◇第五十七話 禁忌と代償
薄暗い大聖堂では、燭台に灯された炎が静かに揺らめいていた。
夕焼け色の灯りに照らされた女神像の前で、私はナタニエル様の腕に抱き締められていた。
「イーザ……」
彼の声は甘く、掠れていた。
濡れた聖衣に包まれながら、私は彼を見上げる。鼓動の音まで聞こえてしまいそうな距離で、私たちは見つめ合った。
そのとき、彼の背後から冷たい靴音が響き、弾かれたように彼が振り返った。
「ナタニエル様……」
穏やかな声が落ちた。
彼の名を呼んだのは、神官バルバラだった。
いつもと同じ微笑を浮かべてはいるが、細められ弧を描いている瞳の色は見えない。
「貴方様を信じておりましたのに……ナタニエル様は、穢らわしい悪魔に惑わされておいでなのです」
「それは、美しい女の皮を被った悪魔ですわ」と言った彼女の指が、私を指した。
(悪魔……?)
彼女の見たことのない雰囲気に身を竦ませると、彼が私の前に立った。
「この手紙は、あなたの仕業ですね」
彼がバルバラに突き出したのは、雨に滲んだ白い便箋だった。『西の庭園でお待ちしています』と一言だけ書かれている。
(まさか、私に届いたあの手紙も……)
ナタニエル様のふりをして私を呼び出したのは、バルバラだというのか――
口を閉ざし、表情を変えずに佇む彼女は異様な気配を放っていた。
「私の力を封じたのも、あなたですか」
(力を――封じられた?)
彼の冷たい声に、バルバラは薄く笑った。
「……そうでもしないと、貴方様をエルシリア様の身許へお連れできないでしょう?」
薄く笑った彼女に、背筋がゾッとした。
バルバラは、普段と変わらない穏やかな笑みを浮かべている。それが、ひどく恐ろしかった。
「……どうやって、封じたのですか」
「神官カリーヌに手伝っていただきました」
当然のように紡がれたその言葉に、全身が粟立つ。
(カリーヌですって……?)
彼女は、西の庭園で亡くなったという噂話を耳にしていた。手伝ってもらったとは、一体――
「彼女を殺したのは……あなたですか」
低く放たれた彼の言葉に、張り詰めていた空気が一段と冷えたように感じた。
「彼女は、貴方様に穢れた感情を抱いていました……ですから、エルシリア様の身許へ送ったのです」
「エルシリア様に浄化していただくためです」と笑ったバルバラが、恐ろしい魔物のように見える。私は、彼の聖衣にそっとしがみついた。
「ですが、その女は無理ですわ。悪魔ですもの……浄化できません」
私の震える手を、彼の右手がそっと握った。
「神官カリーヌの命を、邪術に利用したのですか」
「申し上げたでしょう? 彼女に手伝ってもらったと……」
そう言って微笑んだバルバラに、彼は拳を強く握った。
「ナタニエル様は、誰よりも清らかで尊い御方。……きっと女神エルシリア様が花婿として迎えてくださるはず」
(……何を言っているの?)
彼女の不気味な言葉に、私は手が震えた。
「ナタニエル様……その悪魔に穢される前に、一緒に参りましょう」
「私は、これからも貴方様にお仕え致します……すぐに後を追いますから」と笑ったバルバラは、白銀に輝く短剣を取り出した。落とされた鞘が、燭台の炎を弾いて煌めく。
薄く笑んだ彼女の瞳は、闇に染まっていた。
「イーザ、逃げてください。……テオバルドの元へ」
ナタニエル様は低くそう言うと、私を背後に庇いながら短剣を握った。
「そんなこと、できるわけ――」
「私も、必ず追いかけますから」
彼の言葉に私は首を振った。
離れたら、この人はきっと死んでしまう――何故か、そう感じた。
「ナタニエル様……今お救い致します」
短剣を握ったバルバラが、笑みを浮かべたままこちらへ向かって走り出した。
彼は、私を守るように立ちはだかる。
傍らには、私たちの祖だと云われている女神エルシリアが佇んでいる――私は咄嗟に、祈りを捧げていた。
(どうか彼を助けて……!!)
そう強く祈ったとき、私の体から眩い光が溢れ出した。
その白い光は一瞬で広がり、彼とバルバラまでも包みこんだ。
「うぅ……っ!」
立ち止まったバルバラの手から、短剣が落ちる。それは緩やかに滑り、女神像の影へ溶けるように消えた。
「イーザ……その光は――」
振り返ったナタニエル様の向こうで、呻いたバルバラが膝をついた。苦悶の表情を浮かべた彼女の額に、黒い刻印が浮かび上がる。
(あれは、何なの……?)
「あなたのせいで、ナタニエル様が……」
苦しげに呻くバルバラの瞳が、私を憎らしげに捉えた。
震える私を守るように彼が抱き寄せると、彼女の瞳が微かに揺れた。そして一瞬だけ、ひどく悲しげな表情を浮かべた。
(神官バルバラ……)
次の瞬間、断末魔のような恐ろしい叫び声を上げながら、光に包まれた彼女は仰向けに倒れた。
その口から、黒い靄のようなものが吐き出され、白い光に溶けるように消えていく。
気を失った彼女の顔は、少しだけ穏やかさを取り戻したように見えた。
(女神様が、助けてくださったの……?)
私は、女神像を見上げた。
今まで、こんなにも強い光を見たことはなかった。
父の言いつけを破ったからだろうか――彼を救うことが出来た安堵と同時に、漠然とした不安が胸を覆っている。
「イーザ……大丈夫ですか」
ふらつく私の体を、彼が支えてくれた。
気付けば、聖堂中に満ちる白い光に、大勢の神官たちが集まってきていた。
彼が――皆が、私を見つめていた。
「ナタニエル様……」
(どうか、私を離さないで……)
力の入らない手で、彼の聖衣を掴む。
私を強く抱く温かな腕の中で、意識は途切れた――
「カンデラリア大司教様、これは一体……」
「今の光は、神聖力ですよね」
集まってきた神官たちが、アダルジーザが気を失った途端に淡く消えてしまった眩い光を見ていた。
「神官バルバラ――この者を拘束し、スフェール神聖国へ送ります。この者の神官の身分は剥奪となります」
冷たく放たれたナタニエルの指示で、気を失ったバルバラは神官たちに運ばれていった。
「カンデラリア大司教様、アダルジーザ様は――」
「これより、アダルジーザ殿下は私が……――スフェール王家が保護します」
ナタニエルの言葉に、神官たちは息を呑んだ。
彼は、アダルジーザを静かに抱き上げる。彼女を映す瞳には、少しの迷いもなかった。
白い女神像が、静かな微笑みで二人を見下ろしていた――




