◆第五十一話 聖杯を受ける者
私は、大聖堂の控えの間に佇んでいた。
窓辺からは柔らかな陽射しが差し込み、愛らしい白い小鳥が囀っている。
まるで、今日何も起きないのだと錯覚してしまいそうだ。
(まさか、この日を迎えるなんて……)
姿見には、小説のアダルジーザと同じ婚礼用の純白のドレスを纏った自分の姿が映し出されている。
侍女たちの噂を耳にして、大臣ザルマンは皇帝の暗殺を計ったとして処刑されたのだと聞いた。エミディオは北の塔へ幽閉され、ドロテーアは国へ帰ったそうだ。
(エメルリンダ……)
まだ、彼女が一人残っている。
窓から入ったひんやりとした風に、レースのヴェールがふわりと靡いた。
「イーザ」
低い声が響いた。
振り返ると、そこにはテオバルド様が立っていた。
彼は、黒い正礼装に金のサッシュと柘榴石が輝く金の星章を着けていた。纏っているのは、黒ではなく深紅のマント。
私と同じで、小説のテオバルドの装いと全く同じだ。
「愛しいイーザ。お前は、女神よりも美しい」
「畏れ多いことを……天罰が下ってしまいますわ」
微笑んだ彼に、私は俯いて重ねた手を握った。
歩み寄った彼が、私の震える手をそっと握る。
「何も心配は要らない。……どうか、私を信じてほしい」
真っ直ぐな赤い瞳に、私は小さく頷いた。
「イーザ、これを」
彼の手に煌めいているのは、柘榴石のネックレスだった。金の鎖に、大粒の柘榴石がひとつ輝いている。
「これは……」
「これなら、普段から身に着けられるだろう」
薄く笑んだ彼が、私の首に手を回した。
「思った通り、よく似合う……儀式が終わっても、身に着けていてくれるか」
「ええ、ずっと……外しませんわ」
私がそう答えると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
少年の頃の面影を残したその笑顔が、ひどく愛おしく感じた。
(このネックレスは、小説では着けていなかったわ……)
初めて見るネックレス――
美しく煌めく柘榴石を、私はそっと握り締めた。ひんやりとした宝石が不思議と温かく感じ、勇気をもらえる気がした。
「皇帝陛下、アダルジーザ様。お時間でございます」
廊下から響いた神官バルバラの声に、私たちは見つめ合った。
彼から差し出された手を取って、私は歩き出した。
◇
静寂が満ちる聖堂は、淡い青色の澄んだ光に照らされていた。
(ナタニエル様……)
祭壇の上。白い女神像の前に立つ彼は、私を眩しそうに見つめてからその瞼を伏せた。
その姿に、胸の奥がじわりと締め付けられる――
「誓いの口づけを」
ナタニエル様の声が響いた。
聞いたことのない淡々とした彼の声音に、胸が微かにざわめく。
彼の傍らにある聖杯が煌めき、心臓が鳴った。
「イーザ」
微笑んだテオバルド様が私の肩に触れた。
屈んだ彼の顔が近付き、私は瞼を閉じた。
けれど、唇に触れた熱は感じられなかった。
先ほど目にした聖杯の残像が、瞼の裏に焼き付いて離れないのだ。
瞼を開くと、赤い瞳が見下ろしていた。
視界の端に、金色の輝きがちらつく。
もし、本当に毒が入っているとしても、私には癒しの力がある――いや、そもそも飲まずとも、口にしたふりをすれば良いのか。
「イーザ」
彼が金の冠を手にし、私の頭にそれがそっと乗せられた。
(もうすぐだわ……)
私は、震える手を押さえるように握り締めた。
「……祝福の聖杯を」
聖杯を手にするナタニエル様の声は微かに震えていた。
私は、腰の前で重ねた手を強く握り締める。
テオバルド様が、受け取った聖杯を参列者に向かって高く掲げた。
「これをもって、アダルジーザは我が后となる!」
あの瞬間が訪れる――
ステンドグラスから差し込む陽射しに聖杯が煌めき、私は静かに息を呑んだ。
「イーザ」
こちらを向いた彼が微笑み、私に聖杯を差し出す。
小説の通りなら、この聖杯には毒が入っている。飲んだふりをすればやり過ごせるはずだ――
私の震える指が届く前に、彼が聖杯を持つその手を不意に止めた。
聖杯から僅かに果実酒が零れ、白い床に赤が落ちる。
静かな赤い瞳が私を見つめた。
それが何を意味するのか、私はまだ知らなかった。
(テオバルド様……?)
彼の瞳が薄く笑んだ。
激しく打ち続ける心臓に、私は彼を見上げる。
そのとき、彼が聖杯を煽った――
(駄目……!!)
「テオバルド様!!」
叫んだのは、私ではなかった。
ガタリと音を立てて立ち上がったのは、最前列に座っていたエメルリンダだった。
顔をひどく強張らせた彼女は、ドレスの裾を強く握ったまま立ち尽くしている。
聖堂が、ざわめきに満ちた。
(エメルリンダ……彼女が、私を……)
唇から聖杯を離したテオバルド様が、エメルリンダを見て薄く笑った。
その瞬間、あたりの空気が冷えていくように感じた。
彼は、聖杯を手にしたまま祭壇を静かに降りると、エメルリンダの前へと進んだ。
冷たい靴音が止まり、彼女のドレスの裾が強く握られる。
「これが欲しかったのだろう?」
低く落とされた問いかけに、エメルリンダは青褪めた顔を上げた。
「許す。受けるが良い」
エメルリンダの眼前に差し出された聖杯。
彼女は震える指でそれを受け取った。
「皇帝、陛下……」
彼女は、涙を零しながらテオバルドを見上げた。
けれど、彼は一言も発しなかった。
その冷たい横顔は、まるで死を見届けにきた美しい死神のようだった。
小さく喉を鳴らすと、彼女は震える手で聖杯を口にした。
淡い色の唇から低い呻き声が漏れ、聖杯が鈍い音を立てて床へと落ちる。
ペールブルーのドレスの裾が、みるみる赤く滲んでいく。
血を吐きながら倒れた彼女に悲鳴が上がり、私は祭壇から降りて駆け寄った。
「イーザ」
彼が私の手を強く掴んだ。
見上げると、彼は静かに首を振った。
(そんな……黙って、見ていろと言うの……)
その時、背後から足音が幾つも響いた。
「ナタニエル様……」
彼は私を見て淡く微笑むと、倒れているエメルリンダの傍らに跪いて手を翳した。
彼の周りにいる神官たちも同じように手を翳し、彼女が眩い光に包まれる。
そのとき、呻いた彼女の額に、黒い刻印のようなものが滲んだ。
(あれは、一体……)
僅かに息を呑んだナタニエル様が、テオバルド様を振り返った。
無言のまま見つめ合う彼らに、胸がざわめく。
「あれは、邪術の刻印では……」
「一国の王女が、なんと恐ろしいことを……」
ざわめく中で参列者たちが囁き合っている。
まだ淡い光に包まれている彼女は、意識を失ったまま神官たちに運ばれていった。その額に禍々しい刻印を刻んだまま――
青褪めた顔のザッフィロ王国の一行が、その後に続く。
(私たち、助かったのよね……)
傍らに立つテオバルド様を見上げると、そっと抱き寄せられた。
私は、その温もりに寄り添う。
この先ずっと、この人の傍で生きていく――私は、心の中で静かにそう誓った。
◇
夕陽が沈む頃――
大聖堂の女神像の前では、二人の男が向かい合っていた。
「ナタニエル、おかげで助かった。礼を言う」
「いえ……彼女に何かあったらと、恐ろしくて」
「まさか、貴方が口にするとは思いませんでしたが」とナタニエルは小さく笑った。
「私が口にすると伝えて、神官を手配してもらえなかったら困ると思ってな」
冗談交じりに言ったテオバルドに、ナタニエルは呆れたように笑いかけた。
「この聖域を穢すような真似はしませんよ。……それに、彼女の特別な日ですからね」
ナタニエルは淡く微笑んだまま、切なそうに瞼を伏せた。
「テオバルド……イーザのことを任せましたよ」
二人の視線が交わる。
「絶対に守って、幸せにしてください」と告げたナタニエルに、テオバルドは笑い返した。
「ああ……必ず」
こうして、『囚われの王女アダルジーザ』の結末は書き換えられた。
淡い薄紅色を帯びた光が、二人を柔らかく照らしている。
微笑を湛えた白い女神が、静かに彼らを見つめていた――




