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準備がはじまる

 濃い焦茶色の壁に、真っ白い模造紙が貼られている。三枚の大きな模造紙には、手書きの文字で生徒名と数字が綴られている。

 職員室の前には生徒たちが、朝から入れ替わり立ち替わり、貼られた模造紙を見に来ているのだ。

「うわ、赤線下……」

 呻くように呟く生徒もいれば、確認を終えて何事か話しながら立ち去る生徒もいる。塊のように蠢く生徒たちは騒がしい。

 大食堂の扉を開け、出てきた花山はひとつに纏めた髪を振って、騒がしい声に顔を上げた。靴箱の前にある、階段の奥の廊下から響いてくる声。

 腕に抱えていたファイルを胸に、花山は職員室の前へと足を進める。近づいた花山に気づいたのは、そこにいた人波に押されている一年生の生徒だ。

「あ、花山さん」

 その一言で、その場にいる生徒たちの視線が花山に集まった。花山の顎が僅かに引き、ファイルを持つ手に力が入る。

「……なんの集まり?」

「中間試験の結果だよ」

 彼女がそう言うと生徒たちの視線が千々に乱れ、花山から離れる。ほ、と花山の口から息が漏れる。

 それから、彼女は鼻から息を吸い込む。

「確認した生徒は、速やかにその場を立ち去ってください。ここは職員室前です」

 凛と張った声が響いた。しかし、生徒たちは反応する様子がない。花山はファイルを胸から下ろし、口を開いて空気を肺に取り込む。

「三年生、二年生、一年生の皆さん。ここは、職員室前です。確認した生徒は速やかに立ち去ってください」

 その声に、生徒たちの視線が花山へと向かう。彼女はその視線を受け止め、微動だにしない。

「生徒会、会計の花山です。指示に従ってください」

 真っ直ぐに見返す花山の視線に生徒たちが口を噤み、散り散りに場を離れていく。静かになった職員室前には、まだ確認ができていない生徒だけが残る。

 花山も歩を進め、模造紙の貼られた壁の前に立つ。一年生の生徒が花山に話しかける。

「助かった、ありがと。見えなかったの」

「いいの、それより確認したら戻りなね」

「はい、会計さん」

 ふふ、と彼女は笑うと花山の肩を叩いて小走りに去っていく。それを見送った花山は、模造紙へと視線を向ける。

 一位 高城川純

 二位 花山佳苗

 表記された名前の横には、点数がない。花山は、二年生の順位表に視線を走らせる。

 一位 芳賀山皇大郎

 二位 七々瀬遥輝

 書かれている名前に、花山は小さく頷くと踵を返す。生徒会室のある二号棟は校舎から出なければ、行くことはできない。

 生徒会室の扉を叩き、花山は一拍置いてドアノブに手をかけた。音を立てぬように開いた扉から、芳賀山の濃紺の背中が、花山の目に入る。

 半開きになった扉から奥に顔を向けると、七々瀬と目が合う。

 書類を捲っていた手を止め、七々瀬は扉の前にいる芳賀山を呼ぶ。

「芳賀山」

 芳賀山の体がテーブルの横へと動く。七々瀬の座っている執務机の前の席に、芳賀山は近づく。

「どうしたの、七々瀬」

 花山は生徒会室に入り、扉を閉める。

「君、扉の前だったよ」

 七々瀬がそう言うと、書類へと視線を戻す。芳賀山は、花山へと向き直る。

「花山さん、おかえり。出店の方向は決まった?」

「決まりました。揃ったので書類の作成を今から高城川くんにお願いします」

 花山が答えると、テーブルの端に座っていた高城川が弾かれたように顔を上げる。

「揃ったの?!」

「それはそうでしょ。遅いくらいだよ、一応食堂だからあまり例年と変わらないって」

「パンフレットの印刷に入るところなのに……外部出店扱いだったよね、それ」

 高城川がそう言うと、花山は頷く。書類を数枚取り出して、高城川の前に置いた。

「……岡蔵先輩、図書館かな。印刷を頼まないと」

「委員長だからって毎日図書館にはいないと思うよ」 

 花山はそう言うと高城川からひとつ離れた席に座る。

「今週末には各クラスから申請書が来るし」

 高城川が、溜め息混じりにそう呟く。花山はテーブルの上にあるノートパソコンを開いて、高城川に顔を向ける。

「高城川くん」

「何?」

「会計とかわる?」

 笑顔で花山がそう言うと、高城川は口元に手を当てる。

「ごめん、そっちも大変だった」

「うん、そう……あ、ねえ」

 彼女は大きく頷き、ノートパソコンの画面に視線を戻したが、すぐに高城川へと声を抑えて話しかける。

「ごめんって」

「違う、試験結果、見てきた」

「……俺と、花山さんで一位と二位でしょ?」

 高城川が同じく声を抑えて答え、少しだけ花山へ体を傾ける。

「そう、芳賀山先輩と七々瀬先輩も一位と二位」

「俺ら順位落とせないってことか」

「……落とすつもりあったの?」

 花山が眉を顰めてそう言うと、高城川は口を引き結ぶ。 

 何度か口を開こうとした高城川だったが、顔を伏せてUSBメモリーを手に取り、席を立つ。

「会長、岡蔵先輩のところに行ってきます。どちらにいるか、わかったりしますか」

「カンニングの罰則対応についてだけど……」

 七々瀬へ言いかけていた芳賀山の視線が高城川へと向く。

「どうだろう?……吹奏楽部に確か、図書委員がいたはずだよ。行ってみて」

「わかりました」

 椅子をテーブルへと寄せると、高城川は頭を下げた。踵を返し、生徒会室の扉へ向かおうとした高城川に芳賀山が声をかける。

「それと、高城川くん」

 微笑む芳賀山に、高城川は振り向く。

「ぼくと岡蔵さんは友人だから、聞かれても今後は困るかな」

 七々瀬は、小さく口を開き息を吐く。

 高城川の口から、はい、とだけ返事が落ちて生徒会室から出ていった。


♔ ──────── ♚


 ぎい、と七々瀬は扉を開き、薄暗い室内を横切った。窓を覆うカーテンを軽く捲って、鍵を開く。

 真新しい萌葱色のカーテンが、開け放った窓から入り込む風に膨らみ、靡いた。黄ばんだ布に覆われた黒板の上には、白梅が彫られた時計がある。動かない針は、文字盤の上で七と二をさしている。

 教卓もなく、隅にパイプ椅子と机が幾重にも重なっていた。その横にはセーラー服と学ランが描かれた絵画がある。

 七々瀬は、風で膨らむカーテンを手で掴むと、しゃあ、と音を立てて開いた。

「あの」

 準備室、と書かれた部屋の外から、七々瀬の背に声がかかった。七々瀬はカーテンから離した手で、口元を覆って咳払いをして振り向く。

「待たせてしまったね」

 舞う埃がローファーに白く落ちる。

「さあ、入ってきて」

 七々瀬は穏やかな声音でそう言った。吹き込む風が、前髪を眉の上で浮かせる。白い肌に影を作り、くっきりとした二重の目が開け放たれた扉の奥にいる生徒たちを見る。

 顔を見合わせて、おずおずと入ってきた彼らはブレザーの前で手を組む。

「学年、クラス、出席番号と名前を、二年生から順番に」

 窓の外から、運動部の声が通る。五月の半ばの、強い日差しを受けて濃紺のブレザーが深く蒼く色を帯びる。

 七々瀬の前に並ぶ生徒は、一人一人、答え始めた。

「二年四組二十四番」

 七々瀬の顎が僅かに上がる。

「順番に」

 口を開いた生徒の肩を、横に立っていた生徒が叩いた。そうして、生徒たちは並び直す。

「すみません、副会長」

「罰則を受ける機会ははじめてだろうから、気にしないで」

 口元に笑みを浮かべて、七々瀬が言うと謝罪を口にした生徒の喉が鳴った。

「二年三組の五番——」

 先程と違う生徒が口を開いて名乗る。七々瀬はそれを静かに見守っている。次々に名乗りを終えた生徒は、ブレザーのポケットから学生証を取り出す。

 はじめに名乗った生徒が学生証を回収すると、七々瀬の元に持ってきた。

「副会長、学生証です」

「預かるね」

 七々瀬の骨張った手に学生証が置かれた。

「はい……あの、それで……」

「罰則について説明を始めるよ。君が、代表で聞くの?」

「あ、いえ、すみません」

 そう言うと、慌てて生徒は列へと戻る。

「君らには準備室の清掃をお願いするね。清掃用具については、美化室で貸出される。終了時には生徒会室へ代表者が一名、声をかけるように……」

 七々瀬は、軽く眉をひそめて口元を覆う。それから、背を向けて咳を何度かすると、向き直った。

「埃っぽいね……」

「大丈夫ですか」

 並んでいた生徒がポケットからハンカチを取り出す。それを七々瀬は手で制す。

「ありがとう、大丈夫」

 目を細めて、微笑む七々瀬にハンカチを渡そうとした生徒が息を飲む。口元を覆っていた手がおり、顎にある黒子が露わになる。

「期間については、最大で三日を予定している。学生証にはカンニングをしたことで黒印がつく。君たちの進路に関わると、理解しておいて」

 説明を終えた七々瀬は、質問があるかと、問う。生徒たちから質問は出なかった。白く濁った空気の中を七々瀬は滑るように横切って、準備室を出る。

「扉は閉めないでね」

 そう、最後に声をかけて七々瀬は生徒会室へと戻った。電卓を叩く花山と執務机に座る芳賀山が七々瀬に気づく。

「七々瀬先輩、ありがとうございました」

 花山が席を立ち、頭を下げた。

「気にしないでいいよ。花山さん」

 生徒会室の扉を閉めた七々瀬が、振り向いて花山に顔を向ける。

「君は会計だろう」

「ありがとうございます」

 もう一度、花山は礼を口にすると、席へと座る。彼女はすぐに電卓へと、手を伸ばす。七々瀬は花山の後ろを通り過ぎて、執務机の前に立つ。

 軽く机の上へと、七々瀬の指が触れる。

 俯いていた芳賀山の顔が上がり、書類の上の手が止まる。その手にあったペンを、こと、と机に置く。

「芳賀山、学生証だよ」

 七々瀬は預かった学生証を差し出す。

「黒印を打っておいて」

 続けて言った七々瀬は、執務机にある書類へ重ならぬよう学生証を置く。芳賀山はそれを確認すると、椅子から腰を上げる。

「ありがとう」

 芳賀山は学生証を一纏めにすると、七々瀬の髪へと手を伸ばす。

「頭を下げて」

「芳賀山」

「君の髪に、綿埃がついてる」

 手を上げた七々瀬が指先を前髪に滑り込ませた。左右に揺らして、髪を後ろへと流す。

「とれていないよ」

 芳賀山は七々瀬の整った眉の上に影を落とす。

「七々瀬」

 指先が耳の上にある髪を摘もうとした芳賀山の手を、七々瀬は手のひらで押さえる。

「どこ?」

 芳賀山の視線が、耳の上に向かう。七々瀬の指が耳の上にある髪を払うと、小さな綿埃がふわふわと床へ落ちる。

「とれたね、七々瀬」

 芳賀山の低く、柔らかい声。

 がたん、とテーブルを打つ樹脂の音が響く。その音に七々瀬が振り向くと、机の上の電卓を花山が手で押さえている。

「花山さん」

 七々瀬は、花山に近づいてテーブルへと指先をつける。彼女は電卓から手を離すとテーブルの上の領収証を数枚、拾い上げる。

「何か問題があったなら、教えて」

 七々瀬がそう言うと、花山は首を振る。

「いえ、大丈夫です。領収証の確認のため、少し出てきます」

 彼女の手元にある領収証に、七々瀬は視線を落とす。

「僕も行こうか」

「問題ありません、七々瀬先輩」

 素早く頭を下げた花山は生徒会室から出ていく。七々瀬はそれを見送ると椅子を引いた。眉を下げ、僅かに口が開いて息を吐く。

 席へと座り、手元にある書類を一枚、二枚と持ち上げた後に、七々瀬は顔を上げる。

 芳賀山が引き出しから黒印を出して、スタンプ台に押し付けているところであった。

 黒いインクがついた印面が、学生証につく。

 七々瀬は何も言わずに、書類へと視線を向けた。 


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