王子様の距離と変化
小さな音と共に七々瀬はトレイに箸を置く。ご馳走様でした、と低い声でそう言うと席を立つ。高城川がトレイを横へずらし、七々瀬のトレイを引き寄せる。ダイニングテーブルに並ぶトレイの上には空になった皿が乗っている。
「明日から、夏服ですね」
ぎ、と音を立てて椅子から腰を上げた芳賀山が椅子をテーブルに仕舞う。
「そうだね。校章はつけなくていいから、気をつけて」
その言葉に高城川が顔を上げる。居間の奥にある階段から笑い声が響き、長者原と中郷がのぼって来る。ダイニングテーブルを囲む三人に気づくと、口を噤む。
「はい。ブレザーだけでしたよね。アイロン、かけました」
立っていた七々瀬が、二人に笑みを向ける。会釈した中郷が足を止めると、長者原がつられて止まる。
「いい子だね、高城川くん。明日からのるこてん祭の事後処理も頑張ろう」
芳賀山はそう言うと、七々瀬の腕に触れる。それを見た中郷が、長者原の背を叩いて部屋へと戻っていく。
「そう、でしたね……事後処理、お礼状と……拾得物と……それと資料……」
ぶつぶつと高城川が呟きつつ、トレイの上へと視線を落とす。皿を取る度に、ひとつ、ふたつと事後処理の項目が増えている。
「いつもありがとう、高城川くん。また明日」
芳賀山がそう言うと、七々瀬もまた高城川へと声をかける。
「おやすみ、高城川くん。考えすぎる必要はないよ」
片付けをしていた高城川は立ち上がり、頭を下げる。挨拶を口にした高城川を居間へ残して、芳賀山は七々瀬と共に四階の奥にある部屋へと歩き出す。
中郷と長者原の部屋の前を通ると、僅かに声が漏れ聞こえてくる。
「風呂どうする」
「今大浴場多いから後、後」
夜の七時を過ぎ、大浴場は開いている。日曜日が終わろうとしているのだ。
曽祢の部屋の前へと差し掛かると、芳賀山が口を開く。
「七々瀬」
その先にある七々瀬の部屋の扉。そこへ、視線を向けていた七々瀬は芳賀山に顔を向ける。
「明日の昼食」
歩く足は止まらず、ひとつ、ふたつと扉をすぐに越えた。
「それが、どうしたの?予定がもしあるなら、僕はファンクラブの子達ととるから気にしなくていい」
七々瀬は、自室の扉の前で足を止める。芳賀山は、一歩、先へと足を運んで七々瀬に体を向ける。
芳賀山の手が、ズボンのポケットへ入る。
「うん。そうではないよ」
七々瀬はドアノブに手をかけようとして、その手を止める。芳賀山へと向き直った。
芳賀山の瞼が僅かに下がり、ズボンのポケットの生地が形を変える。
「君を、迎えに行ってもいいかな」
「……芳賀山?」
「君が良ければ教室で、待っていて」
芳賀山の瞼が上がり、七々瀬の目を捉える。
「芳賀山」
「今日はありがとう。七々瀬、ぼくは楽しかったよ」
そう言うと、芳賀山は背を向けた。鍵の開く音が廊下に響き、芳賀山は七々瀬を見ることなく部屋に入っていく。
がちゃん、と扉が閉まる。
一瞬の静寂に包まれた廊下には、すぐに扉の開閉音が響いた。
♔ ──────── ♚
机の横にかけてあったスクールバッグへ女子生徒が手を伸ばす。紺色のカーディガンを取り出して羽織る。スカートを押さえて椅子に座ると横に座っていた男子生徒に声をかける。
「寒くない?」
教室の窓はカーテンが大きく開き、固く閉じられている。窓の外は、薄暗い。雲が空を覆い尽くし、灰色に染まっている。
教室の天井にある室内灯は明るく照らしていたが、太陽が隠れてしまっているせいか空気が霞む。
七々瀬は机の上に開いた教科書と、ノートの上に静かに手を置く。青磁色の半袖のシャツから伸びた白い腕に筋が浮き出る。
シャープペンシルがひとつ、閉じた筆箱の横に転がっている。
教室の開いた扉から、男性教師が入ってきた。
「起立!」
学級委員が号令をかける。生徒が立ち上がり、教師に挨拶を一斉に発する。椅子に座った生徒の物音が教室へ響く。
「うん、るこてん祭、お疲れ様でした。君たちに試験の範囲を伝える。昼休み前だからといって、授業の気は抜かないように」
男性にしては高い声で、教師はそう言うとプリントを手に取った。配られたプリントには期末テストの範囲が書いてある。
七々瀬はそのプリントに視線を落とすと、小さく溜め息を吐く。襟元にある白い糸で刺繍された白梅の校章に、影が落ちる。
昼休みの前の授業は滞りなく、時計の針を進めていった。終わりを告げるスピーカーから流れるチャイムの音と共に、学級委員の号令がかかる。教科書やノート、プリントを片付ける紙の擦れる音が教室に満ちると、生徒たちが一気に席を立つ。
七々瀬は片付けて何も無くなった机へ手のひらを滑らせた。大きく息を吸い込むと、七々瀬、と黒い糸で刺繍されたシャツのポケットが盛り上がる。
そうして立ち上がったが、机に触れた手は、その板の上から離れることはない。
騒めく教室から、生徒の数が減っていく。七々瀬は机に椅子を寄せる。鼻からゆっくりと息を吐き出した。
「え?!芳賀山さん?!」
教室にまだ残っていた男子生徒が声を上げた。開いていた教室の扉の前に立つ、芳賀山が男子生徒を見下ろす。
「驚かせたね」
「いえ、あ。すみません」
「君、七々瀬を呼んでくれるかな」
机に触れていた七々瀬の手が離れ、ローファーが床の上を滑らかに移動する。七々瀬は男子生徒の背後に近づき、彼へ声をかけた。
「ありがとう、呼ぶ必要はないよ」
男子生徒は弾かれたように振り向くと、七々瀬の顔を見上げる。すぐに芳賀山へと視線を向けると、男子生徒は廊下へ足早に出て行く。
芳賀山が体を開き、一歩下がる。
「待っていてくれて、嬉しいよ。七々瀬」
「約束をさせたのは君だろう?」
七々瀬はそう言うと、芳賀山に視線を向けることなく廊下へと出る。そのまま食堂に歩き出した七々瀬の横に、流れるように芳賀山が肩を並べた。
「守ってくれたのは君だよ」
「……お礼状の草案、高城川くんがさっき持ってきたよ。後で確認して」
廊下には、生徒が溢れかえる。二年生のみとはいえ、食堂へ向かう生徒たちの声は騒がしい。
「わかったよ。先生方には夏休みの補習に合わせて問題とテストを作成して貰えるよう頼んできたから、事後処理に集中しようか」
「そうだね。二人のサポートもそうだけど、いくつか問題もでてきてる」
「ああ、るこてん祭が終わって少し気が抜けたようだね。今日、ぼくが対応しよう」
階段を降り、三階から一階へと着くと人集りができていた食堂の前が自然と開く。窓際にある席まで、真っ直ぐに生徒たちの開いた道が続く。ふたつの長身が、その合間をゆっくりと進む。
用意されていた昼食は、狐色の衣が輝くトンカツに千切りキャベツ。その横に、鮮やかな緑色の葱が浮かぶ味噌汁が湯気を立てていた。
♔ ──────── ♚
冷たい雨粒がぽつぽつと、落ちてくる。地面を叩く透明な水の粒は、すぐに土に吸われて形を失っていく。
緩やかな雨足は、カーテンが波打つように風に揺られて山の緑に霞をかける。太陽が顔を出さない空を窓から花山は見上げて、息を吐く。
「梅雨に入ったね」
閉じた生徒会室で、湿気を孕んだ空気に重く声が響く。
「なんで手書き……手書き!」
呻く高城川は、便箋に万年筆を走らせる。花山は特に返答がないことを気にした様子もなく、窓辺から壁に埋め込まれた書棚へファイルを戻しに向かう。
「万年筆なんて、初めて……ああ、引っかかる」
ぴぴ、と万年筆の先が黒いインクを飛ばす。書棚にファイルを戻した花山が眉間に皺を寄せて、振り向いた。
「ちょっと黙ってくれない?」
「万年筆、使ったことないんだよ」
「わかるけど、それ、生徒会費で買ったものだから、丁寧に書いて!」
「じゃあ、花山さん代わってよ」
高城川が万年筆をテーブルに放ってそう言うと、花山が口を尖らせる。
「……高城川くんみたいにペン字検定持ちじゃないし」
「ペン字検定三級持ってるからって、万年筆使える訳じゃないよ!」
顔を覆った高城川に、花山はぐっと拳を胸の前で握り込む。
「高城川くん」
「何」
「頑張れ!私もるこてん祭の会計纏め、がんばるから!」
力強く頷いた花山は、そう言うと高城川の前の席につく。電卓と開いたファイルに並んで、領収書や精算書類が並ぶ。
高城川は溜め息を吐いて、万年筆を手に取った時である。生徒会室の扉を叩く音が耳に入る。
花山が電卓を打ち始めた手を止めて、立ち上がると生徒会室の扉がゆっくりと開く。
「図書委員長の岡蔵です。高城川くんはいますか」
「岡蔵先輩、こんにちは。ここにいます」
花山が笑顔を岡蔵へと向ける。岡蔵は静かに生徒会室に入ると、扉を閉める。高城川が万年筆を置いて、立ち上がろうとすると岡蔵が小走りに近づいて来る。
「あ、大丈夫、大丈夫。座ったままでいいよ」
高城川は上げかけた腰を椅子へ戻すと、岡蔵へ膝を向ける。
「ありがとうございます。岡蔵先輩、図書館の試験期間中の利用についてですか」
「そう、確認して貰えますか」
テーブルの上に、岡蔵が書類を一枚置いた。それを手に取って確認すると高城川は小さく頷く。
「はい、問題ありません。十八時閉館ですね、受理しました。よろしくお願いします」
「良かった。……高城川くん、お礼状?」
岡蔵の視線が、テーブルの上に並んだ便箋へと流れる。そのひとつを手に取って、岡蔵は小さく問う。
「そうです。……終わらなくて……」
ぽそ、と呟いた高城川に岡蔵が微笑む。
「手伝っていいなら、手伝えるよ。私、毛筆の方が得意だけど、硬筆もそこそこ書ける」
「え?!」
「……試しに書いてみる?」
「是非お願いします!」
「勢いすごい」
鈴が鳴るように岡蔵は笑うと、高城川の横に座って万年筆を手に取る。便箋の代わりに、付箋を一枚剥がすとその上に丁寧に文字を書いていく。
高城川は口元に手を当て、それを確認すると岡蔵に身を乗り出す。
「先輩、図書委員会は大丈夫ですか?」
「うん、今日はもうなにもないから」
「どれくらいで書けますか」
「明日までには、渡せるよ」
その言葉に、高城川はテーブルの上の便箋、封筒、万年筆を纏める。
「ありがとうございます、明日、受け取りに行きます!」
勢いよくそう言うと見本を含めてファイルに挟み込んで、テーブルの上を滑らせる。岡蔵は手元に来たファイルを手に取って、頷く。
「私たち、委員会のことも上手に使っていいからね」
「助かります……!」
高城川が頭を下げると、岡蔵は席を立った。すると生徒会室の扉がノックされる音が部屋に響く。岡蔵は椅子をテーブルへ寄せると扉へと顔を向ける。
高城川が腰を上げる。
ゆっくりと、生徒会室の扉が開く。芳賀山が書類を手に、顔を出す。岡蔵が会釈して、芳賀山の顔に視線をやった。
「こんにちは、岡蔵さん」
挨拶をした芳賀山の背後から、扉を開く白い腕が伸びる。
「図書委員長」
大きく生徒会室の扉が開き、七々瀬が姿を現す。高城川は、ひゅ、と息を飲むと岡蔵の背中を見る。
岡蔵はもう一度、会釈をすると抱えていたファイルを腕に隠すよう抱え直す。
「失礼します」
スカートから伸びる足が、扉へ向かう。芳賀山は七々瀬の後ろへと下がる。
開いた扉を支える七々瀬の横を通り抜け、岡蔵は部屋を出て行く。それを見送ると、芳賀山が七々瀬の背に触れる。
高城川が息を吐いて、口を開いた。
「おかえりなさい、芳賀山先輩、七々瀬先輩」
それに合わせて、花山も席を立つ。
「おかえりなさい、纏め終わりましたので、七々瀬先輩、一度目を通していただけますか」
芳賀山が生徒会室へと入ると、後を追って七々瀬もまた中へ足を進める。
扉は音もなく閉まった。高城川が芳賀山に、礼状についての報告をしはじめ、七々瀬の元に花山が書類を持って近づく。
窓が薄らと曇り、閉じた生徒会室に熱が籠る。六月は後半に差し掛かっていた。




