適切な処理の方法
十九時を過ぎ、月が雲の合間で滲み出る光を暗い夜空に灯す。グランドライトの淡い光が雨で色濃くなった地面を浮き上がらせる。
七々瀬の手が、燻銀の凹んだ引手から離れて太腿の横に落ちる。閉まった校舎の引戸は、木のスリットにあるガラスから暗い靴箱が静かに並ぶ様を見せていた。
磨かれた革靴の先端が、地面の上を流れるように滑る。月とグランドライトの照らす道には濡れた新芽の匂いに混じって土が香りたつ。
肩にかけたスクールバッグを、七々瀬は指へ引っ掛ける。寮へと続く道の奥から、足音が聞こえてきた。
踵を鳴らし、地面を踏みしめる音だ。長い足と乱れぬ濃紺のブレザーが、七々瀬の前に近づく。
「王子様、迎えに来たよ」
芳賀山の白い顎が、冷えた山の風の中で動いた。ポールライトの光が照らすうねる道の奥は木々の黒い葉の下にある。
「今年のるこてん祭についての資料が顧問から来てるよ、会長」
足を止めることなく、七々瀬は芳賀山の元に歩く。芳賀山は七々瀬が横に来ると同時に身を翻し、寮へと続く道を進む。
七々瀬と芳賀山の肩が、高低差なく並ぶ。
「曽祢先輩の去年の言葉のおかげかな」
芳賀山がそう言うと七々瀬が頷く。
「そうだね、それと風紀委員会と学級委員会の分も資料室から出しておいたよ。花山さんには前年度の会計資料と大まかな流れは伝えているから安心して」
「うん、ありがとう」
「明日からの昼休みの放送については、高城川に一任している」
寮の暖かい明かりが道へ広がる。芳賀山の手が七々瀬の背に触れる。
「かっこいい副会長がいて、ぼくは嬉しい」
柔らかい声音に、七々瀬は足を止めた。芳賀山が背に当てた手から一歩、音もなく七々瀬は体を引く。
「僕も頼りになる会長がいて嬉しいよ」
七々瀬がそう言うと、芳賀山の目が僅かに開いた。一重の瞼が丸く形をつくり、瞳が寮のポーチライトで光を帯びる。その目に、七々瀬は眉を上げた。
「……君、僕が言うと驚くんだね」
「意外と可愛いことを言うから、驚くよ」
眉を下げ、芳賀山の頬が緩む。彼の唇から歯が覗く。
「芳賀山」
短く七々瀬は名前を呼ぶ。平坦な響きというのに、芳賀山は緩んだ頬をそのままに寮の扉を開く。
男子寮の四階にある居間には、豚の角煮をメインとした食事が既に置かれていた。居間のテーブルには、高城川が座っていたが、芳賀山と七々瀬に気づいて席を立つ。
「待たせたね。準備をありがとう」
芳賀山がそう声をかける。
「高城川くん、すぐに着替えてくるよ。もう少しだけ、待っていてね」
七々瀬が、穏やかな声音でそう言うと高城川は、はい、と喉の奥で答えて、ただ、料理を箸で口に運ぶ。
♔ ──────── ♚
その翌日、放課後。
芳賀山による資料室の案内を高城川は受けたのだ。さらには生徒会室の壁面書棚の整理、書類の把握のための分厚い資料を幾つも腕が抜けるほどに渡された。
頭を抱える高城川が花山を見ると、彼女は椅子に腰を反らして座っている。
分厚い会計資料とともに、通帳を数冊、印鑑、各委員会予算資料を七々瀬が抱えて持ってきていたのだ。
「会計は、大変だろうから僕にいつでも声をかけるといいよ。資料では、把握できないところがあるからね」
七々瀬は、二重の麗しい目を細めて花山の座る席のテーブルへ重いファイルを音もなく置く。
「……そう、ですね。資料では把握できない……」
「僕も先輩方に助けてもらったから、できる限り君を助けるよ」
七々瀬はそう言うと、花山の座る椅子の黒い布地の背もたれに手を置く。花山の肩が震え、その目が山と積まれたファイルを見ている。
「ありがとうございます」
七々瀬は花山の言葉を聞いて、頷いている。それを横目で見ていた高城川は、静かに目を閉じる。
芳賀山もまた、高城川に言っていたのである。
「いつでも、聞きにおいで。君ができると信じているけど、何かあったらすぐに助けるよ」
柔らかく、優しい言葉。
高城川と花山は揃って、山となるファイルへ手を伸ばす。開いたファイルには文字が並ぶ。数字が並ぶ。古高辿学園における生徒会の役割の重さがそこにある。
ファイルを捲っている間にも、声がかかるのだ。
「高城川くん、花山さん、六月の第一週の週末には、るこてん祭があることは伝えたね。それまでに準備室の件は対応しておいて」
芳賀山から新役員の就任式前に頼まれていた内容だ。
「ゴールデンウィークが始まる前に、各クラスに配布する注意事項の作成をお願いするね」
高城川の前に並ぶファイルを手に取り、芳賀山が前年度の書類を提示する。
「るこてん祭は、大きな予算が動くから警備員の配置もそうだけど、招待客の予算、大まかな物品の一覧を確認しておいて」
七々瀬が、花山に一枚の書類を差し出す。そこにはずらりと箇条書きにされた内容がある。
目の前に立つ芳賀山と七々瀬は、顔色一つかえない。
「芳賀山、学園祭の招待客についてだけどゴールデンウィーク中に会えるよう約束は取り付けたよ」
「ありがとう、振り分けについてはぼくがしておくね。七々瀬」
「お願いするよ。僕は今から、運動部の大会の観覧の調整と、それと女子寮から抜け出した一年生の子がいるみたいだから話を聞いてくるよ」
七々瀬はそう言うと、生徒会室を出ていく。芳賀山は壁面書棚からいくつかのファイルを取り出すと、それを手に高城川と花山に声をかける。
「ぼくは今から、職員室で会議に参加してくるから何かあったら呼びに来てね。その後は十八時から文化部の会合があるから戻るまでに、帰宅の準備をしておいて欲しいな」
「はい……」
芳賀山の言葉に、二人揃って頷く他にない。日々の業務には息をする間もないのである。
♔ ──────── ♚
教師の号令がかかった。授業が終わり、男子生徒は席を立つ。机の上に広げた教科書と辞書を纏めて引き出しに入れ込む。
ネクタイを整え、ブレザーのボタンを留めると、男子生徒はふわりと浮いた前髪を整えた。
それを見ていた横の席に座る女子生徒が、声をかける。
「七々瀬さんのところ行くの?どうせ相手にして貰えないから次の授業の準備したらいいのに」
男子生徒がブレザーの裾を引いて、女子生徒に顔を向ける。
「忙しいから、俺が行くんだよ。ほっといたら絶対自然消滅する」
「橋野、頑張るのはいいけど……七々瀬さんだよ」
橋野、と呼ばれた男子生徒は女子生徒を睨む。彼女は静かに手を振った。
「行ってらっしゃい」
橋野は小走りに教室を出ていく。移動している生徒たちの間を通り過ぎ、二年一組の教室の扉へ手をかける。
覗いた先に、くっきりとした顎のラインが通った七々瀬がいる。橋野は手を伸ばして、クラスの生徒の肩を叩こうとした。
「七々瀬さん、すみません」
橋野の背後から、大柄の生徒が声を張り上げる。思わず、見上げると大柄の生徒が橋野に視線を向ける。
「あ、今の彼氏か」
「今のって」
「悪い、前の彼女は一瞬だったからさ。橋野だって、別にさ」
「言い方、やめろよ」
橋野がそう言うと、大柄の生徒が頭をかいた。さらに口を開こうとした橋野の前に深い濃紺のブレザーが割り込む。広い背中に目を上げると七々瀬がそこにいた。
「君、バレー部の山仲くんだね」
「……七々瀬さん、あの、伝言が寺木部長からあって」
七々瀬の体がゆっくりとずれ、彼の腕が橋野の背に回る。橋野と大柄の生徒の目が合った。
「橋野、……くん、さっきは悪かったな」
山仲の逸らす目に、橋野は奥歯を噛み締める。
「いいけど、くん付けは別にしなくても」
「わかった」
橋野はそれを聞いて、背に回された腕へと手をかける。七々瀬はその手をするりと包み、橋野を見下ろした。
「君、バレー部なの?」
頬が痙攣して、橋野は首を振る。山仲が眉をひそめて橋野を、見ている。
七々瀬の手から抜け出して、橋野は笑う。
「俺、そろそろ戻るよ」
俯いてそう言うと七々瀬は頷いた。
「わかった、またね」
背を向けた七々瀬を振り返ることなく、教室へ戻る。席に座った橋野が机から数学の教科書とノートを出す。筆箱のチャックを開け、シャーペンを取り出すと、横に座っていた女子生徒が橋野へ話しかける。
「話せた?七々瀬さん、忙しそうだけど大丈夫だった?」
「……あー……うん……」
「良かったじゃん。優しいらしいもんね。七々瀬さん、彼女とか彼氏には」
きゃらきゃらと高い声で女子生徒はそう言った。橋野が消しゴムを取り出した手を止めて、彼女を見る。
「……俺ってバレー部に見える?」
「え?なんで?」
「山仲と話してたらバレー部に見えたらしい」
へへ、と橋野が笑ってみせると、女子生徒が小さく声を漏らして机に視線を落とす。彼女の指が手元にある教科書のページの隙間に入り込み、それを摘んで擦る。
「ええと……もう少しでゴールデンウィークだし、忙しいんじゃない?生徒会」
「かもね」
橋野は短くそう返す。
彼が、それから休み時間に七々瀬の教室を訪れることはなくなってしまった。一週間が経っても、橋野は七々瀬と時間を過ごすことはない。同じ男子寮でも、橋野がいる三階に七々瀬は訪れないのだ。
同じ階に住む三ツ橋から、部屋を出ると同時に話しかけられる。
「ごめん、橋野、確認だけしたい。ファンクラブのみんなが気にしてて……」
そう前置きされて、橋野は溜め息をつく。大浴場へ行くためにバスタオルと着替えを持つ手に力が入る。三ツ橋の質問を聞かずに、彼は答える。
「まだ別れてないよ」
三ツ橋は、即座に謝罪を口にする。
「あ、ごめん。じゃあ、今七々瀬さん、忙しいから時間取れてないんだよな?来週の火曜に昼ご飯の時、来る?七々瀬さんが時間取れないから、みんなでご飯食べるんだけど」
早口に、三ツ橋は言い切った。橋野は唇を舐めて、黙り込む。少しの沈黙が落ち、三ツ橋が鼻を掻く。
「……俺が行ってもいいって?七々瀬さん」
橋野がそう言うと、三ツ橋が胸の前で腕を組んだ。
「あ。ファンクラブはOKだけど、まだ確認してない」
三ツ橋の腕を橋野は叩く。
「おい、期待しただろ」
そう言うと、三ツ橋が笑う。
「大丈夫、聞いとく」
そう言ったのは三ツ橋だったが、橋野はファンクラブの食事会に呼ばれることはなかった。同じ食堂にいるというのに、七々瀬と挨拶さえなかったのだ。
温かいはずの、できたての昼食さえも橋野は口に運ぶことができなかった。
しかし、四月末のゴールデンウィークへと入る直前のこと。七々瀬が、橋野のいる二年四組を訪れた。
三限目の終わりである。
席を立とうとした橋野だが、机についた手に力を入れかけて座り直した。隣の席にいる女子生徒が橋野の肩を叩く。
「ちょっと!橋野!七々瀬さん、来てるよ」
ばちんばちん、と音を立てる女子生徒の手を振り払って橋野は眉を顰める。
「痛いよ、多分、俺じゃない」
「めっちゃ見てるって!こっち!」
その言葉に、口を歪めて七々瀬がいる教室の出入口を見ると、橋野と目が合った七々瀬は二重の目を柔らかく細めて僅かに首を傾げる。
椅子を蹴って、橋野は立ち上がる。
「ほら!行っておいでよ」
女子生徒は立ち上がって橋野の背を押し出す。
橋野はその勢いのまま、七々瀬の元に走り寄った。
「ど、どうしたんです……か」
見上げた七々瀬は、口の端を緩めて橋野を見下ろす。
「敬語?」
「あ、ごめん……」
謝罪した橋野は、唇を噛んで目を閉じる。ブレザーの裾を握り、床に視線を落とす。七々瀬の磨かれたローファーが目に入る。
「ゴールデンウィークに出かけないかと思って、予定を聞きに来たけど、どうかな」
七々瀬の言葉に、橋野は顔を上げる。
「二十九日からあいてる……!」
掠れていたが、上擦った声音が漏れる。橋野の腕に七々瀬の手が触れる。
「二十九日は、芳賀山と約束がある。五月二日の十時からは大丈夫?」
「二日、十時、わかっ、た!」
「楽しみにしてる」
七々瀬の柔らかい声に、橋野は頬を紅潮させる。
「お、俺も」
橋野は、そう、少し高い声で七々瀬に言った。




