王子さまの距離と
カレーライス、ザワークラウト、トマトスープと並ぶトレイから立ち上る湯気。スパイスの香りが居間に広がっている。テレビの音もない居間に、三階の物音が階段を伝って響く。
四人掛けのダイニングテーブルに、角を挟み座る七々瀬と芳賀山は揃ってペットボトルの蓋を開ける。ととと、とグラスへ注がれる水と緑茶。七々瀬のグラスには透き通った薄緑の液体が半分ほど入る。そうして蓋を閉じてトレイの横へ七々瀬はペットボトルを置く。
水のペットボトルの蓋を閉めた芳賀山が七々瀬へ目を向ける。
「はじめは、ぼくと同じで水だったのにね」
ぽつ、と芳賀山が言うと手を合わせた七々瀬が開こうとした口を引き結ぶ。合わせた手が膝に落ち、七々瀬は芳賀山に顔を向ける。
「何で緑茶なの?」
続けてそう聞いた芳賀山に、七々瀬は一呼吸置いて口を開く。
「急に……好みの問題だから、答えにくいな……君こそ、何で水なの?」
「場合によっては、麦茶や緑茶も飲むよ。でも、風味がある飲み物は苦手なんだ。甘いのも苦いのも」
あっさりとそう返答した芳賀山は、手を合わせていただきます、と言って銀色のスプーンを手に取った。が、カレーを掬うことなく芳賀山はすぐに七々瀬へ視線を向ける。
鼻で息を吸い込むと、七々瀬は緩やかに息を吐く。
「わかったよ。緑茶は元々、好きだったんだけど母から歯が汚くなるからと止められていたんだ。寮に入ったし、歯のケアを工夫するようになったから水から緑茶にかえたんだよ」
七々瀬もまた、手を合わせて食前の挨拶を口にするとスプーンを手に取った。
「ああ、そういうことなんだ。てっきり、ぼくが嫌われているかと」
ところが、カレーを掬おうとした彼の手は芳賀山のひとことで止まる。
「僕が?」
七々瀬がそう聞くと、芳賀山が頷く。
「君が」
目を何度かゆっくりと瞬かせ、七々瀬はスプーンを置いて、体ごと芳賀山に向ける。
「そんなことはないよ、もし誤解させたのなら、謝る。ごめん」
芳賀山の目を見つめて、七々瀬はそう言った。
「嬉しいな。君のそういうところは好きだ。ぼくこそ、踏み込みすぎた言い方だったね。ごめんね」
微笑む芳賀山に目を伏せ、七々瀬はもう一度芳賀山を見返す。強い視線が交わる。
「ありがとう。でも、芳賀山、そのやり方はよせ。僕は副会長で、同級生だよ」
声音は平坦だが、七々瀬は指摘した。
「わかったよ。七々瀬。でも友達ではないの」
「芳賀山の友達は大変そうだから」
「ひどいな。ぼくは七々瀬が好きだよ」
もう一度、七々瀬は鼻で息を吸ってゆっくりと吐き出す。
「そういうところ」
七々瀬は、スプーンをもう一度手に取る。カレーは湯気が少しずつ立ち上らなくなっていた。
「そういうところ?」
分厚い木製のカップに入ったトマトスープだけは、まだふわふわと白い湯気を上げている。
芳賀山の細められた目から、七々瀬はカレーへと視線を落とす。
「そういうところ」
ようやくカレーへスプーンを差し入れて口に含む七々瀬だったが、芳賀山は僅かに口を尖らせた。
「どういうところか、七々瀬に教えて欲しいな。君の言葉なら聞けそうだ」
咀嚼をしていた七々瀬は、目線の先にあるテレビの奥の、棚に並ぶ小説や漫画をじっと見ている。芳賀山の言葉に答える気がないのか、スプーンをザワークラウトへ差し込み、しんなりとしたキャベツを口の中に入れる。
それを見た芳賀山もまた、手の中のスプーンを持ち上げてカレーを食べ始めた。
陶器に当たるスプーンの音が沈黙を埋め、静かな居間に大食堂から戻ってきた三階に住む生徒たちの声や足音が聞こえてくる。
「そろそろ、曽祢先輩も顔を出しそうだね」
芳賀山が残り少なくなってきたカレーを掬ってそう言うと、七々瀬は頷く。口の中のものを飲み込み、七々瀬は緑茶の入ったグラスを持ち上げる。
「高城川くんも、ね」
持ち上げたグラスを傾けて緑茶を飲んで、七々瀬はザワークラウトを空にした。
「曽祢先輩に会いたいんじゃなかった?」
芳賀山はスープカップを空にして、こと、とトレイの上に置く。
「久しぶりに会長をしている曽祢先輩と話したかっただけだよ」
「かっこよかった」
間を置かず、芳賀山が言った言葉に七々瀬は最後のカレーをのせたスプーンを持つ手を止める。
「ぞっとする」
七々瀬は最後の一口を食べ終え、スプーンをトレイへ置いた。
「頑張って、七々瀬。曽祢先輩みたいになるには大変だからね」
そのままスープカップを手に取った七々瀬は芳賀山を一瞥する。スープをしっかりと飲み干し、食事を終え席を立つ。
七々瀬は、椅子をテーブルへと引く。
「芳賀山、今日の蔵田さんの件、まとめたら君の部屋に持っていくから」
「うん、ぼくは問題ないけど……三年生の先輩方と少し話があるから九時半を過ぎるかもしれない」
「三年と」
「西園寺先輩にも同席してもらうんだけど、次の各部活の部長についてのお話だよ」
「ああ……今日の。それはいいね」
七々瀬は頷くと、九時半に、と言った。椅子に置いていた手を離し、ぎ、と床板を濃紺のスリッポンシューズで踏み込み、七々瀬は芳賀山から目を逸らす。居間を区切る太い柱を通り過ぎ、七々瀬は自室へと向かった。
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明朝体で、生徒会規定にかかる申請書と表記された白いコピー用紙。その黒い枠組みの中へ、七々瀬は角張った文字をボールペンで走らせる。窓辺に面した机は、ベッドの下にある物置と化した机とは違い、七々瀬の長い足もしっかりと受け止めていた。
ボールペンを机に置き、書き終えた書類を持ち上げて視線を落とす。伏せられた瞼が僅かに形を変えて動く。そ、と書類を机に戻して七々瀬はクローゼットから出したばかりの正服のかかった壁へ目を向ける。正服の上にある時計は九時をさしていた。
唇を僅かに舐め、七々瀬は立ち上がる。顎の下へ手のひらを這わせ、髪の生え際を擦って口から息を吐き出す。
「十時に間に合わないか……」
目を閉じて、顔を傾けると七々瀬は机に椅子をしまう。机には申請書の他に書き上げた報告書も数枚ある。目を薄く開き、七々瀬はその書類を纏めて机の端に置き直した。
「消灯は守ろう」
ベッドの下にある物置と化した机の上へ手を伸ばす。積まれたタオルから一枚取り出し、部屋にある浴室へと入った。体を洗い終え、髪を乾かすと七々瀬はスキンケアを済ませる。先程まで着ていたシャツに身を包む。
ボタンを襟元まできっちりと留めて、壁にある時計を見る。九時半まで間もないことを長針は示していた。
机にある書類を手に取り、七々瀬は部屋を出る。廊下に出ると、ふたつ隣の部屋の曽祢が出てきた。彼の眼鏡のレンズが廊下を照らす室内灯によって一瞬、白む。
「曽祢先輩、今からですか」
七々瀬がそう声をかけると曽祢の顔が上がる。
「九時半だ。十時までに戻れよ」
曽祢の言葉に七々瀬は頷き、床の上を滑らかに動いて彼に近づく。そうして、腰をおって頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「いい。まだ移行期間内だ。あれも前会長の仕事のひとつ」
頭を上げて、背筋を伸ばした七々瀬が曽祢へと視線を下げた。
「僕が戻った時にはもういらっしゃらず、残念でした」
曽祢が七々瀬の顔を見上げ、小さく息を吸って眉を寄せる。
「七々瀬、参考にならないからよせ」
七々瀬は目を伏せ、眉を下げる。そして、七々瀬の伏せていた目が上がり、曽祢の肩の奥へ視線が向く。三階から四階へ階段をのぼる音が廊下に伝わる。
「そうかもしれません」
「何かあれば、相談に乗る」
曽祢は、ぽん、と七々瀬の腕を叩いて背を向けた。それを見送って、七々瀬は踵を返す。自室の前を通り過ぎ、隣室の扉を軽く二度叩く。こんこん、と高い軽やかな音が響く。ほどなくして扉が開き、ブレザーを着た芳賀山が顔を見せた。
「わざわざ制服を着たのか」
七々瀬がきっちりとしめられたネクタイを見て、口から漏らす。
「生徒会長として場を持ったのに、部屋着ではいけないよ。どうぞ、入って」
扉を大きく開いて、芳賀山が手のひらで中へと促す。七々瀬は部屋に足を踏み入れると、レモンやオレンジの香りが入り交じった柔らかな匂いが迎える。
七々瀬の背後で、ぱたんと扉が閉まる。ベッドの下にある机に簡素な木の椅子が仕舞われていた。窓辺にある折り畳み椅子は、カーテンを押し潰して置かれている。七々瀬は手にある書類を持ち上げ、振り向く。
芳賀山は、ブレザーのボタンを外してネクタイを緩めていた。しゅ、とネクタイの生地が擦れて滑る音が鳴る。七々瀬は目を僅かに見開く。
「三年生との話し合いのために着ただけだよ。ここには君しかいないから」
するすると解かれたネクタイが青磁の襟から伸びていく。それを腕にかけた芳賀山はその手を差し出す。
七々瀬は書類をそっと、芳賀山に渡した。
「人前で脱がない方がいい」
受け取った書類に視線を走らせる芳賀山を見ていた七々瀬は、壁に顔を向けた。そこに吊るされた正服と正帽。詰襟に金と白の刺繍で描かれた校章と黒い生地が室内灯の光の下にある。
「人前」
ぼそ、と呟いた言葉に七々瀬は視線を芳賀山へ向ける。彼は手元の書類から目を上げて続けた。
「不快だったかな」
「僕が?」
「君が、だよ」
「驚いただけだよ。芳賀山がネクタイを僕の前で外すとは思わなかったからね」
七々瀬は胸の前で腕を組んで、芳賀山の目を見返す。
「夜の自室はプライベートだし、相手は七々瀬だろう。気を張る必要はない」
「僕は寝巻きを着てない」
「ぼくもブレザーは脱いでないよ」
そう言うと芳賀山は、手に持った書類を机に置くべく、扉の前から部屋の奥に一歩、足を進めた。七々瀬は正服のかかった壁へ一歩引く。
「ありがとう。このまま、提出できる」
腰をかがめ、机へ書類を置いた芳賀山の背中を見て、七々瀬は頷く。
「そうか。ではおやすみ、芳賀山」
部屋の扉へ近づこうとした七々瀬に、芳賀山が振り向いて声をかけた。
「七々瀬、明日、生徒会室に七時半だよ。一緒に行く?」
七々瀬は、扉の前で立ち止まる。目が僅かに揺れ、芳賀山に向き直る。
「いいよ」
「居間で待つね。高城川くんも来る。花山さんは寮の前で約束しているよ」
芳賀山の言葉に、七々瀬はまばたきをして口元に手を当てた。
「待て、僕の髪を君がやるって言ってなかった?」
「言ったよ」
「後輩が来るなら、自分でやる」
眉間に皺を寄せた七々瀬は、しっかりとした口調で言ってのけた。
「…………ああ!なら、朝、君の部屋でやろうか」
芳賀山が微笑むと、七々瀬は首を振った。
「必要ない」
「そう?念の為に、櫛と整髪料は持っていくから安心してね」
「必要はない。芳賀山、おやすみ」
七々瀬はもう一度繰り返し、芳賀山に背を向けた。音もなく開けた扉から、七々瀬は出ていく。
閉じた扉の前で、七々瀬は額へかかる黒々とした短い髪に触れる。白く長い骨ばった指が髪を梳いて、項を掴む。
息を僅かに吸い込み、七々瀬は自室へと入る。




