滲むもの
十八時を過ぎても太陽は、空にある。六月を迎えて日が長くなり、白いスタッコと赤煉瓦の壁が日差しに照らされている。
「明日、母さんと叔父さんまでくるらしい」
「私のとこは、遠いから来ないって」
生徒の声とともに、き、と音が鳴って教室の窓が閉じていく。カーテンが引かれ、教室は二日目のるこてん祭に備えて音が消える。
スニーカーを履いた生徒たちが、明るい日差しの中で寮への道に列を作る。
その奥にある二号棟の生徒会室の窓だけが、いまだ大きく開いている。カーテンが窓枠から風にのってはみ出し、靡く。
その窓枠から、白い手が伸びて窓の取っ手へ指を入れる。黒い正服の袖にある金の飾りボタンが日差しを反射して白く煌めく。
取っ手を引いて窓を閉じたのは芳賀山である。芳賀山の背後にある執務机の上には一纏めにされた書類が丸い文鎮の下で、幾重にも重なっていた。
「拾得物は、こっちが遺失物と照合済みの分で、持ち主不明がこっち。差し入れの申請書の束がこれ。で、これが今日と明日の来場者の書類」
高城川がテーブルの上にある茶色い紙箱の中を指さしている。その横で、花山が頷く。
「わかった。こっちは違反者名簿、こっちがクラスの売上で……あがってきた問題と苦情の報告書、それと明日の外部出店の書類」
高城川は花山の言葉に頷き、視線を紙箱へ落とす。確認済のものには、蓋を閉じていく。花山が付箋に書き込み、高城川が閉じた紙箱の蓋へ貼る。
その横にいた七々瀬は、風紀委員の報告書をファイルに纏めてテーブルへ置く。青い表紙を白い指先が押さえる。顔を上げた七々瀬は、カーテンを引いて日差しを遮っていた芳賀山へ視線を向けた。
「そろそろ、帰ろうか。七々瀬」
カーテンが隙間無く窓を覆い隠す。芳賀山は、淡く漏れ出る柔らかな日差しを背に、七々瀬へ振り向いた。
「……そうだね、明日はもっと忙しくなるから」
そう答えると、七々瀬は芳賀山に向けていた視線を高城川と花山に送る。付箋を貼り終えた花山は筆箱にボールペンを仕舞っている。
「はい、わかりました」
花山が短く答えると、横に立っていた高城川が、あ、と小さい声を漏らす。椅子から立ち上がった七々瀬は、背もたれへ手を置いた。
「……どうしたの?」
一歩、二歩と七々瀬へと向かって高城川が足を進める。
「七々瀬先輩、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、大きな問題もなく一日目が終わったのは高城川くんと花山さんが頑張ってくれたお陰だよ」
七々瀬は、頬を上げて口角を緩める。
「いえ、三ツ橋先輩から軽食を頂きました」
「それは、僕じゃなくて三ツ橋くんに伝えてくれたならそれで十分だよ」
七々瀬の返答に、高城川は頭を下げる。
「はい、三ツ橋先輩から七々瀬先輩にお礼を言うようにと言われました」
「そう、それは良かったね」
高城川は降ってきた平坦な声音に、顔を上げる。七々瀬の目は高城川を見ていない。高城川の背後にある生徒会室の扉へと向けられている。
「あの、七々瀬先輩、僕が三ツ橋先輩に……」
口を開こうとした高城川だったが、芳賀山の柔らかく静かな声が遮る。
「六時半を過ぎてしまう。帰ろう」
明るかった外の日差しは、ゆるゆると彩度を落としていく。赤の混じった光が、下がっていく気温と共に白いスタッコと赤煉瓦の壁を染めている。
帰り支度を済ませ、寮へと続く道へ差し掛かった時だった。
「僕が、花山さんを送ろうか」
七々瀬の申し出に、声もなく花山は横にいた高城川の腕を掴んだ。花山の細い指が高城川の腕に突き立つ。
「いっ」
短く声を上げて、高城川は指が突き立つ腕と花山を見比べる。花山は強い視線を高城川へと送る。七々瀬と並び、前を歩いていた芳賀山が足を止める。
夕暮れの暖かい色の日差しと、少し冷えた風が寮へと続く道を吹き抜ける。整備された道からは細かな砂埃が舞う。
「七々瀬が送るの?」
「高城川くんよりは、疲れていないから」
高城川は花山の強い視線に眉を寄せていたが、弾かれたように顔を七々瀬の背中へと向ける。
「あ、いや大丈夫です」
そう言った高城川に、七々瀬と芳賀山が音もなく振り向く。金の飾りボタンと首元の刺繍が、二人の白い顎を浮き立たせる。
正帽の庇の影の下で、黒子のある口元が弧を描く。
「君は、明日も中央受付で、頑張ってもらうからね」
高城川の腕を掴んでいた花山の手がいつの間にか離れていた。少し日に焼けて赤くなった高城川の喉仏が大きく動く。
「高城川くん、ぼくと先に戻っていようか」
そう言われて、高城川は頷く他ない。
「七々瀬先輩、ありがとうございます」
花山は七々瀬の横に、駆け寄った。ぴっちりと纏められた花山の黒髪が七々瀬の肩の横に並ぶ。七々瀬の顔が僅かに俯き、彼女へと向く。黒い庇に隠れた目元は見えない。
歩き出した七々瀬を見送る高城川に、芳賀山は口を開く。
「高城川くん、君、真面目だね」
「ありがとうございます……」
ぽつ、とそう言った高城川は、埃で白く濁ったストレートチップの革靴をゆっくりと前に出す。芳賀山もまた、艶やかな靴先を進める。
「前に、話したことがあったね」
「……ファンクラブの件ですか」
「そう、君に任せた件だよ」
高城川は、唇を舐めて頷くと横を歩く芳賀山を見上げた。
「ぼくが君に任せたのはファンクラブの件だよ。高城川くん」
正帽の庇の下にある一重の目が、静かに高城川を見下ろす。
「はい」
小さくそう言って高城川は口元に力を入れ、太腿の横にある手を握り込む。
「すみません、踏み込みすぎました」
息を吐いて、乾いた地面を進む足元へ高城川は、視線を落とす。芳賀山の手が高城川の肩に、軽く触れる。
「大丈夫だよ、ぼくも少し踏み込んだところだから」
肩に触れた手をすぐに離すと、芳賀山は前を向く。高城川は地を踏む足元から視線を上げた。
「……芳賀山先輩がですか?」
寮はもうほど近い。ポールライトの灯りがぽつぽつと道を照らし出す。
「正服を整えておいた方がいい。不安ならぼくが教えるよ」
「問題ありません、ゴールデンウィークに母からやり方を教わってきました」
そう言うと高城川は、芳賀山を追い抜き寮の玄関を開く。
寮の中から漂うトマトの濃厚な香りと生徒たちの溢れる声。芳賀山は、正帽を手に取って答える。
「そう、良かった」
「はい、夕食は七時で大丈夫ですか?」
「問題ないよ、いつもありがとう。高城川くん」
微笑む芳賀山は、高城川が開いた寮の扉の奥へ吸い込まれていく。高城川は、それを確認すると大きく息を吸って吐き出す。寮の扉は、中へ入る高城川と共に静かに閉じた。
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正帽と正服をハンガーにかけ、壁へと吊るす。小さく溜め息を吐いて、七々瀬は目元を押さえる。
薄く開いた唇から、さらに深く呼気が漏れ出る。眉を軽く撫で、手を下ろすと七々瀬は着替えを済ます。
若菜色のシャツの襟を正し、台襟のボタンに指先が触れた。留めたそのボタンを七々瀬の指が解く。
部屋を出ようと戸の前まで行くも、七々瀬は立ち止まり、台襟のボタンを留める。ドアノブへ手をかけ、七々瀬は居間へと向かう。
四階の居間にあるダイニングテーブルには、既にトレイが並べられており、高城川と芳賀山が立っていた。トマトとコンソメの匂いが居間を満たす。トレイにある皿の上に、トマトソースで赤く染まった鶏腿肉が乗っている。
七々瀬が歩み寄ると、高城川は静かに頭を下げた。顔を上げた高城川が七々瀬を見上げる。
引き結ばれた唇は薄く、色が僅かにあるだけだ。
「ごめんね、待たせてしまった。高城川くん、食べよう」
七々瀬は高城川にそう言うと、椅子を引く。高城川の口元が緩み、肩の力が抜ける。
「はい、七々瀬先輩」
芳賀山が頷いて、席へと座る。
「明日も、お昼ご飯が食べられるか怪しいからね。しっかり食べて、寝よう」
テーブルに手を添えて、芳賀山がそう言った。
「うっ……はい……」
目を閉じて、高城川は返事をした。七々瀬は黙って、椅子に腰を下ろす。高城川も座ると、手を合わせる。
皿の上にあった、トマトで煮込まれた鶏腿肉は箸で簡単に解ける。茹でた人参やじゃが芋、アスパラガスの温野菜に、鮮やかな萌葱色のソースが垂れていた。料理に合わせて芳ばしい香りが立つパン。
ボリュームのある食事を食べ終えると高城川は、目を擦って立ち上がる。空腹を満たした体が、芳賀山と七々瀬の前で揺れる。芳賀山の手が揺れる高城川の腕に添えられた。
「高城川くん、部屋に戻ろうか」
閉じかけた目を開き、高城川は首を振った。
「いえ、片付けます」
「困ったね」
芳賀山が立ち上がると、七々瀬も席を立つ。七々瀬は、トレイの上に食器を重ねはじめる。
「高城川くん、寝ておいで」
陶器の重なる音の上に、高城川の手が伸びる。
「七々瀬先輩、僕がやりますので」
芳賀山の手が、そっと高城川の手首を掴む。
「芳賀山先輩」
「明日に備えよう、高城川くん」
柔らかくそう言って、芳賀山が高城川の手を引いた。
「すみません……七々瀬先輩……」
高城川は芳賀山に連れられて部屋へと戻っていく。七々瀬はそれを見送ると、テーブルの上のトレイを綺麗に重ねて持ち上げる。
そこへ三ツ橋が階段をのぼってきた。七々瀬がトレイを持っている様子に気づくと、小走りに駆け寄ってきた。
「七々瀬さん」
テーブルの前に立った三ツ橋が、手のひらで七々瀬の持つトレイをさす。
「僕がやりま……するよ」
「こんばんは、三ツ橋くん。ありがとう、助かるよ」
かた、と音を立ててトレイをテーブルへ置いた。それを三ツ橋の手が掴んで引き寄せる。
「そんな」
「みんなにも、お礼を伝えておいて。今日は差し入れも、ありがとう」
七々瀬はそう言うと目を細めて、柔らかい笑みを浮かべる。トレイを掴んだ三ツ橋の手の甲に血管が浮き出た。顔が明るく、輝く。
「……はい、はい、喜ぶと思います!」
テーブルからトレイを持ち上げると、三ツ橋は頭を軽く下げて一階の食堂へと向かう。七々瀬は階段の下へと消えていく三ツ橋の頭を確認すると、部屋がある奥の廊下に顔を向ける。
廊下の奥は、室内灯で明るく照らされている。まだ料理の匂いの残る居間に、柔らかい室内履きの底で床を擦る音が響く。
七々瀬は廊下の奥へと向けていた視線を、テレビの前に置かれたソファへ落とした。椅子をテーブルに寄せ、七々瀬の足は部屋ではなくソファの前に進む。
硬い座面に腰をおろして七々瀬は背もたれへと体重を預ける。瞼を静かに下ろし、七々瀬は顎を上げる。
階下で生徒たちの物音が立っている。僅かに居間へ響く生活音。七々瀬は大きく息を吸って、若菜色のシャツに覆われた胸を膨らませる。
すると、廊下の奥で部屋の戸が開く。戸を閉めた気配に七々瀬は背もたれに預けていた体を引き上げて、腰を上げる。
「珍しい、七々瀬か」
シャツの裾を引いて、服を整えていた七々瀬はその声に振り向く。曽祢がバスセットを手に、七々瀬を見ていた。
「曽祢先輩」
「昼は、姉が迷惑をかけたな」
足音を立てソファに近づいた曽祢がソファに腰掛ける。持っていたバスセットを曽祢が脇へ置くとゆったりと背もたれに体重をかける。
曽祢の目線が下がる。
「いえ、差し入れありがとうございました」
七々瀬はそう言うと、ソファに座った。背筋を伸ばし、曽祢に膝を向ける。
「なにかあったか」
眼鏡のブリッジを押し上げ、曽祢が顎を上げる。七々瀬は目を伏せ、その目を瞼の下で揺らす。
「聞くだけ聞く」
曽祢がそう言うと、七々瀬は目を開く。
「なんだ」
「……出掛けようと誘いを受けたのですが少し、迷っています」
鼻を摘んで、口元へと曽祢の手が下がっていく。曽祢の片眉が上がり、目を眇める。
「そっちか」
七々瀬は頭を下げ、僅かに掠れた声を出す。
「……すみません、失礼しました。僕は部屋に戻ります」
そう言って立ち上がった七々瀬に、曽祢は顎を上げる。
「七々瀬」
ソファに座る曽祢が、七々瀬を見上げる。レンズの奥で曽祢の目が細まる。
「聞くくらい迷う相手か」
「不調法なことをしました」
「嫌か」
曽祢の短い問いに、七々瀬は眉を下げる。口を開きかけたが何も答えず、七々瀬は会釈をする。
バスセットを曽祢が手に取って、立ち上がる。七々瀬の背中に曽祢の手が触れた。曽祢は静かに階段をおりていく。
七々瀬は唇を舐め、目元を指で覆う。ひとつ、息を吐いて部屋へと戻った。




