副会長の七々瀬遥輝
かあかあ、ぴぴじゅう、と窓の外で鳥が鳴く。黒々とした山の色が朝日に照らされ、緑を増す。うっすらとかかる霧の合間を日差しが通り、男子寮の窓にかかるカーテンの隙間から部屋へと入り込む。
デスクライトの強い光をうけて、ノートに計算式を書いていた手が止まった。シャーペンを置いた指先が窓のカーテンを捲る。少し曇った窓の白い水滴に七々瀬はカーテンから指を離した。
壁にかけた時計は五時半に針が差し掛かるところだ。軽く目を閉じ、七々瀬はノートの上に置いたペンを手にして開いた問題集に視線を走らせる。
長い指の下に置かれた参考書には、数Ⅱと印字された黒と赤の文字があった。紙を擦る黒炭とポリマーの芯が音を立てる。
七時を過ぎると、寮内に温かい匂いが漂い出す。魚を焼き、味噌を立てる一階の食堂からのぼる匂いに七々瀬はノートを閉じた。机の上に広げた参考書や教科書、問題集をまとめてベッドの下に片付ける。
部屋に備え付けられている浴室へ入るとシャワーを浴び、髭を剃って整える。スキンケアを済ませ、黒のスラックスを履いた七々瀬は手に取った青と白のストライプのシャツへ視線を落とす。
「……少し、並んで歩くには浮くかな」
ぼそ、と呟くと七々瀬はシャツを腕にかけて部屋へと戻り、洗いざらしのシャツと白のTシャツへと変える。
こんこん、と部屋の扉が鳴った。
七々瀬が扉を開けると、高城川が頭を下げる。
「おはようございます。七々瀬さん、朝ごはんの準備が出来ました」
高城川の横にはキャリーバッグがあった。
「ありがとう、高城川くん。もう、出るの?」
「はい。父がもう迎えに来ています」
四月を越えて慣れた様子の高城川は七々瀬を見返して頷く。それを見下ろして、七々瀬は微笑む。
「節度を忘れないよう、楽しんで」
大きく口を開き、返事をしようとした高城川は一瞬息を止めると、はい、と落ち着いて声を出した。高城川は頭を下げると、ごろごろと、木の床の上をキャリーバッグを転がして立ち去っていく。
部屋を出た七々瀬が扉に鍵をかける。小さな金属音が扉の奥で鳴る。ポケットへ鍵を入れた七々瀬が踵を返して、向かった先は芳賀山の部屋である。
扉を叩くと、ほどなくして芳賀山が顔を出した。芳賀山の白いシャツと、黒に近い茶色のスラックスには皺ひとつない。
「おはよう、七々瀬」
そう言った芳賀山のボタン一つ緩みのないシャツの襟元に七々瀬は視線を落とすと、口を開く。
「おはよう、芳賀山。高城川くんが用意してくれているよ」
「そうだね、行こうか」
芳賀山は開いた扉を閉める。七々瀬が二歩下がると、鍵をかける音が響く。
「七々瀬」
芳賀山の手の中で、鍵とキーホルダーが遊ぶ。呼ばれて視線を上げた七々瀬の背に芳賀山の手が回る。服にすら触れないその手に押され、流れるように歩き出す。
居間に用意されていた食事は、まだ湯気が立っている。皮が香ばしく香る焼き鮭、豆腐の味噌汁、いくつかの小鉢と白い米がトレイの上に並ぶ。
芳賀山との朝食を終えた七々瀬は歯を磨き、約束の時間の十分前に三階へと降りていく。
♔ ──────── ♚
帰省を考えている生徒たちの荷物が居間のソファの周りに雑然と置かれ、並ぶ部屋の扉は開いている。奥の洗濯機とトイレのある共有スペースからは諍う声が響く。
七々瀬が段板をおりると同時に、冷蔵庫の前で他の生徒と何事か話し合っていた三ツ橋が顔を上げる。彼は急いで開いていた黒のウィンドブレーカーを閉じ、足早に共有スペースのある奥へと向かう。
七々瀬が足をひとつ、踏み出す。
開いたままの部屋から飛び出してきた生徒が居間に走ってきた。
「あと十分で、バス来るって!急い……」
眉を顰めた七々瀬と目が合った生徒は足を止める。
「七々瀬……さ、ん」
そう言った生徒の声に、居間の生徒たちの目が七々瀬へと向く。騒めく場の音が冷える。七々瀬は顰めた眉を緩めると小さく息を吐く。
「落ち着いて、よく、行動をするようにお願いします。先輩、帰省はお気をつけて」
七々瀬の見下ろす視線が生徒を突き刺す。
「お、はい……おお」
返答を聞いた七々瀬は荷物の置かれた居間の前へと足をすすめ、書棚の前に立つ。荷物を手に持った生徒たちが七々瀬に、いってきます、と告げて階段をおりていく。その度に七々瀬は麗しい目元を細めて、言葉を返す。
そうしていると、三ツ橋とともに男子生徒が七々瀬の元にやってきた。
「おはようございます、七々瀬さん。橋野くん、呼んできました」
太腿の横にびたりとつけた三ツ橋の指先がハーフパンツに皺を作る。三ツ橋の背後にいる橋野へ七々瀬は微笑むとすぐに、三ツ橋へ顔を向ける。
「おはよう、三ツ橋くん。ありがとう、助かったよ」
七々瀬はそう言うと、三ツ橋へと向き直る。
「いえ、ゴールデンウィークなんですがメンバーが今日から不在になり……なるんだ」
頷いた七々瀬は、三ツ橋を見下ろす。
「……それで食事とアイロンをできないので……」
「大丈夫、心配しないで。授業がないからね。いつもありがとう」
白い手が三ツ橋の肩を叩く。三ツ橋の耳が朱に染まった。
「そんな……、あ、僕からはそれだけ。では」
頭を下げた三ツ橋に頷くと、彼は冷蔵庫の前にいた生徒のところへと戻っていく。七々瀬は橋野の腕に手をあてた。
「おはよう、私服は初めて見る」
赤いチェックのシャツとクリーム色のバミューダパンツを着た橋野は、首に手を当てて俯いた。
「おはようございます……」
「よく似合ってるよ」
銀のネックレスをかけた橋野の首が赤く染まる。七々瀬は腕に手を当てた指先を下ろして、橋野の手をとった。
「七々瀬さんもかっこいいです」
俯いていた橋野の顔が上がり、濡れた目が七々瀬を見る。
「ありがとう」
そう言うと、七々瀬は橋野の手を引いた。
「初デート、楽しみだね」
橋野は頷き、七々瀬の手を握り返す。白い手に、杏色の手が重なっていた。
♔ ──────── ♚
バスを二本乗り継いだ先にある街は登山道に繋がっていることもあり、カフェや土産屋などで大きく賑わいがある。古高辿学園から帰省する生徒たちも迎えを待つ間に、買い物をしている。観光客に混じって菓子箱の入った紙袋を下げて歩く。
青い空に浮かぶ太陽が照らす街は、山間にある古高辿学園とは違って陽気に満ち溢れていた。
「七々瀬さん、こんにちは」
「こんにちは」
通り過ぎる生徒たちに七々瀬は挨拶を返す。立ち寄った和風の雑貨が溢れる店では、店主に声をかけられた。
「あら、七々瀬くんじゃないの。昨日は招待チケット、わざわざありがとうね」
「とんでもありません。お時間を作って下さり、ありがとうございました」
店主に頭を下げると、七々瀬は柔らかに微笑む。
「るこてん祭、土曜日の駐車場の貸出は任せてね。そういえば今日、芳賀山くんは?」
「芳賀山は寮で、曽祢と待機しています」
「あはは、曽祢くんと!芳賀山くんも大変ねえ」
どこかへ立ち寄る度に、七々瀬に声がかかる。橋野はその度に、七々瀬の背から一歩、二歩と距離をとった。
話を終えて、七々瀬はすぐに橋野の元に戻る。雑然と並ぶキーホルダーのひとつを手に取っていた橋野に身を寄せた。
「気に入ったの?」
七々瀬は、小さく囁く。
「七々瀬さん……」
「記念に買おう」
橋野の杏色の手から、七々瀬はそっとキーホルダーをとった。店員が立つレジに並んでいると、店主が七々瀬の元に小さな紙袋を持って手招きをする。
七々瀬はその仕草に、眉を下げて会釈すると店主は手を振って奥へ引っ込んでいく。
購入したキーホルダーを持って橋野の元へ戻る。七々瀬は橋野に小さな紙袋に入ったキーホルダーを手渡す。
「……あ、ありがとう……」
橋野は手のひらの上にあるそれを握り込む。
「初デート記念だね」
七々瀬は柔らかくそう言うと橋野の背中に手を当て店を出た。昼を過ぎようとしたその時間は、古高辿学園生が減ったものの、飲食店の前は観光客で賑わっている。
明るい日差しの中、橋野は赤いシャツを握って七々瀬を見上げた。
「……七々瀬さん、あの、この先にあるカラオケにランチがあるって」
顎を引き、七々瀬は橋野を連れて店の前から広場へと向かって歩き出す。
「生徒会からのプリントは見た?」
「え、あ。はい」
「ゲームセンターやカラオケ等への入店は罰則の対象となると明記してある」
橋野の喉が動く。七々瀬は彼の背中に当てた手で、赤いシャツを撫でた。
「君、古高辿学園に入ってから行ったの?」
磨かれた革の靴先が、音もなくコンクリートの上を滑る。
「行ってません、俺、七々瀬さんと二人になりたかっただけで、行ってません」
橋野が、足を止めて七々瀬の腕を掴む。彼の爪が七々瀬の洗いざらしのシャツへ食いこんだ。その手を、七々瀬は振り払うことなく頷く。
「……そう、じゃあ、寮でゆっくり食事をしよう」
平坦な柔らかい声音で七々瀬はそう言うと、視線を橋野の掴んだ腕に落とす。
「橋野くん」
七々瀬に名前を呼ばれ、橋野は手を離した。ワックスで光る前髪を橋野は指で押さえ、顔を伏せた。
「あの、さっきカフェにでっかいパンケーキがあるって書いてありました。俺、行きたいです」
女性の笑う声が通り過ぎ、足音がいくつも整備された路面を鳴らす。煌々と照りつけている太陽の浮かぶ青い空は、白い雲が散り散りに流れている。
七々瀬は俯いた橋野に頷く。
「君がそう言うなら行こう」
顔を上げた橋野を、もう、七々瀬は見ていない。
「いいところに、古高辿学園の七々瀬くんだよね。こっちの警備員の配置って、どうするかいつ決まる?」
ポロシャツにエプロンを着けた青年に、声をかけられていた。七々瀬は会釈をし、橋野に背を向ける。要件を済ませ、カフェの列に並んだのは十分後のことだった。
並んですぐに、橋野は七々瀬に繋がれた手を引く。
「……もう、帰りますか」
カフェの列を眺めて、そう言った橋野に、七々瀬は顔を向けた。
「疲れたかな、ごめんね。るこてん祭の協力もあって、時間がとられてしまった」
「いいんです。七々瀬さん、忙しいんで……」
ぽつぽつと呟く橋野に、七々瀬は長い列に目を向けると彼の手を握り直す。白い指が、橋野の指の間に滑り込む。
「ありがとう」
七々瀬はそう言うと、橋野の手を引いてバス停へと歩き出した。
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バスを降りてすぐ、木々の陰りに冷えた山の空気が包む。整地された道が古高辿学園に続く。畝るその道を歩きだそうとした七々瀬だったが、橋野はその繋いだ手から力を抜いた。
バスの遠ざかる音と排気ガスの臭いが山の空気を乱している。
七々瀬からすり抜けた橋野の指先は手の中に握りこまれる。振り向いた七々瀬に、彼は真っ直ぐに視線を向ける。
「……俺……」
唇が、ぽっ、と音を立てて開き、橋野は呟く。
「どうしたの」
七々瀬はその目を見返す。
「俺、辛くてもう、無理です。ごめんなさい」
そう言った橋野の目が揺らぐ。七々瀬は唇を薄く開くと息を吸い込み、頷いた。
「ごめんなさい、七々瀬さん」
「大丈夫、謝らないで」
柔らかくそう言うと、七々瀬は橋野の肩を撫でる。
「……キーホルダー、辛いなら、僕が預かろうか」
途端に橋野の肩が揺れて、小さな紙袋があるバミューダパンツのポケットを彼の手が押さえた。そうして、首を振った橋野が、ありがとうございました、と言って七々瀬の手から離れて小走りに道を走っていく。
赤い、チェックのシャツが揺れる背中を七々瀬は見送った。
「少し、時間を空けて帰るべきか」
赤い色が消えてもなお、七々瀬はバス停の前で立っている。




