◇第五十四話 守るための力
私は、東の庭園を歩いていた。
柔らかな風が、花々と白いドレスの裾を揺らしている。
(ナタニエル様……)
庭園の向こうに聳え立つ大聖堂は、今日も美しく輝いていた。
白い封筒をそっと握り締めると、ふわりと微かな甘い香りが漂う。ナタニエル様からの手紙には『鐘が三つ鳴る頃に女神の泉で待っています』と綴られていた。
私たちの関係は、まだ公には出来ない。彼と頻繁に会うことは憚られた。
そのとき、密かに後ろを付いてくる影があったことに、私は気づいていなかった。
◇
(ナタニエル様……まだ、いらっしゃらないわよね)
まだ、鐘が三つ鳴るまでには時間がある。私は、泉の畔に腰を下ろした。
(心が安らぐわ……)
柔らかな風が泉の水面を揺らし、澄んだ光を弾いた。泉の奥に佇む女神像は優美に微笑んでいる。
あたりには、白桔梗の花が揺れている。その清らかな佇まいに、彼の姿が浮かんだ。
彼を待つこの時間も、愛おしく思える――
そのとき、草を踏む微かな足音が響いた。
「ナタニエル様……?」
私が振り返るのと同時に、白い影が音もなく視界を裂いた。
背に感じる草地の柔らかさに、白い花びらが舞い上がる――
「アダルジーザ王女……」
私に覆い被さったのは、エミディオだった。突然の出来事に声をあげることもできない。
「ああ、美しいな……貴女は本当に清らかだ」
「大聖堂に、よく通われているようですね」と薄く笑った彼に、体が硬直した。
彼の赤い瞳は異様な光を放っている。
(怖い……)
背筋が凍った。
伸ばされた腕を払いのけると、両手首を地面へと縫い付けられる。迫る彼の顔に、私は必死に身を捩った。
「嫌……ナタニエル様……!」
その刹那。視界が金色の閃光に覆われ――一瞬、世界が音を失った。
雷鳴のような音が響き渡り、低く呻いたエミディオが伸し掛かってきた。
その体を、白い脚が押し退ける。
(ナタニエル様……!)
彼は汚いものでも見るかのような目付きでエミディオを地面に転がすと、私を抱き起こした。
「イーザ、無事ですか?!」
何も言わずその胸に縋り付くと、彼が抱き寄せてくれた。
「うっ……お前は……」
呻きながら立ち上がろうとしたエミディオを、再び雷鳴が襲った。
低く体を曲げながら情けない声を上げたエミディオに凍て付いた眼差しを向けると、ナタニエル様は手を翳した。
「貴方の無作法な振る舞いに、女神もお怒りのようです」
彼の手のひらから金色の煌めきが立ち昇り、弾けている。
「今後、彼女に近付いたら――女神の元へ送って差し上げます」
表情を消したナタニエル様に、何か言いかけたエミディオは顔を青褪めさせ、ふらつきながら逃げ去っていった。
泉の畔に咲く白桔梗の花が、静かに揺れている。
「怖い思いをさせてしまいましたね……」
私が礼を言うと、彼は淡く微笑んだ。
「今の、お力は……」
「魔術です。……恐ろしかったですか」
少しだけ不安げな表情の彼に、私は首を振った。
「とても、綺麗でしたわ」
そう言って笑うと、彼は安心したように微笑んだ。
彼の力は、夜会の晩にも私を守ってくれた――
「この力は、貴女を守るために使います……大切な、貴女のために……」
その言葉に、小さく胸が鳴った。
私たちを、柔らかな風とほのかに甘い香りが包みこんだ。
泉の水面は煌めき、まるで何もなかったかのように静かに揺れている。
大聖堂の窓から密かに見つめる瞳があったことを、私は知らなかった――
◇
イーザを皇后宮に送り届けてから、大聖堂へと戻った私は重い息を吐いた。
(あの男……)
エミディオが彼女に触れようとしたのは、これで二度目だ。
泉の畔で彼女に覆い被さるあの男を目にした瞬間、思わず手に掛けようとしてしまった。
女神に仕える身でありながら――
私は手をきつく握り締めると、女神像の足元へと跪いた。
けれど、女神を見上げることは出来なかった。
祈りの形を組んだ手のひらには、僅かに血が滲んでいる。
(女神エルシリア様……私にも、本当にあなたと同じ血が流れているのならば、どうか――イーザを守る力を……)
私の神聖力は弱い。歴代の直系で、恐らく私だけが――
それでも、イーザが傷付けられたあの日、彼女の傷を癒すことが出来た。
彼女を傷付けた侍女たちの姿を思い出すと、未だに怒りに苛まれそうになる――けれど、この力に心からの感謝を抱けたのは、あの日が初めてだった。
「イーザ……」
(守りたい……彼女を傷付ける、すべてから――)
そのとき、視線を感じて私は振り返った。
「カンデラリア大司教様、お戻りだったのですね」
神官バルバラが、そこには立っていた。
いつもの微かな笑みに、その胸の内を測ることはできない。
彼女の弧を描いた瞳の奥に、暗い影が宿っているように見えて、私は少しだけ目を細めた。
僅かに冷えた大聖堂の空気に、どこか異様な気配を感じる。
それが、嵐の前触れのように思えてならなかった――




