◇第五十五話 秘密の逢瀬と彼からの手紙
数日が経った頃――
ナタニエル様から手紙をもらった私は、彼に贈られた淡いラベンダー色のドレスを纏って大聖堂を訪れていた。腰には、指輪の色と同じ紫色のリボンが揺れている。
「ナタニエル様」
彼は、私を見ると嬉しそうに目を細めた。
午前の明るい陽射しが、ステンドグラス越しに降り注いでいる。
「アダルジーザ姫……よく、お似合いです」
淡く微笑まれ、私は思わず視線を落とした。何故か、急に恥ずかしくなってしまったのだ。
「今日は、大切なご報告があって……」
そう言った彼が、ふいに振り返った。
微かな話し声に視線を向けると、聖堂の奥から男性神官たちがやってくるのが見える。前に、大聖堂を案内してくれた神官の姿もあった。
「姫、こちらへ」
彼が私の手を掴むと、早足で歩き出した。
彼に連れられて入った部屋は、以前彼が私を助けてくれた小部屋だった。
(こんなに、狭かったかしら……)
おぼろげな記憶はひどく不確かだ。
格子窓と小さな木の椅子が一つある薄暗い部屋は、とても狭かった。
「ナタニエル様、お話とは……」
見上げると、彼は静かに後退った。とても狭い部屋なのに、壁に張り付くように立つ彼にひどく距離を感じる。
「アダルジーザ姫、来週から一緒にスフェールに来ていただけますか」
(来週……)
急な話に、私は僅かに視線を落とした。
私は、スフェールでどう思われているのだろうか――それがとても不安だった。
スフェールは神聖国だ。この国よりも、私への風当たりは強いかもしれない。
「父と話すことになりました。本来であれば、父と話を付けてから迎えに来るべきなのですが、この城に貴女を一人にするのが不安で……」
「父のことは、必ず説得します」とはっきりと言ってくれた彼の顔を見ることができなかった。
スフェール国王に会うことが正直恐ろしい。国王の唯一の後継である彼の相手がこの私であることを、易く許されるとは思えなかった。
「アダルジーザ姫……?」
「もし……もし――許していただけなかったら」
声が微かに震えた。言葉にしてしまうと、目の奥から涙が滲んできた。
彼が、私の手を両手で包んだ。
「そのときは、国を出ましょう」
信じられない言葉に、思わず顔を上げた。
彼は、真っ直ぐに私を見つめている。
「許されませんわ……」
私が首を振ると、彼は私を安心させるかのように笑った。
「この大陸を出ましょう。……私は、魔術には自信があるのです」
「魔術師になられるのですか?」と問い掛けると、彼は楽しげに微笑んだ。その表情を見ていると、魔術師となった彼と二人で生きていくのも、きっと幸せだろうと期待が膨らむ。
この大陸を出たら、どんな世界が待っているのだろうか――
「ですが……さすがに、今と同じような生活は、させられないかもしれません」と申し訳なさそうに付け加えた彼に、私は小さく笑った。
「ナタニエル様が一緒なら、どこでも幸せですわ」
そう言うと、彼は嬉しそうに目を細めた。
けれど、握られていた手はそっと離される。
「ナタニエル様?」
「……急かすようで、申し訳ありません」
「何か、嫌な予感がするのです」と小さく呟いた彼の頬に、思わず私は手を伸ばした。
「アダルジーザ姫……?」
再び、彼が一歩下がった。
「その……どうして離れるのですか?」
私を避けるような彼の距離が、胸をざわめかせていた。
彼はほんの僅かに目を見開くと、瞼を伏せた。
「あまり近すぎると、よくありません……」
(この間は、抱き締めてくださったのに――)
靄々とする胸の内に、私は彼を見つめる。
「もう……触れては、くださらないのですか」
私の問い掛けに、彼の顔が赤く染まる。
「触れる、とはどういった……」
「……抱き締めたり、とか」
「出来ません」
即座に返ってきた言葉に、私は言葉を失くした。
見上げると、彼の視線が逸らされる。
「貴女に触れると――きっと、抑えられなくなりますから……」
甘さを含んだ声は、掠れていた。
俯きがちに紡がれた言葉に、思わず頬が熱くなる。
そのとき、ノックの音が響いて、私たちは肩を揺らした。やましいことをしていたわけでもないのに、胸が早鐘を打つ。
珍しく怪訝な顔を浮かべる彼を見上げていると、穏やかな声が扉の外から響いた。
「カンデラリア大司教様、おいでですか」
私たちが小部屋を出ると、そこには神官バルバラが立っていた。
いつもと変わらぬ柔らかな微笑と、楚々とした佇まい。けれど、何故か胸がざわついた。
「アダルジーザ様……いかがなさったのですか」
「お加減が優れず、治癒を施していました」
私の代わりに答えたナタニエル様に、バルバラは目を細めた。
「そうですか……」
彼女の瞳が私の左手の指輪を捉え、私は思わず右手で覆い隠した。
「神官バルバラ。私はアダルジーザ様を送りに行きます。正午のお勤めの支度をお願いできますか」
「はい……仰せの通りに」
バルバラはいつものように穏やかな微笑を湛えたまま、美しい所作で一礼すると聖堂の奥へと姿を消した。
大聖堂を出ると、私たちは白い回廊を歩いた。
彼との距離は、一歩分開いている。
言葉は一言も交わさず、ただ静かな靴音だけが響く。
ひんやりとした風に、白い花の香りが漂った。
(もう、着いてしまったわ……)
皇后宮の前で私は立ち止まる。
ナタニエル様についてスフェールに行くと決めてからも、この城にいる間は安全のためにここに住まうようにと陛下は言ってくれた。
「ナタニエル様……?」
彼が、私の左手を掴んだ。
「帰したくない……そう、思ってしまって……」
淡く微笑むと、彼はゆっくりと手を離した。切なげな眼差しは、隠すように伏せられる。
(ナタニエル様……)
離された手に思わず指を伸ばすと、指先が絡んだ。
彼は一瞬だけ指を絡ませると、そっと解く。
離された温もりに、胸が切なく締め付けられた。
「アダルジーザ姫……ゆっくり、休んでください」
静かに微笑むと、彼は少しだけ俯いて聖衣を翻した。
私は、その後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた。
◇
昼下がりになった。
笑顔のアニタが早足でやって来て、私は顔を向ける。
「アダルジーザ様、お手紙がまた来ましたよ」
彼女は、嬉しそうに白い封筒を差し出した。
私は、彼がいつも使っているその封筒をそっと開ける。
『夕陽が沈む頃、大聖堂の裏でお待ちしています。 ナタニエル』
ふわりと、ほのかに甘やかな香りが鼻先をくすぐった。彼の纏う香りだ。
彼らしい、繊細で優美な文字をなぞる。
(今朝、会ったばかりなのにどうしたのかしら……)
「アニタ、夕刻に少し出かけるの。外套を準備しておいてくれる?」
「畏まりました」
そのとき、窓から吹き込んだ風に、花瓶に飾られた白桔梗が一輪散った。
「カンデラリア大司教様に、いただいたばかりなのに……」
アニタが、散ってしまった白い花びらを残念そうに拾っている。
――『何か、嫌な予感がするのです』
ふいに、彼の言葉が思い出された。
(何か、あったのかもしれないわ……)
私は、窓から大聖堂を見つめた。
その先で何が待ち受けているのか、私は想像もしていなかった――




