◆第四十九話 重なる熱
揺らめく湯気と薔薇の香りが立ち込める湯殿――
扉を開いて入ってきたのは、エミディオだった。
慌てて置いてあった薄絹を手繰り寄せると、籠が倒れ薔薇の花びらが舞い散った。
エミディオは私に目を留めると、時を止めたかのように立ち尽くした。
私が傍らに置いていた短剣に手を伸ばすと、彼は薄く笑んだ。
「それ以上……近付かないでくださいませ」
私は湯に浸かったまま薄絹で体を覆い隠すと、短剣を構える。
「アダルジーザ王女……美しい肌に傷が付いてはいけません」
彼はマントを外し上着を脱ぐと、湯船へと入ってきた。湯の中を進んでくる彼に、私は後退る。
けれど、必死に振るった手首はすぐに掴まれ、短剣は湯船へと沈んでいった。
(テオバルド様……)
浮かんだのは、彼の顔――
警鐘のように心臓が打ち続けているのに、声は出なかった。
湯が滴る音が響く。
微かな音を立てた彼の喉に、私は身を竦ませることさえできなかった。
「本当は、私の部屋までお連れしようと思っていたのですが……」
両手首を掴んだ彼に、私は必死に身を捩った。
(誰か……)
その時、突然に呻いたエミディオが湯船に沈み、私は後ろへとよろけた。
「遅くなり、申し訳ありません」
淡々とした低い声が落ちた。
「ティムール卿……」
いつの間にか、ティムール卿が扉のところに立っていた。
彼は小さな木筒のようなものを懐に収めると、沈んだエミディオを湯船から引きずり上げた。襟元を掴み上げられたエミディオは、気を失っているようだ。
「ティムール卿……助かりましたわ」
彼は無表情で浅く一礼すると、気絶したエミディオの両手首を後ろ手に拘束し始める。
私は湯に浸かったまま、震える身体を抱き締めていた。
「イーザ!!」
その時、激しい靴音と共に、開かれた扉から黒い影が飛び込んできた。
「テオバルド様……」
思わず滲んだ涙。
私を見た彼が息を呑んだ。
「……ティムール、これは――」
彼は、ずぶ濡れの姿で気を失っているエミディオを呆然と見つめた。その視線が、脱ぎ捨てられたマントと白い上着に落ちる。
「アダルジーザ様に、無体を働かれていました」
淡々と落とされた言葉に、テオバルド様は瞼を伏せた。
「……牢に入れておけ」
「御意」
ティムール卿は、エミディオをマントで包んで担ぐと扉の外へと消えた。
「イーザ……」
彼の低い声が、静かに響いた。
いつの間にか燭台の炎は消え、薄暗くなった湯船には薔薇の花びらと満月が揺らめいている。
私は、湯の中で薄絹を手繰り寄せたまま彼を見上げていた。
カチャリ、と小さな音が響き、彼の黒いマントが白い床へと落ちた。柔らかな水音が響いて、彼が湯船へと入ってくる。
私は、進んでくる彼の姿をただ見つめることしかできなかった。
「イーザ」
彼の脱いだ黒い礼装に包まれる。
見上げると、彼の濡れた手が私の頬に触れた。
その温もりと眼差しに、胸が締め付けられる。
「……触れられたのか」
落ちた低い声。
赤い瞳の奥は、静かな炎のように揺らめいている。
「……手首を、掴まれただけですわ」
そう静かに答えると、彼が私の左手首を取り唇を寄せた。
触れた熱と交わった視線に、落ち着き始めていた鼓動が騒ぎ始める。
「こちらもか」
彼は右の手首にも口づけを落とした。濡れた彼の髪から、湯が滴り落ちる。
「……他には」
低く、感情を押し殺したような声。
私が小さく首を振ると、彼は何かを堪えるように瞼を伏せた。
「すまなかった……怖い思いをさせたな」
「テオバルド様……」
彼は、揺れる眼差しで私を見つめた。
けれど、再び頬に触れようとした彼の手は、躊躇うように離された。
何故か寂しい気持ちになった私は、彼の手に縋るようにそっと触れる。
「イーザ……?」
(どうして……)
「触れては……くださらないのですか」
見上げると、僅かに見開かれた彼の瞳があった。
「だが……」
彼はそう言って、言葉を呑み込んだ。
その温かな腕で抱き締めてほしい気持ちが、抑えられなかった。
「とても、恐ろしかったのです……テオバルド様以外に、触れられるかと思うと……」
彼は小さく息を呑み、その手で私の頬に触れた。
熱を帯びた眼差しを私は見つめ返す。
彼の濡れた指先がそっと頬をなぞり、唇へと触れた。
「……良いのか」
掠れた声が落ちた。
私はただ、彼を見上げた。
ここで起きた忌まわしい記憶を、愛しい彼との想い出に塗り替えてほしかった――
「イーザ……」
唇が、そっと重ねられた。
両頬に触れた彼の手が、とても温かい。
始めは躊躇いがちに触れていたその唇は、幾度も重なるうちに熱を帯び、深くなっていった。
「テオバルド様……」
漂う薔薇の香りと重なる吐息に、私たちは見つめ合う。
「……私のイーザ……」
甘く、掠れた囁きが落ちた。
再び深く口づけられて、もう彼以外何も感じられなかった。
天窓から覗く満月が、静かな水音に揺らめいていた――




