新しい年度
赤煉瓦が白のスタッコに色を添え、ちぎれた真っ白の雲が浮かぶ鮮やかな青い空に校舎が映えている。
黒い木の格子の窓が、壁面に並ぶ。たっぷりとした陽光を取り込む窓の奥には、生徒たちが座る教室があった。教卓に立つのはスーツを着た女教師だ。樺色の教卓に腕を大きく開いて手をつき、彼女は三十人ほどの生徒の座る教室を見回す。
「今からクラス委員と生徒会の補助となる委員会の委員決めを行います」
女教師は教卓から手をおろした。席に座る生徒の一人が濃紺のブレザーを纏った腕を、ぴ、と上げる。
「司会は私がします」
そう言うと手を挙げた女生徒は、がた、と音を立てて席を立つ。女教師は頷いて、窓辺の机につく。
「はい、よろしく。じゃあ、先生は見てるから決めなさい」
男子生徒が一人、さらに女子生徒が一人と手を挙げて教卓へと集まる。黒板に白いチョークで文字が書かれた。
「では、事前に選出候補となっている生徒は前に出てきて下さい」
二人の生徒が立ち上がった。四月の半ばの今日、一年生、二年生の各クラスでは委員決めが行われている。
♔ ──────── ♚
午前中の授業が終わり、雲が分厚く覆い始めた空の下で校舎の高い壁にある時計が十三時を示す。三年生が教室に収まったその時刻、二年生の教室がある校舎の三階が騒めき立つ。
その中のひとつである二年一組の教室も生徒たちが友人同士で固まり、食堂へ移動を始めている。教室の前後にある出入口には、他クラスの生徒が友人を呼びに来ているのか名前を呼ぶ声も響いていた。教室の扉に手をかけ、他クラスの生徒である男子生徒が、まだ残っていたクラスの生徒に声をかける。
「七々瀬さんはまだいる?」
声をかけられた生徒が反応する前に七々瀬は席を立った。整えられた眉の下にある麗しい目元が男子生徒へ向く。椅子を机に仕舞った白く長い指先が離れ、ローファーが床の上を滑って男子生徒の元へと近づく。
男子生徒に声をかけられた生徒は、近づいてきた七々瀬を見て、黙って教室から出て行った。それを見た男子生徒が息を飲み、七々瀬へと目線を上げる。七々瀬は、口角を上げて彼に微笑む。
「どうしたの?」
瞼を僅かに下げ、見下ろす七々瀬の声音は柔らかい。男子生徒はごく、と喉を鳴らして口を開いた。
「一緒に一回くらいはご飯食べないかなと思って……ですね」
語尾に付け加えた言葉は、小さく心もとない。
「何で敬語?寂しいな、僕たち、付き合ってるんだよ」
伸びた背筋のまま、七々瀬は眉を下げる。
「すみません、まだ緊張してて……ごめん、七々瀬さんが彼氏とか信じられてなくて」
男子生徒が視線を足元に向け、ふたつにわけた前髪をふわりと揺らす。その前髪に七々瀬の白い指が伸びて、髪の表面を微かに撫でた。
「これからだよ。僕に慣れて」
「あ、はい……うん」
男子生徒は目を細め、七々瀬へ顔を向ける。少し日に焼けた頬が僅かに紅潮していた。見下ろす七々瀬は微笑んだ口元をそのままに頷く。
「うん」
「じゃあ、食堂でご飯、一緒に食べられる……かな」
肘を僅かに折って、指を擦りながらそう言った男子生徒に、七々瀬は平坦な声を出す。
「僕は芳賀山と約束がある。ごめんね」
「あ、そうか、会長……」
室内灯の光を受け止めていた彼の目が濁り、呟いたのは独り言ともとれる言葉。七々瀬は瞼を上げ、男子生徒の背後の窓に視線を向けた。分厚い雲が空を覆い薄暗くなってきた外は、冷たい風が窓をかたかたと鳴らす。
「他に何かある?」
廊下を通り過ぎていく生徒たちは、七々瀬と男子生徒の様子が気になるのか顔を一瞬向けるも、七々瀬と目が合うと俯いて立ち去っていった。
「ない、です」
「敬語、寂しいな」
七々瀬はもう一度、そう言うと男子生徒を見下ろした。男子生徒は手を上げ、七々瀬に手を伸ばそうとしたが、その手は頬をかく。
「ごめん、じゃあ、また」
「誘ってくれて、ありがとう」
七々瀬は男子生徒の頬をかく手をそっと握って、下ろす。
「食堂行くなら、一緒に行こうか?」
手を握ったまま、七々瀬は言ったが男子生徒は首を振った。
「大丈夫!大丈夫、あの、ありがとう」
「僕こそ、ありがとう。顔が見れて嬉しかった」
七々瀬は握っていた手を離し、彼の肩を叩く。
「うん……じゃあ……」
頭を軽く下げて、男子生徒は二年一組の前から食堂へと立ち去っていく。彼はその途中で、他の生徒と合流して何か話し始めていた。
七々瀬は、顎を上げて教室の時計へ視線を向ける。十三時から十分ほど針は進んでいる。
廊下へと足を踏み出した七々瀬は、教室の扉を閉めると食堂に向かう。
つるりとした階段の手摺は、太陽を隠した雲のせいで僅かに光を反射する。靴箱が立ち並ぶ校舎の扉は大きく開かれて、山の冷えた風が入ってきている。その奥にある食堂から出汁と醤油の香りが漂い、食事をする生徒の声が響く。
七々瀬が食堂へ足を踏み入れると、窓辺にある席への道が開いた。座る芳賀山の伸びた背筋が、ゆっくりと傾いて椅子から離れる。
七々瀬は口を小さく開き、息を吐く。急ぐこともなく七々瀬は近づくと、芳賀山の立つ席の後ろのテーブルに座っていた生徒たちへ声をかけた。
「準備、ありがとう」
生徒たちの一人である三ツ橋が背筋を伸ばした時だった。芳賀山は、こつ、とローファーの踵を鳴らして七々瀬へと体を向ける。
「七々瀬、今日はうどんだよ。話の前に食べよう」
芳賀山はそう言うと、三ツ橋を見下ろす。三ツ橋は目を伏せ、横に座る女子生徒と視線を合わせる。彼女が口を開いた。
「七々瀬さん、あの、もしかしたら、うどん伸びてるかも」
「大丈夫、いつもありがとう」
七々瀬は女子生徒へ柔らかく声をかけると、うどんの乗ったトレイが並ぶテーブルの前に移動し、芳賀山に顔を向ける。うどんの入った大きな丼には、既に出汁をたっぷりと吸った海老の天麩羅が沈んでいた。
「七々瀬、まずは座って食べようか」
芳賀山の言葉に、七々瀬は目を伏せると椅子へ腰をかける。目線の先にある丼の中に出汁を吸って体積を増したうどん麺がひしめき合っていた。
「……放課後の話は後にした方がいいみたいだね」
七々瀬はそう呟く。
「ぼくは伸びたうどんも嫌いではないけど」
「いただきます」
芳賀山の言葉を無視して、七々瀬は手を合わせると箸を手に取る。
温かいうどんを啜り、膨らんだ麺と天麩羅で腹を満たした七々瀬は緑茶のペットボトルへ手を伸ばす。常温に保たれた固いペットボトルと薄い緑色のフィルムを持ち上げ、ぱき、と蓋を開く。
「委員の選出と委員長の挨拶は十八時前には来るね」
グラスに注がれた緑茶が、透明な硝子を透き通った若菜色に染める。芳賀山が七々瀬の言葉に麺を持ち上げた箸を止め顔を上げた。
「その前に高城川くんと花山さんにおはなししないといけないなあ」
七々瀬がペットボトルの蓋をしめ、机の上へと戻す。小さく頷き、七々瀬はグラスを持つ。
「昨日渡した資料では足りない?」
「高城川くんは公立校から来た子だよ。ちゃんと見てあげないと可哀想」
「そうだった」
そう言うと、七々瀬は緑茶の入ったグラスを傾けて口を薄く開き、蘇芳色の口の中へ透き通った若菜色の液体を流し込む。僅かに上がった顎と喉仏が上下に動く。
青磁色のシャツの締まった襟元が飲み終わって下がった顎の影で暗くなる。ことり、と置いたグラスから七々瀬は芳賀山へ視線を向ける。
「僕が委員長に渡す書類の印刷をしとくよ」
「喉が乾いていたみたいだね、一気飲みだ」
芳賀山が箸で麺を持ち上げ、そう言うと啜った。丼の中に麺はなくなり、琥珀色の出汁が揺れる。
「図書館から花壇の破損について問い合わせと先生からトイレ掃除の不足の指摘もある」
七々瀬は芳賀山の言葉を無視して言った。口の中のものを嚥下し、箸をトレイに置いた芳賀山は、トレイの横に緩く握った手を添える。
「丁度良い」
柔らかい声を発した芳賀山は続けた。
「生徒会役員として、動くにはいいお仕事だね」
七々瀬は、鼻から息を吸い込み肩を僅かに膨らませた。
「芳賀山、花山さんは僕が教える」
「大丈夫、ぼくに任せて。二人っきりなんて君の恋人に誤解されるよ」
七々瀬の頬が強ばり、顎が僅かに上がる。
「……それを言うなら君の恋人もそうだろう」
「ぼくに彼女がいると、知ってたの」
芳賀山の言葉に、七々瀬は眉を僅かに寄せた。
「会長」
低い声音が、七々瀬の口から小さく響く。
「副会長、愛されているね」
平坦な柔らかい声音が、芳賀山の口から響く。
黙った七々瀬と芳賀山の間に空になった黒い丼と付け合わせの惣菜が入っていた鶯色の小皿がある。空になったグラスをトレイに置き、その端にあった牛乳の紙パックを七々瀬は手に取った。
「書類の印刷をしてくる。放課後、また」
席を立ち、七々瀬はトレイからとった小さな牛乳パックを食事を準備した生徒の一人の前に置いた。彼女が顔を上げて七々瀬を見上げる。
「よかったら飲んでおいて。三ツ橋くん、片付け、ありがとう」
七々瀬は柔らかい笑みを浮かべて、そう言った。
まだテーブルの上にあるトレイ。奥の席に座っていた三ツ橋は頷く。七々瀬はそれを見て生徒会室へと向かった。
♔ ──────── ♚
炭色ともいえる濃い雲は、大粒の雨粒を降らす。気温は急激に冷え込み、木々と草花、土の濡れた匂いが窓から入る。ばちばちと外壁を打つ雨に、高城川の手が生徒会室の窓を閉めた。
天井から蛍光灯が照らす光はそれほど強くない。芳賀山の座る執務机の後ろから高城川は鳶色の分厚いテーブルまで、小走りに戻る。テーブルの上にあるクリアファイルを手に取った高城川に、花山が声をかけた。
「私は美化委員会、高城川くんは図書委員ね」
花山の手には数枚の書類が纏められたクリアファイルがある。
「……こういうの初めてなんだけど……相手、二年生なのに……」
高城川が不安げに呟く。
「私に言われても困るよ。役員なんだからしっかりして」
「花山さん、強いなー」
「強いとかじゃない、行くよ」
濃紺のスカートを翻し、花山は生徒会室の固く閉じた扉に向かう。それを追いかけて高城川はぶつぶつとまた、口から漏らす。
「なんて言えばいいんだろ」
背中を丸めて小さくして高城川がぼやく。扉のドアノブを回す音が鳴る。
二人の背後で座っていた芳賀山が席を立つ。床が重い椅子の足で擦れる。芳賀山の手にあったペンが執務机の上に、かた、と置かれた。
「高城川くん」
雨の音が響く生徒会室。静かな柔らかい声音が、高城川の丸まった背を伸ばす。
芳賀山は執務机に指先をそっとつけた。
「不安ならぼくが、ついていってあげようか」
ひゅ、と高城川の喉が鳴り、芳賀山を見返す。
「君、慣れてないだろう。大丈夫、ぼくは口を出さないよ」
「ええと……」
言い淀む高城川の背後で、花山は目を伏せる。
「ええと……」
もう一度、意味の無い言葉を呟く高城川だったが、それ以上は口を閉じてしまう。
生徒会室の扉がノックされた。軽い音が響き、一つ間を置いて扉が開く。扉の前にいた花山は一歩引いて、顔を扉に向ける。
扉の隙間から、七々瀬が姿を現した。芳賀山の目が高城川から、七々瀬へと向かう。
「七々瀬、終わった?」
「そうだね。資料は揃ったよ」
「ぼくはあと少し」
七々瀬は、芳賀山に頷くと花山と高城川を見下ろした。扉を大きく開き、七々瀬はそれを背に手のひらを差し出す。
「花山さん、高城川くん、通るならどうぞ」
高城川は芳賀山に頭を下げるとクリアファイルを握りしめ、生徒会室を足音を立てて出ていった。花山がそれを見て、静かに会釈し生徒会室から出る。
「……高城川くんはぼくのことなんだと思ってるんだろうね」
芳賀山が首を傾け、そう呟いた。




