」
恐縮そうに頭を下げながらお父さんがヒロキくんの手を引いて去っていく。
翠が手を振っていると、蒼也がつぶやいた。
「一億万って、一兆だよな」
――へ?
「あ、まあ、そうですね」
「ミサラギメディカルの時価総額は二百億円。ミサラギグループ全体でも六千億くらいか」
え、何を張り合ってるんですか?
蒼也はあくまでも真顔だ。
「翠はずいぶんモテるんだな」
「ヒロキくんは他の先生にもみんなあんなふうに言ってるんですよ」
ケルベロスからは和らいでいるものの、目の奥が笑っていない。
「小さい子どもって、何の躊躇もなく抱きつくよな」
――もしかして、妬いてる?
「幼稚園にいると、毎日プロポーズされてますよ」
「そうなのか」と、蒼也がいきなり手を引いて歩き出す。
「ど、どこ行くんですか」
「俺たちは夫婦なんだから、俺の部屋に帰ろう。荷物は空港から戻ってきてるよ」
「そんなに引っ張らないでくださいよ」と、翠は反対の手で蒼也の袖を引いた。「もう逃げたりしませんから」
速度を緩めたものの、蒼也は前を向いたままだ。
翠は横に並んで歩いた。
「あのくらいの年頃って、理由とか考えずに、好きって言っちゃうんですよね」
「俺もそうだった」
「え?」
「幼い頃に俺が翠を好きになったのも、理由なんてなかったよ。ただ目の前にいる翠のことが好きで好きでたまらなかったんだ。俺には翠しかいないんだ。俺は翠じゃなきゃだめなんだ。だからずっと努力してきた。翠にふさわしい男になるために」
街路樹の下で立ち止まった蒼也があらためて向き合う。
「こんな俺じゃだめか?」
「だめなわけないです」と、翠はまっすぐに蒼也を見上げた。「私だって蒼也さんじゃなきゃ、いやですよ」
もう一度蒼也が手を引いて歩き出す。
「翠、君は俺の全てだ。誰にも渡さない、ずっと俺のそばにいてくれ」
「はい」
――ついていきます。
高揚しているのか、蒼也の歩幅が広くなって、翠は駆け足になった。
なんか、猟犬に引っ張られてるみたいなんだけど。
もうちょっとゆっくり歩いてくれるといいのに。
「誰もいないところで続きをやるぞ」
続き?
「俺たちは本物の夫婦なんだからな」と、顔を寄せてささやく。「俺に火をつけたらどうなるか。教えてやるよ」
え、ちょ、そ、それって……な、何を教えてくれるんですか……って、まあ、アレですよね、あはは。
でも、い、いきなりですか。
うーん、でも、あの、心の準備とか……まあ、今までずっと準備する時間なんてありすぎたんですけどね。
だから、こじれちゃったんだし。
ええと、うん、まあ、いっか。
――あっ!
全然良くない。
私、コンビニもアウトな、くたくたTシャツだったんだっけ。
ていうか、こんな格好ヒロキくんとお父さんに見られちゃったじゃない。
幼稚園で会うのが恥ずかしい。
おまけに、下着だって、せっかくそろえた新しいのじゃなくて、干してあったのそのまま適当に取って着たやつで、そろってもいないし。
だめだめ、こんなの絶対見せられない……その中身なんて、もっと見せられないけど。
「実家に寄って着替えてきますね」
「服装なんてどうでもいいじゃないか。翠はそのままで素敵だよ」
「でも、お父さんにも、挨拶してこないと」
「ああ、まあ、それはそうだな」
なんとか説得したところで、実家においてあった学生時代のワンピースを引っ張り出して着替えを済ませ、翠は迎えの車に乗り込んだ。




