るこてん祭の終わり
青磁色のシャツを手のひらが滑って、革のベルトに触れる。
開いたカーテンから日差しが差し込み、ドライヤーで乾かしたばかりの七々瀬の黒髪が、薄暗い室内で照らされている。短い前髪が額に落ち、耳から項にかけて整えられた毛先が僅かに浮いている。
棚から洋服ブラシを手に取った七々瀬の手が、壁にかかった正服へと伸びる。ギャバジン生地の上をブラシで擦る度に、乾いた音が鳴る。
黒が鮮やかに蘇り、七々瀬はふ、と息を吐いた。ブラシを棚へともどし、机に視線を向ける。
整髪のために用意したジェルと竹櫛。ただそれがそこにある。
七々瀬は机に仕舞われていた椅子を引いて、机から少し離れたところに出した。その硬い座面に腰を下ろすと、目を閉じて唇を薄く開く。
「……からかいじゃない」
顎を上げて七々瀬はぽつ、と小さく呟いた。膝に乗った手が、黒い正服の上で握りこまれる。
七々瀬の部屋の扉が、ノック音を響かせた。
瞼を上げ、七々瀬の二重の目が開く。顔が、部屋の扉へと向く。
鼻から息を吸って七々瀬は、椅子から立ち上がった。床を踏みしめて、歩を進める。
ドアノブへと手をかけ、七々瀬は息を吐き出す。
手の中の冷えた金属を、ゆっくりと引いた。
「おはよう、七々瀬」
芳賀山が扉の開いた先に立っていた。僅かに芳賀山から、レモンとオレンジの混じる香りが七々瀬の鼻につく。
「おはよう。芳賀山、……何か、付けてきた?」
芳賀山の目が僅かに開き、すぐに緩く目尻が下がる。
「ぼくは、いつも通りだよ」
皺ひとつない青磁色のシャツ、乱れもなく整えられた黒髪と一重の目。芳賀山は、言葉を続ける。
「君、眠れなかったの」
その問いに七々瀬は答えることなく、扉を大きく開いて体をずらす。静かに、芳賀山の足が七々瀬の部屋に一歩入る。
扉を閉めた七々瀬は、奥歯を噛み締めた。芳賀山は部屋の窓際にある机へ歩いていく。開いたカーテンは、窓を覆っていない。ガラスから入る朝日を浴びて、芳賀山の手が窓へとかかる。きぃ、と音を立てて窓を押し開けた。
朝の冷気が部屋へと入り込む。
「七々瀬」
低く、柔らかい声が七々瀬を呼んだ。七々瀬は真っ直ぐに芳賀山のいる窓際に向かう。
椅子へ腰をおろし、七々瀬は芳賀山を見上げる。
「櫛を使って」
「勿論、そうするよ」
芳賀山はそう言うと、七々瀬の机の上にある櫛を手に取る。芳賀山のもう片方の手が七々瀬の髪の上に、添えられる。髪の上にある芳賀山の手は、動かない。
静かに、竹櫛が七々瀬の髪を梳っている。
♔ ──────── ♚
長い指が少し曲がって、テーブルの上にある書類を指し示す。短い前髪が後ろへ流れ、白い額が晒されている。毛筆で引いたような眉が七々瀬の麗しい目元の上で、僅かに下がる。
やすりがかけられた爪が書類の上を滑っていく。
受付のテントには、保健委員、広報委員、風紀委員と生徒たちがいるだけでなく、パンフレットやチラシを貰いに来た客もごった返す。客の対応に忙しくしている生徒たちの後ろに置かれた長机に広げた進行表は、七々瀬の手の下で風に音を立てる。
七々瀬の横にいた高城川が、指先の下に視線を向ける。
「お昼で門は閉じます。それと放送委員には、こちらから定期的に写真撮影やビデオ撮影の注意をするように伝えてます」
「うん、問題なさそうだね。僕に現状の来客情報を見せてくれるかな」
七々瀬がそう言って、手を差し出した。高城川は持っていたバインダーを七々瀬に手渡す。
「ありがとう」
バインダーに挟まれた書類を確認すると、七々瀬は高城川に返すことなくテーブルへ置いた。
「高城川くん、君、ご両親は来ているの?」
「はい、さっき、差し入れに飲み物を持ってきてくれました」
「そう、良かったね。もうすぐお昼だから、三十分だけでも話してくるといいよ」
そう言うと、七々瀬は正帽の庇へ指をかける。手首から手の甲にうっすらと血管と筋が浮かび上がり、正帽は深く頭へと沈む。
「先輩も朝から校内の巡回とか、対応で忙しいのに僕だけ休むわけには」
高城川が首を振った。七々瀬の手が、庇から離れてテーブルの上に触れる。
「一年生は、上級生の言うことは聞くものだよ。花山さんも芳賀山が休ませている」
「七々瀬先輩」
「ご両親も、君の正服姿を見たいだろう。案内しておいで」
「……はい!」
高城川は勢いよくそう言うと、頭を下げた。七々瀬は鼻で息を吸って、小さく口から吐き出す。
「高城川くん」
「すみません」
日に焼けて赤くなった額を高城川は軽く指で掻くと、受付の生徒へ声をかける。生徒たちの背筋が伸びて七々瀬に視線が向く。
七々瀬は笑みを浮かべて、口を開いた。
「お邪魔するよ」
高城川はテントから走り出そうとした足を止めて、息を吸うと大きく足を踏み出す。立ち去る背中を見送って七々瀬は、テントの下から出る。
大きく開いた校門の前には、警備員が立ち並ぶ。その後ろには長机と、チケットの確認をする教師と警備員が座っていた。腕時計は既に十二時半を指し示す。
『ご案内いたします。ステージは只今より一時間の休憩となります。再開は一時半を予定しております』
スピーカーから案内が流れる。落ち着いた音楽が古高辿学園に広がった。
校門をくぐり、受付に来た年配の女性が口元に手を当てて七々瀬を見上げる。
「まあ、綺麗な子ねえ」
七々瀬は会釈し、口元に笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。光栄です。こちらで校内の案内図や、生徒のクラスを確認頂けます」
「ご丁寧にありがとう、孫はねえ、今年入ったのよ。一年三組だったかしら」
女性の言葉に、七々瀬は頷くと彼女の横に立つ年配の男性へと目を向ける。
「お伺いします、出席番号とお名前、頂けますか」
七々瀬の言葉に頷いた男性と女性は、受付に座る生徒たちの前へと進む。そこへ数人の生徒がばたばたと走り寄って来る。
「保健委員いるかな、あっちで転けた子がいてね……」
女子生徒の一人が、七々瀬に気づくと足を止めた。
「あっ」
小さい声とともに、手を取りあって顔を見合わせる。七々瀬の顔が受付の奥へと向くと、保健委員が救急箱を抱えてテントから出てきた。
「君、一人で行ってはいけないよ。風紀委員、ついて行って」
七々瀬がそう言うと、風紀委員の一人が席を立つ。走って行く生徒たちを確認している七々瀬の腕を叩く男の手があった。
「めっちゃかっこよくない?コスプレみたい、なんかの企画?」
若い男と女が笑って話しかけてきていたのだ。彼らを見下ろす七々瀬の目が僅かに細められる。老夫婦の対応をしていた生徒たちの手が止まる。
「恐れ入ります」
七々瀬の言葉にけらけらと笑う男に釣られて女が笑い声を上げた。七々瀬は静かに見下ろすだけだ。
「……なんか怖い」
女がぼそ、と言うと受付の生徒が手を挙げる。
「こちらでパンフレット、案内などを配布してます。チケット、確認させてください」
老夫婦は、小さく七々瀬に会釈をすると手を振って校舎へゆっくりと歩いていく。七々瀬は静かに目を伏せて、挨拶を返す。
その横で男がチケットを差し出した。スピーカーから流れる音楽が途切れる。
『生徒会からのお願いです。当学園では原則、写真撮影、動画撮影は安全面からご遠慮頂いております。写真については、後日ご案内を予定しておりますのでご了承ください。繰り返します』
二度、三度と繰り返される案内に、男が顔を上げた。
「え、写真だめなんですか」
受付をしている生徒が頷く。
「はい、無用なトラブルを避けるために御協力をお願いしてます」
案内をする生徒の言葉に、パンフレットを持った男が女と顔を見合わせる。
「……弟ともだめ?」
「すみません」
謝罪を口にした生徒に、男がへらりと笑う。
「あ、わかりました」
七々瀬の体がゆっくりと、男の方に向いた。
「失礼、ひとつ、追加させていただいておきます」
男の後ろに、女が身を隠した。七々瀬の目が、それを見てゆっくりと微笑む。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「あ、大丈夫……」
女が小さく鈴を鳴らすように答える。男は顔を上げると、口を尖らせる。七々瀬は男を見下ろし、平坦に告げる。
「もし、お身内の方からそのような写真が漏洩したことがわかった場合、罰則が適用されます。ご注意ください」
「罰則って、そんな大袈裟な。写真撮るとか言ってないよ」
「二年、山中くんは三階、奥から二番目の教室にいますよ」
そう言って、七々瀬は頭を下げると正帽の下にその目を隠す。受付の生徒へ一言告げて、七々瀬は校門へと向かう。男がなにか言おうとした時に、生徒が口を開く。
「校舎は、あちらです!」
ぴ、と大きく手を掲げて、生徒の腕が伸びる。男女はなにか言いたげに七々瀬の背を見たが、黙って校舎へと足を進める。
どんよりと厚い雲が空を覆う。少しずつ、太陽は陰り出したが、雨の降る様子はない。七々瀬は正帽を脱いで、教師と警備員に頭を下げる。テーブルが片付き、教師が持っていたチケットやファイルを七々瀬へ手渡す。
蝶番が悲鳴じみた音を立て金属でできた大きな門扉が閉じていく。鍵をかけた警備員が七々瀬に頭を下げる。
空に浮かんだ濃い灰色の雲が流れ、太陽の光が黒い正服を照らす。七々瀬は静かに息を吐き、警備員へ会釈すると受付に戻っていく。
それからほどなくして高城川も戻り、七々瀬へ小さなドーナツの袋を渡した。
「先輩、ありがとうございました」
頭を下げた高城川へ、七々瀬は目を細めて声をかける。
「ありがとう、僕も嬉しいよ。可愛いプレゼントだね」
低く柔らかい声音が高城川の耳に届く。高城川は持っていた紙袋を七々瀬へと差し出す。
「……七々瀬先輩、そういうところだと、僕は思います」
紙袋を受け取った七々瀬は目を見開いた。
「そういうところ?」
「三ツ橋先輩からです!」
高城川がそう添えると頭を下げる。七々瀬の眉間に皺が寄る。
「……君は」
「僕は、昨日、三ツ橋先輩にお世話になったので受けました」
一息に言い切った。七々瀬は、紙袋を持ち直して高城川へ視線を落とす。
「そう、仲が良いね。ありがとう、受け取るよ」
高城川にそう言うと、七々瀬は受付から出て行く。曇り空の下、放送委員が音楽を切り替える。甘い砂糖の香りと油の匂いが木々のざわめきと共に辺りへ満ちている。
運動場に集まる客に混じって、青磁色のシャツの生徒たちが笑い声を上げている。
七々瀬の足が、二号棟へと向かう。
♔ ──────── ♚
ばたばたと、カーテンが風で音を立てる。窓から吹き抜ける風は、少し強い。
生徒会室のテーブルの上に置いてあった箱の蓋を花山が閉じる。その手前にある紙袋が風で押されて、テーブルの上を滑っていく。それを七々瀬の手が受け止める。
「花山さん」
紙袋の中には、破れたビニール袋と紙ナプキンが入っているだけだ。七々瀬の指が、紙袋の折り目に沿って押し畳む。
花山は七々瀬に顔を向けて、すぐに窓へと目を向ける。分厚い曇り空の下、風は強く吹きすさぶ。かっかっ、と固い足音を立てて、花山は窓に駆け寄って閉じる。カーテンを端へ寄せた花山の背に七々瀬は口を開く。
「……お願いしてもいいかな」
花山は、カーテンタッセルから手を下ろして振り向く。
「はい」
「校内の最後の巡回へ行ってくれるかな。もうすぐ、三時になる」
彼女の目が、壁にかかった時計へ向いた。
「わかりました。七々瀬先輩、紙袋、捨ててきます」
差し出された小さな手に、七々瀬は折り畳んだ紙袋を差し出す。
「ありがとう」
「いいえ、私もご馳走様でした。いってきます」
頭を下げ、花山は静かに生徒会室から退室する。閉じた扉を確認した七々瀬は、テーブルの上にある正帽へ手を当てる。
静かに目を閉じると、息を吸い込んだ。黒い正帽が手の下にある。その手が上がり、ジェルで隙なく整えられた髪へ触れる。白い手のひらがゆっくりと額から項に流れていく。
詰襟の白と金の刺繍の上で白い顎が僅かに動いた。
「……嫌か」
瞼が薄く開いて生徒会室の扉へと七々瀬の顔が向く。
扉を叩く音が静寂の広がる室内の空気を割いた。ひとつ、間を置いて扉が開く。僅かに俯いた芳賀山は、正帽を脇へと抱えて扉の隙間から、ゆったりと中へ入る。
閉めた扉は小さな音を立てたのみだ。
振り向いた芳賀山の一重の目が、真っ直ぐに七々瀬を捉える。
「七々瀬、そろそろ時間だよ。おいで、ぼくと行こうか」
その言葉に七々瀬はテーブルの上に置いていた正帽を取る。そうして、丁寧に正帽を脇に差し入れる。
「芳賀山」
七々瀬の手が、黒のギャバジン生地を擦って、ズボンの横に下がる。指を折り込み、その手を握り込む。顔を俯かせて七々瀬は、目を伏せる。
「……君と行ってもいい」
そう、平坦に響く声音が告げる。
芳賀山の瞼が、瞬いた。頬が緩み、一重の目元がゆるゆると解ける。芳賀山の口元から白い歯が覗く。
「おいで、行こう。……返事をありがとう」
芳賀山が差し出した手を、七々瀬は見ることはない。
「閉会の挨拶まで、時間がない」
そう言うと、芳賀山の横に、七々瀬は立つ。芳賀山は七々瀬の背に手を置いて、生徒会室の扉を開ける。蛍光灯が照らす廊下に、革靴の踵が音を響かせる。
るこてん祭は、二日目を終える。




