◇第五十六話 迫る闇の中で
私は、薄紅色に染まる回廊を一人歩いていた。
ひんやりとした風が吹いてラベンダー色のドレスの裾を揺らす。
大聖堂の近く、人通りのない場所まで来ると、私は外套を羽織った。フードを被ると、大聖堂の裏手へと向かう。
「ナタニエル様……?」
小さな声で呼び掛けるも、そこには誰の人影もなかった。
(早く、来すぎたのかしら……)
手にひと粒、ポタリと水滴が落ちた。
見上げれば、空には薄っすらと雨雲が広がっている。
フードを目深に被ると、音を立てて雨が降り出した。
「まだかしら……」
雨の中じっと待っていると、雨音に混じっていくつかの足音が響いた。
(誰……?!)
振り返ると、そこには黒い外套を纏った人影が三人立っていた。その体格から、男のように見える。
(ナタニエル様じゃないわ……)
そう思って後退ったとき、男達の黒い外套から刃が覗いた。
後退ると、外套の裾を踏んだ私は後ろへと倒れた。
「大人しくしていれば、苦しまずに逝けるぞ」
雨の中、短剣を手に迫る男たち。
地面に座り込んだまま後ろに下がると、被っていた外套のフードが落ち、男達が息を呑んだのがわかった。
「こりゃあ……女神様みてえなお姫様じゃねえか……」
震えながら見上げると、男の一人が薄ら笑いを浮かべた。
「殺すには勿体ないな……」
立ち尽くす男二人。その背後から、一人の男が進み出た。
「惑わされるな……“殺せ”と言われてるはずだ」
銀色が閃いて、私は目を強く瞑った。
――その刹那、キィンと甲高い音が響いた。
(斬られて、ない……?)
恐る恐る瞼を開けると、そこには黒い外套を纏った後ろ姿があった。
「ナタニエル、様……?」
「イーザ、下がっていてください」
彼は男の短剣を弾き返すと、私を背に立ちはだかった。
「何だ、お前は……」
向かって来る男に、彼は躊躇いもせずに刃を向けた。
(ナタニエル様、どうして剣を……)
私を守るために使うと言ってくれた、金色の光を思い出す。
私は震えながら、短剣を振るう彼の姿を見つめることしかできなかった。
剣の交わる音が幾つも響き、雨の中で鮮血が散った。
呻いた男が、ナタニエル様に短剣を振り上げる。
「こいつ……!!」
「――ナタニエル様……!」
男たちが振るった短剣が、彼を掠めた。
はらりと地に落ちた黒い外套。
彼の姿に、男達は青褪めた顔で立ち尽くした。
雨の降りしきる薄暗い中で、聖衣を纏うその姿は白く浮かび上がって見えた。
「こいつ、スフェールの大司教だ……殺したら神罰が下るぞ……」
「俺は降りる!」と叫んだ男が逃げ出し、ナタニエル様の姿を見つめていた他の二人も、逃げた男の後を追って姿を消した。
あんな男たちも女神を信じているのかと――呆然とする頭の中でそう浮かんだ。
「イーザ、怪我はありませんか」
振り返った彼が私の前に跪いた。
頬に触れた冷たい指先は、ひどく震えていた。
揺れる彼の眼差しに小さく頷くと、白い腕に包まれる。
まだ震えている私の体を、彼は包み込むように抱き締めた。
「ナタニエル様……」
助けに来てくれて――彼が無事で、本当に良かった。
降りしきる雨の中、私たちは抱き締めあった。
濡れた彼の聖衣は冷たいはずなのに、何故か温かく感じた――
そのとき、彼の袖が僅かに赤く滲んでいるのに気が付いた。
「ナタニエル様、お怪我を……」
その言葉に、彼が体をそっと離した。
血の滲んだ左腕を隠すと、彼は淡く微笑む。
「この程度、大したことはありません」
差し出された右手を取り、私はゆっくりと立ち上がる。
彼の手が背に添えられ、私たちは大聖堂の軒先へと移動した。
屋根の端と彼の白金色の髪から、水が滴っている。
「ナタニエル様、助けてくださってありがとうございます」
「何のご用だったのですか?」と問い掛けると、彼の眉が少しだけ動いた。
濡れてしまった手紙を出すと、彼は僅かに目を見開いた。
「ナタニエル様?」
名を呼ぶも、伏せられた瞳は私を映さない――
「ここは冷えます……中に入りましょう」
少し硬さを帯びた声音に、胸がざわめいた。
私たちは、寄り添いながら大聖堂へと入った。
水滴が白い床に幾つも落ち、私はすっかり濡れてしまった外套を脱いだ。
遠い雨音に、二人分の静かな靴音だけが響く。
薄暗い聖堂の奥で、燭台の炎に照らされながら女神像は佇んでいた。
(ナタニエル様の傷を……)
私は、彼の腕に手を翳そうとした。
けれど、父の言い付けを思い出す。人前で使ってはいけないという、あの言葉を――
(ナタニエル様は、ご自分には力を使わないのかしら……)
私は静かに手を握り締め、彼の腕にそっと触れた。
「ナタニエル様、手当てを致しますわ」
「かすり傷ですから」と微笑んだ彼を見上げる。
交わった視線に、彼の瞳の奥が揺れた。
燭台の炎が、静かに私たちを照らしている。
彼は一瞬だけ躊躇うように瞼を伏せると、私の腕を引き寄せた。
「イーザ……貴女が無事で、本当に良かった……」
絞り出すような掠れた声。
苦しいほどに抱き締められ、私はその胸に顔を押し付けた。
濡れた聖衣からほのかに漂う彼の香りに、安堵と言葉にできない感情が溢れる。
彼の腕が少しだけ緩み、私は再び彼を見上げた。
灯りに煌めく、赤紫色の瞳が私を見つめている。
「ナタニエル様……」
私たちは、女神像の前で瞬きも忘れたかのように見つめ合った。
そのとき、聖堂の奥で微かに靴音が響いた。
けれど、その気配に、私たちはまだ気付いていなかった――




