◆第五十話 決意
微かな光が、瞼をくすぐった。
「ん……」
頬に触れた柔らかな熱に、私は身動ぎをした。
瞼を開くと、そこにはテオバルド様がいた。
「まだ寝ていろ」
低く囁かれた声。
彼の部屋のカーテンは、まだ引かれたままだった。その隙間から、眩い光が細く差し込んでいる。
淡く浮かび上がった彼の胸板に、私は息を止めた。スラックスに黒いシャツを羽織っただけの姿から、慌てて目を逸らす。
もう起きる時間だというのに、少し気だるい体を起こす気にはなれなかった。
「長く湯にいたからな……のぼせたんだろう」
「気を失うのが得意だな」と彼は薄く笑った。
(私、ゆうべ湯殿で……)
昨夜のことを思い出し、熱くなった私の頬に彼が触れる。形の良い唇が目に入り、私は思わず視線を落とした。
額に、彼の唇が落とされる。
「今日はゆっくり休んでいろ……侍女も心配している」
「アニタは……」
彼女は果実水を用意すると出て行って、それから――もしや、湯殿で口づけを交わしているところを見られたのだろうか。
「侍女は薬を嗅がされ眠らされていた。念の為、今日は休ませている」
「薬?! アニタは大丈夫なのですか?」
「調べさせたが、問題ないものだそうだ……お前は何も心配しなくて良い」
彼の大きな手が、私の頭を撫でた。
その眼差しの奥には、柔らかな光が灯っている。
「私のこと以外、すべて忘れろ」
頬に口づけられ、そっと抱き寄せられた。
ふわりと漂った甘さを帯びた深い香り。着せられているネグリジェにも、その香りが移っている気がする。
「イーザ……」
私は、何も言わず彼の胸に頬を寄せた。
温かな彼の腕に包まれると、安堵するのと同時に胸が甘く締め付けられる。
寝台の脇のテーブルには、銀の短剣が煌めいていた――
◇
皇帝の執務室には、どこか冷えた空気が漂っていた。
「エミディオは、北の塔だ」
テオバルドから低く放たれた言葉に、バルデスは僅かに眉を顰めた。
「皇帝陛下、あの塔は――」
「斬っても良かったが、一応あれでも弟だからな……恩情だ」
伏せられたその瞳の色は見えない。
グラナード帝国にある北の塔は、一度入れば出ることの叶わない塔だ。出られるのは唯一、この世から旅立つときだけ――
「大臣はいかがされるのですか」
「ああ、ザルマンはもう処理済みだ」
「え? 処理と仰りますと……」
「刺客を放ったのも、やはりあの男だった」
「妙な動きをしていたから調べさせていたが、ザッフィロの高官と通じていたようだ……エミディオも、あれに唆されたと吐いたからな」と薄く笑んだテオバルドに、バルデスは微かに身震いした。
「ドロテーア王女殿下はどうなさるおつもりですか」
バルデスの問いに、テオバルドは視線を落とすと指を組んだ。
「他国の王太子を紹介することになった」
「ですが、あの方は皇帝陛下を――」
「側妃にしろと言うのか」
鋭い眼差しに遮られ、バルデスは口を噤んだ。
ドロテーアは、エミディオとザルマンの企みをテオバルドに明かし、テオバルドの妃になることを望んだ。傍にいられるなら側妃でも構わないと――
だが、テオバルドはそれを退けた。
「私はイーザ以外は要らん。……それに、自分を見ることもない男の側妃になるなど、あまりに酷だろう」
静かな執務室に、テオバルドの低い声が落ちた。
彼の横顔からいつもの冷酷さは消え失せ、憂いを帯びていた。
「バルデス。婚礼の儀を行う」
唐突に発された言葉に、バルデスの片眼鏡の奥の瞳は丸くなった。
不敵な笑みを浮かべたテオバルドの銀の髪を夕陽が照らしている。
「イーザを、我が后とする」
揺るぎない声音と眼差しに、バルデスは言葉を失った。
「準備には……二週間あれば十分だな」
「少し出てくる」と立ち上がってマントを翻したテオバルドに、バルデスは思わず叫んだ。
「皇帝陛下、どちらに行かれるのですか?!」
「大聖堂だ」
テオバルドが寵姫の元へ行くのだと思っていたバルデスは、強張らせていた肩を下ろした。
「戻ったら、書状の準備を始める。……頼りにしているぞ、バルデス」
「皇帝陛下……」
部屋を出て行ったテオバルドに、バルデスはため息を吐いた。
けれど、その横顔は淡く微笑んでいた。
◇
テオバルドは、夕陽に照らされた大聖堂を訪れていた。
美しい微笑を湛える女神も白い床も、夕焼けの色に染まっている。
「何の用ですか」
静かな聖堂に、ナタニエルの低い声が落ちた。
淡い微笑みを浮かべる彼の瞳は、微かに冷たい色を滲ませている。
「婚礼の儀を行うことにした」
「……正気ですか」
鋭い眼差しを向けるナタニエルを、テオバルドは真っ直ぐに見つめる。
「ナタニエル。お前に、頼みがある……」
その言葉に、ナタニエルは瞳の奥を微かに揺らした。
向かい合う二人を、薄紅色に染まる女神が静かに見つめていた。




