↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベンチャーCEOの想い溢れる初恋婚 溺れるほどの一途なキスを君に  作者: 犬上義彦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/34

(4-2)


   ◇


 翠は、蒼也がベッドを共にしないのは、手を出さずにいた方が別れやすいと思っているからなのではないかと疑い始めていた。


 それはそれで理屈が通る。


 肉体的関係を持ってしまえば、籍は入れてなくても別れる際に、法的に財産分与が必要になる場合もあるだろう。


 もちろん翠にはそんなつもりはなかったが、莫大な資産を持つ一族としては、下手な隙は作りたくはないのだろう。


 もしかしたら、顧問弁護士から釘を刺されているのかもしれない。


 二人の同居生活だけなら、大きな子どもの『おままごと』に過ぎない。


 毎日首筋に吐息がかかって心臓が跳ね上がるような距離にいるのに、決してそれ以上触れ合うことはなかった。


 一方で、蒼也の祖父幸之助の容態は日に日に悪化していた。


 癌の進行で食道が狭くなって固形物がだんだん食べられなくなっていき、栄養剤などを飲んでもむせるようになっていた。


 六月下旬になって蒼也と二人でお見舞いに行ったときのことだった。


「おう、翠さん、よく来てくれたね」


「具合はどうですか」


「まあ、まだ死んではおらんようだな」と、冗談めかして笑みを浮かべるが、声はかすれて痰が絡んでいる。「いや、いいんじゃよ。事前に分かったから、世話になった連中にちゃんと別れの挨拶も言えたし、なかなかいい終わり方だと思っておるよ。こうして皆に見送ってもらえると、若い頃、船で欧州へ向かった時の旅立ちを思い出すよ」


「旅立つ前に、まだまだいろいろできることはあるよ」


 蒼也は励ますが、幸之助は穏やかな表情で首を振るばかりだった。


「翠さん、そこの引き出しを開けてくれるかな」


 言われたとおり、ベッド脇の収納棚を開けると、封筒が入っていた。


「二人の結婚祝いに、私からの贈り物だ。翠さん、受け取ってくださいな」


「ありがとうございます」と、翠は素直に受け取った。


 偽装結婚であることを悟られないように、役者としてきちんと演技をやり抜かなければならない。


「中を見てくだされ」


 封筒の中には、航空券の購入書類が入っていた。


 ヨーロッパ行きのファーストクラスだ。


「こ、これは……」


 目を丸くしている翠の表情を愉快だと言わんばかりに笑い声を上げた幸之助がむせてしまう。


 蒼也が背中をさすってなんとかおさめる。


「新婚旅行のチケットだよ。楽しんできてください」


「でも、おじいさま」


「ああ、なに、いいんじゃよ」と、幸之助は軽く手を振った。「私のことは心配せずに行ってきなさい。むしろ私のために行ってもらいたいのだ」


「おじいさまのために?」


「私も若い頃に欧州に留学をした。当時は戦後とはいえまだまだ日本は貧しくてなあ。敗戦国の人間として肩身の狭い思いをしたものだったが、スイスの大学で知り合った女性に励まされてね。それがアンナだった」


 蒼也さんのおばあさまだ。


 翠は小さい頃に一度だけ会ったことがある。


 だが、もう十年以上前に心臓の病気でなくなっていた。


 ベッドサイドの収納棚に飾られたアンナの写真に目をやりながら幸之助は続けた。


「あれも、私より先に逝くとは思わなかったが、もうすぐ会えると思えば寂しくもない。あの世へ行ったら、スイスの話でも聞かせてやれたらと思ってな。だから、二人で行ってきてほしいんじゃよ」


「そうだったんですね。わかりました」


「そうか、行ってくれるかね」と、幸之助が頬を緩めて微笑む。「ありがとう」


「いえ、こちらこそ、こんな素敵なプレゼントをありがとうございます」


「蒼也」と、幸之助は孫を呼んだ。「翠さんと仲良くな」


 なんだか遺言のような言い方で思わず涙がこみ上げてくる。


「当たり前だろ」と、蒼也が祖父の手を両手でしっかりと握りしめる。


 ――当たり前、か。


 夫婦らしいことは、同居以外、何もしてないんですけどね。


「翠さん」と、かすれた声で幸之助が呼ぶ。


「はい」


「もっと早く孫のお嫁さんに迎えたかったんじゃが、蒼也がのう、『もっと翠さんにふさわしい男になってから』と言っていたものでな。だいぶ待たせてしまってすまぬことでしたな」


「そうだったんですか」


「じいさん、それは言わない約束だっただろ」と、蒼也は耳を赤くしながら鼻の頭をかいている。


 ――ちゃんと、考えていてくれたんだ。


 だけど、それだって先延ばしするためのただの言い訳かもしれないよね。


 どっちが本当の気持ちなんだろう。


 ちゃんと話をして、聞いてみればいい。


 それは分かっているけど、聞くのが怖い。


 確かめようとすれば、捨てられてしまうかもしれない。


『偽装結婚に本気になってんのか』


 そんな冷たい台詞を蒼也に言わせたくはない。


 だって……私の方は……蒼也さんを……。


 翠は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。


 言ってはいけないんだ。


 私はただ役割を演じ続けることを求められているだけ。


 キラキラしてふわふわと実態のないシャボン玉みたいにすぐに弾けるかりそめの夫婦なんだから。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。