おやすみの日曜日
分厚い雲からは、大きな雨粒が落ちる。日が昇ったはずの空は薄暗い。雨のカーテンが山を覆い、緑の木々の葉がくすむ。
木造の男子寮は、焦茶の壁が水分を含み黒く変色している。開いている窓はなく、雨音に生活音が溶けている。
芳賀山は、窓を覆っていたカーテンへ手を伸ばす。僅かに捲ったカーテンの隙間から外を覗き込む。
カーテンから芳賀山の指先が離れ、薄い灰色のシャツの袖を摘む。軽く袖を引くと、腕時計の文字盤があらわれる。蒼と銀の文字盤の針が七時十分をさしていた。
「残念」
小さく芳賀山は呟く。
両手で襟元を正す。台襟ボタンを通り過ぎ、第一ボタンを芳賀山の手が留める。ボタンの上に、前立てが被さる。
「……七々瀬は何を着てくるかな」
室内灯を消して芳賀山は部屋を出ていく。
廊下の明かりはまだ、弱いままだ。日曜日の朝だからというよりは、るこてん祭の翌日であるためだ。朝の温度で冷えた床を歩き、ふたつ隣の七々瀬の部屋の扉の前に立つ。
き、と小さく芳賀山の足の下で床が軋む。衣擦れの音と共に、芳賀山の手が上がる。その手を軽く握りこみ、ピタリと止まる。
芳賀山は唇を引き結び、扉を二度、打つ。
「……おはよう、七々瀬」
開いた扉から顔をのぞかせた七々瀬は、前髪を軽く横へと流している。襟に黒のラインが入った胡粉色のシャツを着ている。
台襟ボタンは留まっている。
「おはよう、芳賀山」
そう言うと、七々瀬は芳賀山のシャツに視線を落とす。部屋から出た七々瀬は背を向け、ゆっくりと扉を閉める。
「髪も、服もよく似合ってるよ。ありがとう」
七々瀬は、芳賀山の顔を見ることなく居間へと歩き出す。
「君、ここは寮だよ」
「……外は雨だろう。寮を出る前に伝えておきたかったんだよ。七々瀬」
芳賀山は七々瀬の背中を追い、朝食の用意されている居間へと向かう。
ダイニングテーブルには、卵焼きや鯖の塩焼きが並ぶトレイが乗っている。三ツ橋と高城川が、緑茶や水のペットボトルをテーブルに置いている。
三ツ橋が腰に手を当て、よし、と息を吐く。
「いつもお手伝い、ありがとうございます」
高城川が三ツ橋にそう声をかける。
「いいよ、大丈夫。ファンクラブ……ではなくて……僕がしたいからね」
手を振って、言い淀みつつも三ツ橋は言い切った。高城川が背筋を伸ばす。
「三ツ橋先輩」
「あ、何……」
高城川は白いパーカーの裾を引っ張り、整えると真っ直ぐに三ツ橋を見る。
「僕には理解し難いところもありますが、私的なことへの干渉を控えて頂けるなら問題ないと考えています」
息を吸い込み、高城川は三ツ橋ににこやかな笑顔を見せて続ける。
「るこてん祭、ごはん、めちゃくちゃ助かりました。ありがとうございました」
一瞬、ぽかんと口を開けた三ツ橋だったが、すぐに破顔する。
「お、うん、うん。いいよ、七々瀬さんのサポートのついでだから!生徒会役員のおかげで、るこてん祭、なんも起きなかったし」
「うわ、嬉しいです。良かった」
笑い合う二人へ芳賀山が近づき、声をかける。
「おはよう、高城川くん、三ツ橋くん。朝食の準備をありがとう」
芳賀山の声に、高城川と三ツ橋が居住まいを正す。
「おはようございます」
揃って挨拶をした二人を見下ろし、芳賀山が微笑む。芳賀山の横に立つ七々瀬が、二人の声に挨拶を返す。
三ツ橋は、すぐに顔を上げると七々瀬にもう一度頭を下げて階段を降りていく。軽やかな足音が居間へ響いた。
味噌汁の入った木製の汁椀から、ゆらゆらと白い湯気が立つ。トレイの上には納豆の小鉢とタレがある。
柔らかな出汁と味噌の香りが漂う居間で、朝食を摂り終えたのは、三十分ほど後のこと。高城川に片付けを任せ、七々瀬と芳賀山は部屋へ戻っていく。
芳賀山は、部屋に入る七々瀬を呼び止めた。
「七々瀬。今日は、ぼくに任せてくれるかな」
七々瀬がまばたきをひとつして、顎を僅かに上げる。
「……雨天中止じゃなかったの」
「雨でも、楽しめるところだよ」
芳賀山はそう言うと、七々瀬の腕に触れる。
「支度したら出かけよう」
シャツの上から七々瀬の腕に触れる芳賀山の手が、離れる。
雨はまだ、男子寮の壁を打つ。響いている雨音に紛れ、部屋の扉が閉まった。
♔ ──────── ♚
雨足は少し弱まり、窓を落ちる水滴は時折、形を変えて落ちていくだけに留まっている。山道を下るバスは、僅かに揺れて曲がる度に乗り込んだ生徒たちの体を右へ左へと寄せる。
古高辿学園の生徒が数人、ぽつぽつと座席に座るのみだ。離れた座席にいる生徒たちの視線は、運転席の後ろに座る七々瀬と芳賀山へと頻繁に向かう。
「……遊びに、二人で行ってんのかな」
後部座席に座っていた男子生徒が女子生徒へ、話しかける。
「そんなわけ、なくない?七々瀬さんも芳賀山さんも彼女と彼氏いたし、最近まで……」
女子生徒が口元を手で覆って男子生徒へ顔を近づける。
「友達なら有り得るだろ」
「……あの二人が友達?」
ひそひそと声を潜めて話す声は七々瀬と芳賀山には届かない。女子生徒の言葉を最後に、二人は顔を見合せて口を閉じる。
揺れるバスは、街の停留所で停車する。生徒たちがバスを降りていく。大きく開いた乗降口から、客が乗り込んでくる。
街を通り過ぎ、五つ目の停留所の名前がアナウンスされる。
『次は~、滑手羽駅前、滑手羽駅前』
間延びした声が車内に響く。芳賀山は、停車ボタンを押した。後ろの席に座る七々瀬へ目を向けると、頭を僅かに揺らしている。芳賀山が小さく喉を鳴らす。七々瀬は背筋を伸ばす。
バスから降りてすぐに、揃って濃紺の傘を開く。雨粒が傘に弾かれて、すぐに露先から流れている。
雨のせいか、人は疎らに駅へと向かっている。華やかな色の傘が雨の中、駅の構内へ吸い込まれていく。
芳賀山が腕時計へと視線を落とした。軽く手首を振って、芳賀山がその手を下ろす。
「ここから少し歩くけどいいかな」
「いいよ、どこへ行くの」
七々瀬はそう言うと、湿った空気を吸い込んで軽く眉を寄せる。さした傘を傾け、七々瀬は顔を隠す。
「言ってなかったね。プラネタリウムに行くつもりだよ」
「プラネタリウム?」
傾けていた傘を持ち直し、七々瀬が歩き始める。芳賀山はその横に並び、コンクリートの歩道を進む。
「君が、気に入ると嬉しい」
人通りの少ない広い歩道。傘が触れないよう距離を取る。車道には車がタイヤで水を弾きながら走っている。
ぱらぱらと、弱くなった雨がリズミカルに音を立てる。十五分ほど歩くと、大きな白い建物が見えてくる。中へと入ると、乾いた空気が身を包む。
高い天井と広い玄関ホールにはやはり、人影は少ない。芳賀山が受付を済ませて、ソファに座って待つ七々瀬の元に戻る。
「待たせたね。ちょうど、開演するみたいだ」
「チケットの代金はいくらだった?支払うよ」
ソファから立ち上がり、七々瀬がそう言うと芳賀山はその背に手を当てる。少し湿った胡粉色のシャツに触れる手のひらが、僅かに七々瀬の体温を拾う。
「今日は、ぼくと出掛けてくれたから出させて」
「芳賀山」
「ぼくからのお願いだよ、七々瀬」
口元を緩め、芳賀山は微笑む。七々瀬は持っていた二本の傘の柄を持ち直す。何も答えない七々瀬の背に当てた手をそのままに歩き出す。
ドームの前には飲食禁止の張り紙がある。分厚く黒い両開きの扉は大きく開いており、その奥にもうひとつの扉がある。
スタッフへチケットを渡すと、絨毯の敷かれた床に足を踏み入れる。乾燥した空気と僅かに埃っぽい匂いがしているドーム内はちらほらと客がシートに座っている。話し声すら吸い込むドームの中央には機材があり、男性スタッフがマイクと音響を調節していた。
高く円みを帯びた天井は客席を包み込むように、壁面へ続く。
芳賀山が七々瀬の背中に当てていた手を腰へ滑らせ、ベルトとシャツの境目を包む。手の甲に骨が影を作り、七々瀬の体を引く。
「ぼくたちはこっちだよ」
芳賀山の手を七々瀬が素早く掴む。絨毯の上を踏みしめ、七々瀬は後退る。
「……僕は、やりすぎだと言ったはずだよ。芳賀山」
低く、七々瀬がつぶやく。
「そうだったね、浮つきすぎたよ」
七々瀬に掴まれた手をゆっくりと引き抜き、芳賀山は頷く。
「席はどこに?」
「ゆっくり観覧できるようプレミアムシートをとったから、案内するよ」
一人用、二人用と並ぶシートの奥に、広く面積が確保されている場所があった。そこに丸く柔らかなソファが三つ並ぶ。
緑と濃紺のソファには、クッションと小さなブランケットもあった。
立ったまま動かない七々瀬から二本の傘を受け取り、ソファの脇へ立て掛ける。七々瀬の腕に手を伸ばしかけるが、その手を座面に落としてソファへ座る。大きく丸いソファは、芳賀山が座ってもまだ余裕はある。それでも長身の男二人には、広くはない。
「君、どうしてここを」
「しばらく星空を見る余裕もなかっただろう。ここのプラネタリウムは、解説もおもしろいと岡蔵さんが以前、教えてくれたんだよ」
「なるほど、そういうことか」
七々瀬は頷き、肩から力を抜く。芳賀山の横へゆっくりと腰を下ろす。ぎ、と音を立てて七々瀬の体が深くソファに沈む。芳賀山の灰色のシャツに、胡粉色のシャツが重なって僅かに腕が当たる。
「プラネタリウムだから、天井を見よう」
「天井?」
七々瀬の顎が上がり、喉仏が薄明かりの下に晒される。
「そう、横になって見るものだから。周りのシートもリクライニングするんだよ」
「そういうものなのか、ありがとう」
芳賀山の言葉に、七々瀬は何度か頷く。照明がゆっくりと落とされる。薄明かりで照らされていた客席は一瞬、暗闇に包まれるがすぐに天井の青く柔らかな光で満ちる。
シートを倒す客が、はじまる、と密やかな声を立てる。
芳賀山がソファへと体を倒して、少し端によると七々瀬もまたそっと体を横たえる。
『大変お待たせいたしました。只今より、夏の夜空の世界にお連れします。四十分という短い時間ですが、お楽しみください』
落ち着いた男性スタッフのアナウンスがドームへと響く。
アンビエントの静かなメロディーと共に、天井に映る細かな粒子のような光は瞬き、星座を形作る。解説の音声は囁くように柔らかくスピーカーから流れてきた。時折、客席から小さな声はあがるものの、響くことはない。
芳賀山はソファに用意されていた小さなブランケットを手に取って広げる。柔らかなソファの座面に肘を着き、芳賀山は青い光に照らされた七々瀬の顔へ視線を向ける。
横たわっていた七々瀬の瞼が、ゆるゆると落ちかけている。眉を寄せ、七々瀬の手が目元を押さえる。
広げたブランケットを芳賀山は、七々瀬の膝にかける。
七々瀬は目元を押さえていた手を額に押し当て、芳賀山へと僅かに開く目を向ける。
「なんの問題もないよ、七々瀬」
芳賀山がそう囁くと七々瀬の瞼の下で、ころころと目が揺らぐ。芳賀山はソファの座面についていた肘を緩め、体を横たえる。
暫くすると、静かな寝息が耳に入ってきた。
天井に瞬く擬似的な星空は、ゆっくりと流れていく。
『はい、お疲れ様でした。これから本番となる夏の夜空を、ぜひ見上げてお楽しみください。星や宇宙をコンセプトにしたカフェなども併設しておりますので——』
男性のスタッフのアナウンスと同時に、ドームに照明が点る。
席を立つ客が荷物を持って、座席の合間を降りてくる。感想を言い合う客の声が遠くなっていく中、芳賀山がソファから起き上がる。深くソファへと座り直し、座面に手をつく。
力が抜けて眠る七々瀬の目元が緩み、赤紅色に淡く色づく口元から静かな呼吸音が漏れる。
体を傾けた芳賀山は、七々瀬の肩を叩く。
「時間だよ」
柔らかく囁いた芳賀山の声に、七々瀬の眉間に皺が寄る。瞼が開き、強い光の刺激に七々瀬の手が目を覆った。
「……じかん……」
低く掠れた声音が漏れ出る。芳賀山は眉を下げ、頬を緩めるとソファから立ち上がる。立てかけていた二本の傘を手に取ると、時計に視線を落とす。
「七々瀬」
もう一度、名を呼んだ時だった。七々瀬の体が素早く起き上がり、開いた膝の上に手を置く。真っ直ぐに前を向いた七々瀬が目を見開いて並んだ座席を見つめる。
膝に置いた手を口元へ当てると、その手を目元に上げる。
「ごめん、寝てしまった」
俯いた七々瀬は、目元に当てた手で髪をかき上げる。白い手の下で、七々瀬の短い前髪が落ちていく。
「気にしていないよ、それより出ようか」
ドームには清掃スタッフが入り始めている。七々瀬は腰を上げ、芳賀山へと近づく。
「せっかくのプラネタリウムを台無しにしてしまった、すまない」
七々瀬の手が芳賀山の腕に触れる。眉を下げた七々瀬へ芳賀山は微笑む。
「君が君らしくいてくれたらいいよ」
「……僕は気にする。昼食は僕が」
芳賀山の腕に手を添えたまま、七々瀬は歩き出す。それでも、彼の滑るような足元は変わらない。
芳賀山は七々瀬と共にドームを出ると、施設にあったカフェへと向かう。お勧め、と書いてあったランチプレートと夜空のようなドリンクを、七々瀬は芳賀山に選んだ。
「……水の方が、よかったかな」
そう言った七々瀬に、芳賀山が首を振った。
「君がぼくに選んでくれたのなら、嬉しいよ」
「ありがとう」
小さなテーブルに向き合って座る。座面もさして広くない椅子に二人の長い足が遊ぶ。
七々瀬の手元には芳賀山と同じドリンクがある。
「リラックスできたなら、良かった」
芳賀山はそう呟き、夜空の浮かぶドリンクを手に取った。冷えたグラスは細かな水滴をまとう。
七々瀬は目を伏せ、静かに喉を鳴らす。テーブルの上に置かれた手が緩く握りこまれる。
「それは……そう……困らせないで欲しい」
溜め息が、ランチプレートの上に落ちる。芳賀山は目を細め、夜空を飲み込んだ。
食事を終えて、プラネタリウムを出る頃には雨は小雨になっていた。白い雲が空へ浮かび、濃い灰色の雲に混ざって青い空が垣間見える。太陽の日差しが、濡れた路面に反射している。
バスに乗り込み、芳賀山と七々瀬は後部座席へと座る。二人の膝の間に、濡れた傘が二本立っている。揺れるバスは、傘を支える腕を不安定に震わせる。
「雨があがったね、七々瀬」
窓の外は、柔らかな日差しが溢れている。街並みが通り過ぎて木々の緑が煌めいている。
古高辿学園前のバスの停留所で降りたのは、芳賀山と七々瀬だけであった。エンジン音を響かせ、バスが山を下っていく。
澄んだ山の空気を芳賀山は吸い込み、七々瀬の手のひらへ長い指を滑り込ませる。校門へと向かって足を踏み出す。
「芳賀山」
名を呼ぶ七々瀬の声に、芳賀山はその手を握り込む。七々瀬はその手に視線を落として、息を吐き出す。眉を下げた七々瀬の口角が少し、上がった。




