(4-3)
◇
新婚旅行をプレゼントされたとはいえ、翠は急に仕事を休むわけにはいかず、結局お盆休みに出発することになり、ついでに、家族だけの形式的な式を挙げておくことになった。
式場は当然ミサラギホテルのチャペルだ。
立体的な花模様がふんだんにあしらわれたAラインのチュールドレスにロングベールをかぶった翠と対面した蒼也がそっと耳打ちしてきた。
「なあ、翠、あの時のこと覚えてるか?」
「えっと、はい、あれ……ですよね」
幼い頃、ホテルを探検していた二人が初めてチャペルに入った時のことだ。
――覚えていてくれたんだ。
あんな子ども同士の淡い思い出。
白い大理石の柱を彩るステンドグラスの鮮やかな光はあの頃と変わらない。
むしろ輝きを増している。
泣きそうになるのをこらえながら、翠はバージンロードを歩いた。
父は意外とリラックスしていて、案外この人リードするモテタイプだったのかななんて思ったりして、泣き笑いの両極端に振れる感情の波をこらえるのが大変だった。
幸之助の病室とは悠輝のおかげでネット中継がつながれ、二人の晴れ姿をご披露することができた。
和やかな雰囲気の式が終わり、新婚旅行への出発は翌日の昼だった。
羽田空港へは悠輝が見送りに来てくれた。
「空港っていいよね。自分が出発するわけじゃなくても、気分が高揚するよ」
「おまえまで来るなんて言うなよ」と、出発ロビーを歩きながら蒼也が嫌味を吐く。
「地上一万メートルから突き落とされるのはごめんだよ」
そんなお約束の二人のやりとりを翠は笑いをこらえながら聞いていた。
「蒼也ってさ、釣った魚にエサをやらないタイプだよね」
「そんなことないさ」
「自覚がないのが怖いんだよ。誕生日のプレゼントだって僕にくれたことないだろ」
「男同士で、そんなもの贈るのか。カノジョじゃあるまいし」
――私ももらったことないですけど。
出かかったツッコミを翠は飲み込んだ。
「僕は蒼也の誕生日に食事をごちそうしたりしてただろ」
「だって、おまえの場合、そんなの誕生日以外でもしょっちゅうだったから、そんな意味だとは気づかなかったよ」
「ま、そういうところを見抜いてるから、幸之助さんは航空券を手配してくれたんだろうね」
言い返せずにいる蒼也は二人分のパスポートをまとめてチェックインカウンターへ向かった。
ピークシーズンでごった返す空港はファーストクラス専用カウンターでもさすがに数組の客が並んでいて、航空会社の地上係員が恐縮そうに事前の案内を行っていた。
二人の順番が来て、スーツケースにタグを付けてもらったときだった。
蒼也のスマホに着信があった。
「ん、親父か。なんだ?」
電話に出た蒼也の顔がみるみる変わっていく。
「ああ、うん、分かった。すぐ行く」
電話を終えた蒼也は翠の腕を引いてカウンターを離れた。
「翠、大変だ。じいさん危篤だ。帰るぞ」
「えっ!? でも、荷物は」
「そんなもの後でいい」
カウンターの係員さんがすべてを察して対応してくれた。
「御更木様、ご心配なく。あとはすべて私どもがいたしますので。貴重品だけお持ちになってどうぞお急ぎください」
「すみません。お任せします。翠、俺は先に行ってタクシーを捕まえてるから」
人波を縫って駆けていく蒼也を、翠は悠輝と一緒に追いかけた。
だが、ターミナル一階のタクシー乗り場には絶望的な光景が広がっていた。
車は一台もなく、待っているお客さんの大行列ができていたのだ。
「僕の車で行こう」と、二人を手招きしながら悠輝が駆け出す。
今度はその背中を追って駐車場へ向かう。
ターミナルビルと駐車場の渡り廊下で、悠輝に追いついた蒼也が叫ぶ。
「悠輝、駐車券をよこせ」
「はいよ」と、逆向きのリレーで後ろ手に渡すと、悠輝は車を取りに行き、蒼也は事前精算機で支払手続きをした。
精算が済んだところでSUVが車寄せに来て、二人が乗り込むと、タイヤを鳴らしながら発進し、すぐに高速道路へ入った。
蒼也がしきりに拳で膝を叩いている。
「どうしたんだよ。昨日はまだしっかりしてたのに」
車の速度が落ちて、運転している悠輝がため息をつく。
「だめだ、渋滞してる」
「なんとか間に合ってくれ」
拳を握ったり広げたりしている蒼也の手に翠は自分の手を重ねた。
「大丈夫ですよ。きっと間に合います」
「ああ、そうだな。ありがとう」
だが、願いとは反対に、分岐しても先の合流地点が渋滞していて、なかなか抜け出せない。
運転席の悠輝が肩を落とす。
「だめだ、これじゃあ、どんなにパワフルな車だって役に立たないよ」
蒼也は病室にいる父親とビデオ通話をつないだ。
画面には幸之助が映っている。
赤みのない肌は粉を吹いたように荒れ、目の色が薄めた麦茶みたいに透明だ。
「じいさん、しっかりしてくれ」
返事どころか、反応がない。
画面の向こうでは、スマホを幸之助の耳に押しつけていた。
「じいさん、聞こえるかい。蒼也だよ。今そっちに向かってるから。もう少し頑張ってくれよ。翠も一緒だからさ」
と、その時だった。
痙攣するように幸之助の口が動き、空気が漏れるような声がかすかに聞こえた。
「みどりさん……だいじに」
「おう、じいさん。翠を大事にしろって?」
問いかけても、もう反応はなかった。
「聞こえたよ、じいさん。俺の声、聞こえるかい?」
涙声もはばからず、蒼也は必死に呼びつつけた。
「大事にするよ。当たり前だろ。俺の最愛の人だぞ。じいちゃんがばあちゃんを愛していたように、俺だって翠を愛してるに決まってるだろ」
そんな悲しい愛の告白にも、翠はただ黙って手を握っていることしかできなかった。
蒼也の叫びが届いたかどうかは分からない。
幸之助の顔はすでに蝋人形のようにこわばっていた。
「おい、じいさん!」
スマホが幸之助から離され、画面の向こうで医者が頭を下げていた。
悠輝がステアリングに拳をたたきつけた。
「ごめん、蒼也、間に合わなくて」
「いや、いいんだ。ありがとう。このまま気をつけて行ってくれ」
シートに体を投げ出して天井を見上げる蒼也は目を閉じて涙をこらえていた。
「なんでだよ。どうしてなんだよ」
唇を震わせる悲痛な呟きに、翠は何も言えず、ただ手を握りしめるしかなかった。
病院で対面した幸之助は安らかな顔をしていた。
蒼也の父から一枚の紙切れを渡された。
「昨日の式の後に看護師さんに紙をもらって書いたんだそうです」
《ミドリさんキれいなはなよめよカタネ》
震える手で一文字一文字書いてくださったのだろう。
ミミズが這い回ったような文字が涙でにじんで読めなくなる。
――おじいさま。
結婚は偽装だったのに、喜んでくださってありがとうございました。
だましていた申し訳なさで胸が張り裂けそうなほど苦しい。
これで自分の役割は終わりなのも悲しい。
本気になってはいけなかったのに、期待してはいけなかったのに、だけどずっと待っていたこれまでの気持ちを全部幻だとは思いたくはなかった。
でも、それを口にしてはいけないんだ。
迷惑かけちゃだめ。
きれいに終わりにしなくちゃ。
ただの、偽装結婚だったんだから。
蒼也の家族は葬儀の手配やら政財界各方面への連絡であわただしく動き回っていた。
そっと病室を抜け出そうとすると、蒼也に腕をつかまれた。
「翠、どこ行くんだ。こんな時くらい、そばにいてくれよ」
だが、翠は首を振ってその手を振りほどいた。
「私がいても邪魔になりますから」
「何を言ってるんだ。翠は俺の……」
と、言いかけたその時だった。
勝手に病院に入り込んだマスコミ陣が病室のドアを激しくたたき始めた。
「御更木さん、コメントを!」
騒ぎを収めようと蒼也は廊下に出た。
その背中に隠れながら翠も病室を後にした。
「みなさん、お静かに。すみませんが、ここでは対応できませんので、外へお願いします」
手を広げ、気丈に振る舞う蒼也だが、声は震え、目には涙が滲んでいる。
そんな彼の表情を捉えようとカメラマンが容赦なくフラッシュを浴びせる。
白く浮かび上がる憔悴した横顔に胸が締め付けられ、思わず手が伸びる。
――蒼也さん。
支えてあげなくちゃ。
演技でもいい。
そばにいてあげなくちゃ。
だって、私は蒼也さんの……。
だが、寄り添おうとした瞬間、翠はマスコミ陣に弾き出され、廊下の壁に押しのけられてしまった。
大勢の記者を引き連れてエレベーターに乗り込んだ蒼也は、腕をさすりながら壁際にたたずむ翠に気づいて口を開きかけたが、閉まるドアの向こうに消えてしまった。
静まりかえった廊下に一人取り残された翠は、無力感に押しつぶされ、こみ上げる涙を子どものように手の甲でぬぐっていた。
――やっぱり、私がここにいる意味なんてないよね。
だって、家族でもなんでもないんだから。
そう思った瞬間、翠の心の中で、虹色に揺らめいていたシャボン玉が音もなく割れて消えた。




